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駐車場にある車のキーを解除する。これから、自分の車に譲さんを乗せるんだ。そう思うと、怒りで熱くなっていた感情が徐々に落ち着いていった。
助手席のドアを開けて、譲さんに中に入るように促した。
「どーぞ。乗ってください」
「あ、ありがとう……」
ドアをゆっくり閉める。車外から中を見詰めて、いつもは女性ばかり乗せている席に、大切な人が座っているのを確認して運転席側のドアに回った。
「辻浦君、どこ行くの?」
譲さんはまだどうしていいか解らないといった様子で、視線を泳がせていた。
「行きたいとこありますか?」
「お腹が空いた……かな」
夕食を中断されて無理矢理連れて来られたんだ。それはそうだろうな、と考えを巡らせてそして、思った。
――やっと、この人に食べてもらえる。
「OK。じゃあ、俺のオススメの場所案内します」
車を発進させて、CDを再生させた。大して気に入っていたわけでもなかった、流行の海外アーティスト。
それが今日この瞬間から、何百何千と知っている曲の中で、一番大切な曲になる。
譲さんと聴いている。同じ音楽を共有している。同じ音に耳を傾けている。
曲はバラードで、ありきたりだが恋愛の曲だ。ふと今なら言えるかと思って、ハンドルを操作しながら譲さんに問い掛けた。
「譲さんって、彼女とかいないんですか?」
「うん、いないよ」
いない。
本人から否定されて心の底から安心した。まだ、俺がこの人に一番近しい存在になれるかもしれないんだ。
その後は浮かれた気分を抑えきれず、自分でも分かるくらい上機嫌で譲さんに話し掛け続けていた。
譲さんは若干口篭りながらそれでも一生懸命に答えてくれて、それが物凄く可愛くて、今すぐにでも車を停車させて譲さんに触れたい欲求を抑えるのも一苦労だった。
自分の部屋があるマンションを視界に捉えた。車を駐車させて、店に連れられるとばかり思っていただろう譲さんはキョロキョロと忙しなく周囲を見回している。
放っておいたら逃げてしまうんじゃないか。
気がつくと、俺は譲さんの手を握っていた。部屋までの距離がいつもより遥かに遠く感じる。この間に、逃げ出されてしまわないかという思考に至るのは何でだろう。
何故こんなに心配なのか解らないけど、俺は絶対に手を放さないように譲さんの手をぎゅっと握った。
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