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夕食の準備をしながら、リビングの様子を窺う。
普段自分が落ち着いているソファーに譲さんがいる。自分が見ているテレビの画面を見ている。些細な事に、胸が熱くなる。あの人に関する全てが新鮮だった。こんなに充実した時間、あの人が関わっていない時に一度だって味わえなかった。
ビーフシチューを温めながら、キッチンの引き出しに忍ばせていた待ち針と絆創膏をそっと取り出す。
針の先を、躊躇うことなく左手の薬指の先に突き刺した。
「っ……」
針を抜いて、もう一箇所。もう一箇所。もう一箇所……。
十以上の小さな穴を開けてから漸く赤い点が連なり玉になる。
高鳴る胸に呼吸が僅かに乱れるのを感じながら、鍋にたっぷりと入ったビーフシチューの上に指を翳した。
ぽとりぽとりと数粒の赤がビーフシチューに溶け込んでいく。
それを見届けて、俺は自分の指に絆創膏を巻きつけた。
「うわっ、美味しい」
「そうですか? 良かった」
目を輝かせてながら、動きを止めることなくスプーンを口に運ぶ譲さんを見て、心の中では泣きそうな程の歓喜に震えていた。
本を読んで落ち着いている時、うろたえたり、焦ったりしている時、譲さんの笑顔を見ることは出来なかった。
困ったようにはにかむ姿は見れても、こんな風に心の底から嬉しそうに微笑む表情を見れたのは初めてだった。
――「幸せ」。
幸せって、こんな所で感じられるものなのか。
今まで付き合ってきた彼女と行きたかった場所を旅行した。心が通い合ってセックスをした。何気ない会話に花を咲かせ、「愛してる」と言われた。
家族とたくさんの温かい時間を過ごした。色んな場所に連れて行ってもらえた。プレゼントを貰った。プレゼントを選んだ。たくさん褒められた。いい成績を残したいと努力することが出来た。気心の知れた友人にも恵まれた――
それだって十分幸せだったじゃないか。
幸せだって、実感したことは無いけれど全て幸せだったんじゃないのか。
けれど、違う。次元が違う。
特別な事なんて何もしていない。金だってたいして掛けていない。ただ、俺が作ったビーフシチューを譲さんが「美味しい」と言って食べているだけの事。
たったそれだけのことで。
俺は今、世界中の誰よりも幸せだと感じている。
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