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 二十四歳。  三月三十一日。春。  美波は大学を無事に卒業して、明日からは都内まで通勤し商社で事務として勤務するようだ。父さんは赴任期間を終えて先月家に戻ってきていた。  今、家には母さんと父さんと、そして美波が三人で暮らしている。  僕が一人暮らしを始めてから、一年があっという間に過ぎていた。 ***  あの日、辻浦君が運び込まれた病院で僕を見た辻浦君は、虚ろな瞳で「……誰ですか?」と、一言、言っただけだった。それっきり、窓の外を見てぼうっと佇んでいたのを覚えている。  不幸中の幸いで時期も二月の半ば、大学の試験も終わり春休みに入るところだったから、休み中に辻浦君の骨折した腕と足は大分回復したらしかった。  複雑骨折などではなく、綺麗に折れていた事と辻浦君自身の自然治癒力からだろうか、全治三ヶ月と言われていたそうだけど二ヶ月でほとんど回復したらしい。   結局、辻浦君の記憶はいまだに戻る気配を見せていないらしかった。  辻浦君が失った記憶は、事故から一年前までの期間、つまり一年の間の記憶だけが綺麗さっぱり消え去っていると言う事だった。所謂、記憶喪失と言うものらしい。  歩道橋の階段から落ちた際に、頭を打ったという辻浦君。その時のショックからだと言う。それでもその一年の記憶を失った以外には、生活に支障が出るような事はなにも無かったようだった。特に、その一年間で学んだ勉強の内容などはちゃんと残っているようで、大学で留年するような事態は免れている。辻浦君は留年することなく、無事にこの春、大学を卒業したらしい。   単純に、「思い出」と呼んでいいような、一年の間に築いた人との交友関係、記憶は失っている。つまり、付き合って一年経っていなかった美波の事を、辻浦君は何一つ憶えていないけれど、それ以前から知り合っていた友人や親戚などの事はしっかりと記憶している。ただし、その友人や親戚の記憶についても一年の間の記憶はぽっかりと消え去っているらしかった。  僕とのあの出来事も、辻浦君は、その記憶の中から失ったらしい。  記憶喪失と言うものは、ある日突然その記憶を取り戻したり、或いは一生取り戻さなかったりと事例は様々で、部分的に記憶を取り戻しても結局全てを思い出すことは出来なかったとか、それはもう何というか、誰も解らない事、のようだった。
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