きみのみあととおもいつるかも

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「・・・勝己?」  咎めはしない。  確認の声だ。  唇に指先を押し当てたまま、憲二が振り向いたのが目に入る。  「・・・ごめん。いるとは思わなかった」  声を低めて謝罪すると、首を小さく傾けて、ふっと笑った。   「べつに?勝己だもの」  目元がかすかに潤み、いつもは白すぎる頬が僅かに桜色の紅をさしたように色づいていた。  花の香りがむせかえるように、濃い。  軽い目眩を感じた。   まだ十五歳の自分には、憲二の放つ壮絶なまでの色香は毒と言っても良い。  でも。  その毒がたまらなく欲しいと思い始めたのはいつのことだったか。  彼以外のものは全て色あせて見えると気が付いたのは、まだほんの幼い頃からだ。  憲二がいて、自分はいる。  でも。  憲二は違う。 「・・・甘夏の花の匂いって、けっこ凄いな」  思いを断ち切りたくて口を開いた。  「・・・ああ。移り香がつくくらいだからな」  ゆったりと、満足げに微笑む。  誰の服から香ったのか。  なぜ、ここに来たのか。  なぜ、そんなにも綺麗に微笑むのか。  憲二は想いを隠そうともしない。 「・・・良い匂い」  そんなに、幸せそうに笑わないで欲しい。  あの男は、けっして、振り向かないのに。   きつく握った拳を背中に隠した。 「・・・俺は、もう行くよ。家庭教師が来る時間だから」 「そうか?」  この家では誰の想いも一方通行だ。  決して報われることのないまま、見えない鎖で全員が繋がっている。  亡き妻しか見えない父。  初恋に執着する母。  無償の愛を求めた長兄。  主の息子に魅入られた家政婦の息子、峰岸。  そして、長兄しか見つめない彼の背中に縋る憲二。  その虚しい行列の最後に、自分が加わる。  振り向かないのは、わかっていた。  いつでも、憲二の視線の先には峰岸がいる。  彼の後を追い、気を惹くためなら己を傷つけることもいとわない。  自分はただ、これ以上憲二が壊れてしまわないことを願って見守るだけだ。  繊細で矜持の高い憲二は、他人と心を深く交わそうとはしない。  自分は弟だから、そばにいることを許される。  気が向けば、指先を絡めて笑ってくれる。  彼を、見つめ続ける権利を与えられたことに、感謝しよう。
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