10.遠くにある路地

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10.遠くにある路地

 僕は小走りにベンチの列を抜ける。離れたところから峡さんに向かって声をかけようとした時、隣に立つアルファの男が峡さんの腕に触れた。あの男はなんだ?  僕の足は一瞬止まったが、その時峡さんがこちらを見た。 「三波君」  彼の声は人混みの中でもちゃんと聞こえた。生身で会うのは佐枝さんの事件時以来だが、日頃のチャットでのやりとりのせいか、もっと頻繁に顔を合わせていたような気分だった。でも今日の彼はあの時のように疲れた表情はしておらず、僕はまずそのことに安心した。 「遅れてごめん」 「たった五分ですよ。遅刻に入りません」  モバイルで話したときと同じ、すこしかすれた響きだった。峡さんのスーツは艶感のある薄いグレーで、ライトブルーのシャツの首元から下がるタイはダークグレーだ。斜めに入れられた臙脂色のアクセントが効いている。  近づくとほのかに汗とほろ苦さのまじったシダーの香りが漂った。僕は無意識に近づこうとする自分にはっとして、抑える。犬じゃないんだから!  峡さんは僕より少し背が高いが、見上げるほどでもない。きれいに撫でつけた前髪のひと房だけが乱れてひたいにかかっているのがセクシー――いや、ダメだって。そんなことを考えるのをやめろ。  そうやって頭の中をめまぐるしく飛び交う考えにかかりきりだったせいで、上から降ってきた陽気な声に反応するのがすこし遅れた。 「佐枝さん、彼が待ち合わせの?」 「あ――そうです。今日はどうも、申し訳ない」 「まさか。俺も直帰にできて楽だった」  僕はあわてて峡さんの横に視線をやる。アルファの男が正面から僕をみた。見下ろすようにまっすぐに(不躾にといってもいい)こっちを見つめるのはアルファあるあるで、僕は反射的に睨みつけそうになって眼をそらす。  男はスーツのジャケットを片手に持ち、洒落たボタンデザインシャツにノータイ、ちらっと見えた足元はウイングチップの靴だ。うちのボスよりも年上だろうが峡さんよりは若造だ。僕は男に軽く会釈して、峡さんに「どっちの方向ですか?」と聞く。 「あっちなんだが――」  峡さんは手を軽くあげて公園の向こうを指しながら、すこし困ったように目尻を下げた。隣のアルファを見上げて「真壁さん、今日はどうも――」といいかけたところを、くだんの男が無邪気な声で遮る。 「佐枝さん、もう行きます?」 「何か?」 「せっかくお会いしたから、待ち人に紹介してもらえないかなって。だめですか?」 「ああ――そうですね……」  なんだこいつ。  屈託ないふりで自分の好きなように物事を運ぼうとするアルファの雰囲気に僕はいらついたが、おとなしく黙っていた。峡さんにそんな態度を見せるわけにもいかない。峡さんは困惑した表情で、それでもごく普通に僕とアルファを引き合わせた。 「上長の真壁さんだ。社用で二人で出ていたんだが、遅れそうだったので都合をつけてもらってね」 「上長はやめてくださいよ。佐枝さんが先輩ですから、さんづけで呼ばれるのも慣れませんよ。真壁英輔です」  真壁は爽やかな笑顔をみせる。 「俺は昔、佐枝さんが大学で研修していた頃に学生だったんです」 「それがいまやこちらを引き抜く立場だからな」  峡さんはかすかに肩をすくめた。アルファあるあるだな、とまた僕は思った。彼らの方が出世が早いのはトップダウンが得意なタイプが多いからだ。 「彼は三波朋晴君。甥と仲がよくて」 「三波です」  僕は真壁と眼をあわせた。真壁の喉仏が下がって、上がった。 「よく、モデルかタレントかって聞かれませんか?」  真壁の問いかけに僕は思わず笑った。 「ただの会社員です」 「三波君はブロガーでね。グルメサイトでとても楽しいレビューを書く人です」  峡さんはふと眉をあげた。「ごめん、話してよかったかな」 「かまいませんよ」 「それで今日はデートなんですか、お二人?」  そう真壁がいった。  からかうような響きがあった。峡さんがベータだから? それとも歳が離れているから? ムッとして口をひらきかけたそのとき、峡さんから緊張の匂いがするどく立ち上がった。うかがうような、さぐるような視線が僕を見た。僕としては冗談のように「もちろんデートですよね」といいたかった――実際ハウスでアルファと戯れるときならこのくらいなんでもない。でも峡さんはどうだろうか。冗談でも嫌かもしれない。  迷っている僕に、おいどうしたと内心がガミガミ小言をいう。いつもはうるさいくらい喋るキャラのくせに、何をいい子ぶってるんだ。  もたもたしているうちに峡さんが先を越した。 「いいや。今日は最近甥が世話になっているお礼に『たべるんぽ』の食レポ取材を手伝うんですよ。私が気に入っている店を紹介するんです」 「そうなんですか」  真壁の声は呑気な調子だったが、視線がまた僕に降りてくる。僕はまずいと直感した。これは予防線を張って逃げなくてはいけないパターンだ――なのに僕の反応はまた少し遅く、真壁は先を越すようにさらりという。 「だったら俺も混ざっていいですか? 報告もすんだし、もう帰るだけだから」 「え?」  峡さんの声がすこし高くなる。真壁は彼の困惑した視線を追い、僕の方へ顔を向ける。 「もちろんどうしても駄目だというのなら引き下がりますが。どうかな?」  峡さんは首を振った。「いや、真壁さん。今日は――」 「佐枝さんの歓迎会もまだできてませんし。デートなら邪魔するわけにもいかないけど、そうでないなら。三波君はどう?」真壁はいきなり僕に話を振る。引き下がるつもりなど微塵も感じられない、けろっとした声だ。「俺は邪魔ものかな?」  そんな尋ねかたがあるか、と返したくなるのを僕は反射的に抑える。このアルファめ。でも峡さんからまた焦りと途惑いの気配が漂ってきて(たぶん彼の汗の匂いだ)僕はどうしたものかと思案する。  真壁は十中八九、僕に興味があるのだが(峡さんに興味があるのならもっとまずいが)どっちにせよこの男をうまくあしらわないと、あとあと峡さんが嫌な気分にさせられるか、面倒な立場になるかもしれない。彼が峡さんの上司で、しかもさっきの話からすると峡さんの転職――引き抜きにも関わっているのならなおのこと。  峡さんの微妙な仕草や困惑の匂いが気になってたまらなかった。それにしても、ベータとアルファのあいだに緊張を感じると反射的にどうにかしなければと思ってしまうのはオメガの本能なのだろうか。まあ、そんなものが本当にあるとして。  急に僕は投げやりな気持ちになった。風船がしぼむように高揚が消滅していく。 「今日は峡さんに取材に付き合ってくれとお願いしたんですよ」 「ああ、そういってたね」 「普通に食事を楽しむ感じにはならないかもしれませんけど、いいんですか?」 「もちろん」真壁の口調はあっけらかんとしたものだった。 「佐枝さん、どうです?」  三人で並んで噴水を回っていくとき、偶然かそうでないのか、峡さんの腕が一瞬触れた。横を向くと彼は僕をみつめて首をかすかに傾ける。唇が動いたが、声は水音にかき消された。  きらきらと明るいレストランの前を通りすぎて小さな路地へ入り、裏側の道を少し進んで右に曲がる。ぼんぼりのような丸い小さな灯りが置かれた玉砂利のとなりに引き戸の入り口。構えは小さく、白地に紺で大きな円を染めた暖簾が一枚下がっている。峡さんは慣れた手つきで引き戸を開けた。 「こんばんは」 「いらっしゃい」  入口付近にいた前掛けのおじさんが峡さんへ笑顔を向ける。 「おう、久しぶり。電話くれてたな。二人だっけ?」 「それが三人になった。大丈夫かな」 「奥のテーブルをとっておいたから大丈夫だろ。あ、きれいなお兄さん、足元に気をつけて」  間口が狭く、奥に長い店だ。だしの香りがふわっと漂って食欲をそそる。長いカウンターに座る客のほとんどはベータの男性だろうか? オメガの匂いはまったくしない。  勝手知ったる様子で歩く峡さんのあとからカウンターの横をすり抜けて奥へ進むと、グレーに紺で円を染め抜いた長い暖簾の向こうに清潔な白木のテーブルがあった。椅子は四つ。  峡さんは「予約席」の札を勝手に脇へ押しやって椅子を引いたが、僕はどこに座るか迷った。峡さんの顔を見たかったけれど、真壁の隣に座るのは嫌だ――などと僕が思い悩んでいた一方で、他のふたりが何を考えていたのかはわからない。結局三人で三方に分かれて座ると、僕は小型カメラで壁のお品書きを撮影した。  正直にいえば、噴水からここまで来る間に僕はとっくに開き直っていたのだった。こうなったらものすごく気合いの入ったレビューを書いてやる、出るときは店主に表の暖簾を撮影していいかたずねよう、などと心の中で復唱していた。  食事は美味しかった。僕は日本酒や焼酎の銘柄リストを横目に生ビール一杯だけで我慢することにして(その後一杯追加されたが)そのかわり料理を奮発する。峡さんと真壁は二杯目から日本酒に変えた。  魚が美味しいという峡さんの話は大当たりだった。最初は雰囲気もぎこちなく、僕らは料理が来るたびに写真を撮り、味を見て、話す(食べ物の話しかしない)を繰り返していたが、ふと気がつくと僕は、最近峡さんとチャットで交わしているような会話をそのままこの席でも展開していた。 「何年も前から不思議に思ってたんですが、天ぷらのサクサク感は究極的には職人の腕がモノをいうのかコロモの配合がモノをいうのか、どっちなんですか? ああいや、僕が聞きたいのは、最終的に誰が揚げてもサクサクの天ぷらができるコロモの作り方、方法、やり方が存在するのか、それとも微細で名人的な調整がないと無理なのかって話なんですが」 「レシピはあると思うが――どうして究極なんて知りたいの?」  峡さんはすでに僕より二杯は多く飲んでいて、当初の緊張はゆるんでいた。実際、酒とうまい飯は偉大だ。 「それはですね――僕がまだ学生だった頃のことですが、バイト先のすぐ隣にうどん屋ができたんです」 「ずいぶんさかのぼるね」  真壁が茶々を入れてくるのを僕は無視する。 「どこにでもあるセルフうどん屋なんですけど」  僕は讃岐うどんブームを全国に広げたチェーンの名を上げる。 「オープン記念で天ぷら割引券を配っていたのでエビ天を取ったら、これが信じられないくらいの美味しさで。コロモは薄くてサクサク、中はぷりぷり、天ぷら専門店じゃないかと思うくらい美味しくて、バイトの時はしばらく通いました」 「バイトって何?」  また真壁が口をはさんでくる。今度は無視しづらい。 「虫取りです」 「え?」 「ソフトハウスで雑用やってたんです。僕は一応理系で」 「あ、そうなんだ……」 「何やってたと思いました?」 「いやほら、学生のバイトなら接客とかさ。三波君可愛いし、ウエイターみたいなのでも人気あっただろうなって……」 「それでそのうどん屋の天ぷらが、本当に感動的な天ぷらだったんで、結局エビだけでなく全種類試したんですが――二週間後に変わったんですよ! ぱたっと! 完全に!」 「どう変わったの?」  峡さんが聞いた。モバイルごしではない生の声が嬉しかった。 「ケーキみたいなぶ厚いコロモになったんですよ」  僕はため息をついた。 「――いや、いつものセルフうどんクオリティです。だから文句をいう筋合いではないんですが……でも一度美味い天ぷらを食べたら、またいつかそれが食べられるかもしれないって期待するんですよね。なのでその後もしばらく通いましたが、あのエビ天は帰ってきませんでした。僕の中ではまぼろしのエビ天事件になっています」 「まぼろしのエビ天ね」真壁が腕を組む。 「ワンコインもせずにあんな美味いエビ天うどんが食べられるなんて奇跡みたいだと思っていましたが、実際、一時の夢でした。これどういうことだと思います? オープン記念の間だけ別のもの出してたわけじゃないでしょう?」  膝下に暖かいものが触れた。僕はしゃべりながらちらっと足元を見た。峡さんのプレーントゥの靴先が僕の靴にカツンと当たり、あわてたようにひっこめられた。僕はわざと脚を伸ばした。膝がまた触れる。峡さんが顎をわずかに引き、ちらっと僕をみた。僕は軽く目配せした。峡さんの唇の端がすこし上がり、眸がいたずらっぽく光った気がした。僕はまた脚を動かす。スラックスごしに一瞬体温を感じるが、すぐ離れていく。 「三波君はどう考えているの?」と峡さんが聞いた。 「僕は神が降臨したと思っています」  ゴホっと真壁が咳をした。僕は無視した。 「あのチェーンには天ぷらの神様みたいな従業員がいて、開店直後だけ応援に来ていたのかなと。チェーンだから素材も調理もマニュアル化されているはずですよね。でも従業員でこれだけ違いが出るなら、やっぱり究極は職人の腕なのかなぁ……と」 「でも今は寿司もロボットが握る時代だからね」 「あれも実用化までは大変だったし、そもそも人間がどこで『美味しい』と感じているかというのは――」 「三波君の学生時代ってどんな感じだったの?」  いきなり真壁がたずね、僕は話の腰を折られた。 「どんな感じって?」 「楽しそうだなと思ってさ。いろいろ面白いことがあったんじゃない?」 「まさか。普通でしたよ」  言外に含まれた()()()()()()()()ほのめかしに僕はすこし苛立つ。 「普通なんてないさ。みんな違って当たり前だろう? 三波君はオメガだからなおさら」 「真壁さんみたいなアルファとはそこそこ楽しくやりましたよ」  僕は早口でいった。 「しょせん学生の遊びだし、飽きますけどね。アルファってほら、オメガ相手だと深く考えない人多いでしょ? つまらないんですよ」 「キツイこというなぁ。じゃあ」  いきなり真壁の前に銘柄リストが差し出された。峡さんだ。 「真壁さん、お酒なくなってますよ。この店、蔵元と直接取引しているから、かなり珍しい地酒もあるんです。これちょっと試してみませんかね……」  僕は生ビールを飲み干すとトイレへ立った。  なぜか懐かしい気分が襲ってきた。歳も立場も気持ちの在り方もまったく違うのに、前も似たような状況があったような気がする。手洗いの鏡をみたときにそれが何かわかった。秀哉だ。そして昌行。  小学生や中学生のころ、木登りをしたり雪合戦をしたりひとつのゲームで対戦したりと、犬みたいに遊んでいられたころは良かったのだ。僕のオメガ性がはっきりしはじめたころから、秀哉も昌行もなんとなく変わった。アルファの秀哉は何かというと僕を自分のうしろに置きたがるようになったし、ベータの昌行は秀哉に対して、僕には当時意味がわからなかった、わだかまりのようなものを持ちはじめた。  三人の力学というのは複雑だ。ひとりとひとりの関係が三つ、つねに揺れ動いている。秀哉と昌行が妙な雰囲気の時、僕はあいだでどうにかできないかと思い、秀哉と僕が妙な感じになったときは昌行があいだでオロオロしていた。そして昌行と僕がごたごたしていたとき――秀哉はどうしたのだったか。  テーブルに戻ると店主がいて、真壁に地酒の説明をしていた。僕はお冷をビールジョッキで飲みながら、店主が湧き水について話すのを聞いていた。峡さんは聞き上手だった。店主は峡さんに話を聞いてもらうのが楽しいようだ。僕みたいだ。  真壁が時々ちらっと投げる視線は故意に無視した。僕はビールジョッキごしに峡さんを眺める。僕が真壁に興味があるなんて峡さんに勘違いされたら、それこそ悲劇だ。  ずっと前から――自分にヒートがはじまる前から――僕は不思議に思っている。どういうわけかアルファには、オメガに対して自分が「権利がある」と思いこんでいる連中が多い。自分がアルファだからオメガは自分に興味を持つはずだ、といったような。それにベータにもこの思い込みを後押しする傾向があるし、もちろんオメガだってこれに乗っかってる連中がたくさんいる。  だからアルファ―ベータ―オメガが三人そろうと、よくわからない三つ巴が生まれるわけだ。ひとりとひとりの関係が三つ。もっとも今の場合、僕は真壁との関係などまったく望んでいないから、これは店を出たとたん、酒精と共に蒸発するだろう。蒸発しないなら火をつけて大爆発でも、僕ひとりならかまわない。 「三波君って何歳なの?」  急に真壁が聞く。 「二十六です」 「若いなあ。じゃあ学生時代もそんなに遠くないのか。俺は三十五。佐枝さんはどうでしたっけ?」 「俺? 今年で四十六」 「世代が離れると困ることってありますよね。下の方と話が合わないとか」 「昔の流行語とかテレビ番組とか? 事務の人に通じない洒落をいってしまったじゃないかって、たまにびくびくするよ」 「どういうのです?」僕は口をはさむ。 「え――そうだな……」  峡さんは僕をまっすぐにみつめて、今は放送が終わったバラエティで流行っていたギャグをぼそっとつぶやいた。黒目が電灯を映して光っている。真壁が「俺、それ知らないなあ」という。 「え、でも僕は知ってますよ」 「そうなの?」真壁が猪口をおいてこちらへ身を乗り出す。 「ネット世代ですから」僕は動画配信サービスの名をあげた。「昔の録画もですけど、前に流行ったギャグのアレンジみたいなの、僕の世代は大好きなんですよ」 「そうか。じゃあこんなの知ってる?」  峡さんは指をマークを作るように丸めてちょいちょいと動かす。 「若いころ一世を風靡したCMで、こういう振りでアイドルが踊りながらチャラララ~~ラララララ~~と上がってさ」 「チャラララララ~と下がるやつですよね。虫よけでしょ? それ今ネットで流行ってますよ」 「ほんとに?」 「ほんとですよ。踊りをコピーしたグループの投稿がウケて、真似しているのがたくさんいるんです」 「じゃあこれは?」  峡さんは短く口笛でメロディを吹いた。 「この後にバババババーンって出てきて……」 「ああ、ケーシーテですよね。ひとりパロディアイドルの。僕はちょっと知ってます。この人ネット動画の走りみたいなPV作ってて面白いですよね」 「え、俺はそんなの知らないよ」 「真壁さん知らないんですか? でもデジタルネイティブの十代なんて僕より詳しいかもしれませんよ。古いCMやアイドルソングってネットでは今来てるジャンルで」 「そうか……なんかショックだな……」 「そうですか?」 「だって佐枝さんと三波君が話が合って、俺がわからないってさ」 「あ」  僕は思わず声を上げた。 「どうしたの?」真壁が不審そうに僕をみる。 「思いつきました」 「何を?」 「今回『たべるんぽ』に書くレビューですけど、どんなスタイルで行こうか迷っていたんです。世代間の差をネタに、食材と料理が座談会をする形式にします」 「え、それどういう形式……」 「うん、うまくいきそうな気がします。もちろんお二人は出てきませんから大丈夫です」 「三波君」  峡さんが僕を呼んだ。テーブルの下で靴のつま先が何かに触れた気がした。すぐにひっこんでいって、わからなくなる。 「書けたら読ませてほしいな」 「もちろんです」僕は即答した。  多少もめたあと、会計は三人できれいな割り勘となった。  最初は峡さんが自分が全部払うと伝票を取ったのだが、急に加わったんだから自分が出す、これでも上司だし、と真壁がいいだし、さらにふたりして、僕はビールしか飲んでないから出さなくていいとはじめたので、そうなるとこの機会自体、本来僕が頼んだことですからと僕の方も参戦せざるをえず、三つ巴の争いとなったのだ。  しまいに面倒になった僕は、峡さんと真壁がなにやら話している間、店主に直接勘定を割ってくれるよう頼みにいった。これは悪い判断ではなかった。彼に食レポの話をして、店構えや本人の写真も撮らせてもらえたからだ。店主の反応はありがたいことに好意的で、またゆっくり来てねといってくれ、僕はほっとした。  おかげで店を出た時はいい気分だったのだが、駅までの道がまずかった。真壁が僕の横からずっと離れず、家の方向を聞き出そうとしたり、もう一軒ふたりで行かないかと囁いてくるのだ。僕の本音はといえば、真壁をさっさと片づけて峡さんと二軒目へ行きたいくらいなのに、である。 「佐枝さんのこと気にしてるの? 大丈夫だよ」 「いえ、僕はもう帰るので」 「じゃあ送るよ」 「いりませんから」 「今度また飲まない? チャットのID教えてよ」  すぐ隣にいると、真壁の匂い――アルファの匂い――が強く漂ってくる。真壁も僕の匂いを感じているのだろうが、どうでもよかった。峡さんは僕と真壁の前を歩いていて、僕は峡さんの隣へ追いつきたいのに、真壁はしつこく、モバイルを取り出しながらメールを教えてといってくる。  僕は周囲を見渡した。すぐ先に地下鉄の入り口があった。多少遠回りになるが乗り継げば帰れるだろう。 「峡さん!」うしろから呼んだ。 「三波君?」 「僕はあそこから帰ります。今日はありがとうございました」  ふりむいた峡さんの眼つき――それをがっかりしていると感じたのは僕の願望かもしれない。せっかく会ったのに、もう? とでもいうような。  そうであればいい。僕は心の底からそう願った。彼の口調からはわからなかった。穏やかで優しかった。 「そうか。今日はありがとう」 「じゃあ」 「え、三波君行くの?」  背後で真壁の声が聞こえたが、僕は小走りで地下鉄へ向かった。  電車はすぐにホームへすべりこんできた。空いている車内で、僕は向かい側の窓ガラスに映る自分の顔をぼんやりみつめた。結局今日、僕は何をしたんだろうか。ビールを二杯(これで済ませられたなんて奇跡のようなものだ)美味しい食べ物。写真を撮って店の人とも話した。真壁という闖入者はいてもそこそこ楽しかったと思う。でも……  僕は自分の爪をみる。日曜に磨いたばかりの靴はまだきれいだったが、つま先がうっすら白くなっている。路地で小石を蹴ったせいだ。  テーブルの下で峡さんの靴と膝に触れたのを思い出した。  あーあ。内心がそう呟くのが聞こえた。  あーあ、三波朋晴。何にもならなかったぞ。デートにも、なんにも。  おまけに圧倒的に飲み足りないときてる。  自制したんだよ。酔っぱらって峡さんに変なことをいわないように――いや、真壁にそんなことを知られないように。  馬鹿だな。  どうせ馬鹿だよ。  電車がアパートの最寄り駅につくと、僕は駅前のコンビニでビールの六缶パックを買った。
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