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13.古い夏の光
電車の窓ガラスを透かした空の色は実際より濃い青だ。紫外線防止ガラスのせいだが、おかげで冷房の中にいても真夏の雰囲気で圧倒される。僕は電車を降りて駅の改札をぬける。大きな商業ビルに挟まれた広いアーケードにはそこらじゅうにピンクと白のストライプを染めた小旗が踊り、吊るされたモニターにフェスティバルのロゴが映し出されていた。熱気の中を急ぎ足で歩きながら時計をみる。早すぎたかもしれない。どこかで時間をつぶしたほうがいいだろうか?
そう思ったとき、僕は峡さんに気づく。濃いネイビーのシャツを着て、ピンクと白のストライプのテントの前に立っている。ピンクと白は今日この街で行われているイベントのシンボルなのだ。峡さんはピンクと白のパンフレットのような紙を広げている。僕は急ぎ足で近づく。
「峡さん」
「早かったね」
「峡さんの方が早いじゃないですか」
峡さんは僕をみて笑う。シャツは彼の上体にフィットして、襟のボタンがひとつはずれている。胸の中がざわざわする。
「あっちの通りから河川敷にかけてイベントスペースが続いているようだ。行ってみる?」
僕はうなずく。川沿いにのびる道にもピンクと白の細長いフラッグがはためき、河川敷では音楽が鳴っている。カップルや数人のグループ、家族連れにまじり、僕は峡さんと並んでお祭りをひやかして歩く。同じ方向へ歩いていたグループのひとり――アルファが追い越しざまに僕をふりかえって目配せするが、僕は無視する。峡さんは彼らに気づかないふりをしている。僕がそう思うのは彼の匂いがかすかに変わったからだ。かすかに――ためらうようなニュアンスに。
ああもう、そこのうっとうしいアルファども! 頼むから邪魔しないでくれ。
「峡さん」
「ん?」
手をつないでもいいですか――という言葉を僕は飲みこむ。
「河川敷の、あの雲みたいな形のテント、なんでしょう?」
指をさした僕の手首を峡さんの視線が追った。
「時計、使ってくれているんだね。よかった」
僕はどぎまぎしてうなずく。容赦ない夏の光が僕らの上に落ちてくる。
「あら、その時計可愛い」
パフェ用の長いスプーンを持ったまま、鷹尾が僕の手首をさした。
「三波らしくないじゃない? 時計に凝るなんて」
「もらいものだよ」
僕は反射的に袖をひいた。鷹尾はきれいに整えた細い眉を少し動かし、軽くうなずいた。ときどき彼女には何もかもを見透かされているような気がする。おっとりしたお嬢さん風なのに、ときたまびっくりするほど超然とした雰囲気を漂わせているせいだろう。菩薩っぽいとでもいうのか。
「そういえば例のジャマーは退治できたの?」
「ジャマー?」
「デートを邪魔されたっていってたじゃない」
「ああ、それね」
デートなんていったっけ、とは思ったものの僕は逆らわなかった。
「一応……なんとか」
「良かったじゃない」
「うん、まあね」
僕はフォークで切り取った梨のタルトを頬張る。とある企画の相談のため、仕事帰りにふたりでギャラリー・ルクスに併設されたカフェまで足を運んだのだ。ふたりとも夕飯は食べていないが、僕も鷹尾もデザートは別腹主義、時を選ばないので問題はない。鷹尾は淡い桜色の筋が散る桃をフォークで突き刺し、嬉しそうに口に運ぶ。桃のパフェは大好物なのだという。
「まあねって、もう少し何か教えてよ。だめ?」
「どうしてそんなに聞きたがるのさ」
「だって三波が本気で恋愛しているの、私には初めてだから。ちがう?」
峡さんについて彼女には一言も話していないはずなのに、どうしてバレているんだろうか。そんなに僕は挙動不審なのか。でも考えてみると多少思い当たるところはある。はた目にわかるかどうかはともかく、たしかに僕の気分はここ最近ずっと一喜一憂というか、上がったり下がったりしていた。同じオメガの鷹尾にはそれがよくわかるのだろう。
「で、いい感じ?」
「うん。モバイルでよく話しているし、週末に会ったり」
「ハウスで?」
「いや」僕はすこし迷ってからいった。「ベータなんだ」
鷹尾は一瞬軽く眼をみひらいたが、うなずいて「外でデート?」とたずねた。
「そう。今のところ」
「楽しい?」
「楽しいけど……どうしてそんなこと聞くんだよ」
「あら」
鷹尾はなぜかびっくりした表情をする。
「どうしてかな。三波がうわついた雰囲気じゃないから? これまで聞いた武勇伝みたいな雰囲気じゃないからかな」
「ひどいな。僕をなんだと思ってるのさ」
「でも好きなんでしょ」
急に恥ずかしくなってきた僕に鷹尾は追い打ちをかけた。この菩薩は容赦がない。
「どんな人?」
「年上なんだ。落ち着いてる」
「ギラギラしたアルファじゃないわけね」
だからまだ手もつないでいない――なんて話すわけにもいかず、黙ってうなずいたちょうどその時、カフェのマスターがあらわれた。
僕らは佐枝さんとボスを祝うサプライズパーティの相談に来たのだった。CAFE NUITのマスターは佐枝さんと昔馴染みだ。喜んで協力するよといわれ、僕らは日程や細かい手順を決めた。ボスにも佐枝さんにも秘密にしたままパーティに呼び出すのは鷹尾の役割で、僕は司会だ。
「出席者は何人? TEN-ZEROの社員だけ? ここを使うなら黒崎も出席させてくれないかな」
そういってマスターはギャラリー・ルクスへつながる扉へと手を振った。
「ゼロのお祝いってことだよね。僕は店にいるわけだし、黒崎もゼロと知り合って同じくらい長いから」
「もちろんです」
僕と鷹尾は同時に答える。マスターは佐枝さんのことを「ゼロ」と呼ぶ。
「他は? ほら、藤野谷君のお目付け役のシブい人――なんていったっけ、渡来さんか。それに叔父さんとか。たしか――佐枝峡さん。そうそう、彼も呼ばなくて平気?」
どきりとして僕は固まった。峡さんもパーティに?
「どうしましょうか」鷹尾が先にこたえた。
「おふたりとも、藤野谷さんと佐枝さんのご家族同然の方ですよね。私たちのおふざけに付き合わせて大丈夫でしょうか?」
「どちらもノリはよさそうな気がするけどねえ。ゼロの叔父さんなら話したことあるよ。気さくな人みたいだし、お祝いだから呼んでもいいんじゃない? 三波君はどう?」
「あ……そうですね」
僕はなんとか硬直状態から復活する。
「その……この企画は従業員のお遊びなので、今回はよした方がいい気がします。正式なセレモニーもまだなんだし……」
「そう? まあ、社員しかいない方が遠慮なくやれるよね。そうそう、パイ投げなんてする? やりたいなら用意できるよ。社長の顔にパイを投げられる機会なんて、あまりないでしょ」
マスターは人の悪そうな笑みをうかべた。
「楽しみだよねえ。人を驚かすのって」
たしかに人を驚かすのは楽しいが、相手も楽しい気分になる方が僕の好みだ。打ち合わせは無事に終わり、カフェを出た僕は鷹尾と別れて地下鉄へ降りた。遅くなって自炊する気力もなく、いつものコンビニで弁当を買った(でも、最近は毎日とはいかなくても料理を試みているのだ。手のこんだものは作れないけど)。
アパートは蒸し暑かった。冷蔵庫の唸る音だけが響いている。僕はエアコンのスイッチをいれ、鞄とコンビニの袋をテーブルにほうりだして手を洗った。鏡をみつめると急にやるせない気持ちに襲われた。やはりサプライズパーティに峡さんを呼んだほうがよかった? どうしてそうしなかった? なぜなら……
テーブルの上でモバイルが鳴った。
僕は文字通り飛び上がってテーブルに駆け寄った。電話のアイコンをタップして耳にモバイルを押しあてる。
「はい、僕です」
条件反射のように声が出た。我ながら変な応答のしかただ。オレオレ詐欺じゃあるまいし。
『佐枝です。こんばんは』
「こんばんは」
モバイルで話すとき、最初は僕も峡さんもおかしなくらいぎこちなくなる。なぜか僕も峡さんも礼儀正しく挨拶して、僕は「暑いですね」なんて、完全にどうでもいい天気の話なんかしてしまい、峡さんもそれに合わせてくれて、それからふたり同時に黙ってしまったりする。それでも通話を切ろうとは思わない。少なくとも僕は。
『そういえば、朋晴のあの――昔の友達だが』
沈黙のあとで思い出したように峡さんがいう。
『大丈夫か? つきまとわれたりしていない?』
「何もないですよ。メールも来なくなったし。きっともう来ません」
そう僕は答える。
『油断はいけないよ。気をつけないと』
「昌行はアルファじゃないし、それに峡さんが……あの時きっぱりいってくれたから、大丈夫です」
『だったらいいけどね』
峡さんは照れくさそうに笑った。
きっと今、彼は晩酌の最中だ。僕に電話をかけてくるときはたいていそうだ。でもそれほど酔っぱらっているわけじゃない。たぶん僕がひとりでビールを飲んでも、たいして酔っぱらっていないのと同じように。でも少しいい気分で、少し寂しい気分なのかもしれない。ひとりで飲んでいると誰かと無性に話したくなることがあるからだ。そんなときに思い出してくれるのが僕は嬉しい。
峡さんの声はなめらかなのに語尾だけがすこしかすれていて、それが僕の耳にとても心地よい。そして夜中になって、ひとりのベッドで峡さんの声を思い出した僕は、今度は別の意味で心地よくなり、ついで悶々とすることになる。
でもこんなことは峡さんにはいえなかった。
あの隠れ家のようなレストランでの、僕の衝動的な告白を峡さんがOKして何週間かすぎ、季節は完全に真夏になっていた。僕は夏休みの予定を出せと会社でせっつかれるくらい気楽なものだが、峡さんは仕事が忙しいようだ。それでも彼はまめに連絡をくれるし、週末は一度、ふたりで出かけた。
一緒に郊外の河川敷を歩いて、イベント会場の屋台のゲームに参加し、雲の形をしたスケルトンのテントに入って、冷房の効いたカップルシートから夏の青空を見上げた。美味しそうな店を探して食事をして、アートフェスティバルと銘打った商業主義のお祭りに僕が毒舌を吐くと、峡さんは笑いながらコメントを加えた。僕としては面白がってくれたのだと思いたい。夕方には迷子になった子供の親を探すというハプニングもあった。
その日はとても楽しかった――楽しくて、なのに時々、とても困った。一緒にいても僕と峡さんは……あまりカップルにもパートナー同士にも見えないらしく、周囲には親子とはいかないまでも、きょうだいとか、家族同士と見られていた気がする。少なくとも迷子の親は僕らをそんな風に扱っていたし、テントでカップルシートを選んだら、ベータのスタッフはとまどったような表情をした。
自分がもっと老け顔だったらよかったのに、なんて思ったのは初めてのことだ。
レストランではわざとらしく目線を送ってくるアルファを無視しなければいけなかったし、峡さんがそれに気づかないかと僕はいちいち気にしていた。峡さんは気づいていたかもしれない。たいした意図はないとしても、シングルのオメガとわかるとすぐにこっちを見てくるアルファが悪い。
しかしだからといって、僕から峡さんにべたべたくっついていいのかどうか、とも思ったのだ。峡さんは僕よりずっと年上だし、ベータだし、僕がひとまえでそんな風にふるまうのは嫌かもしれない。それであの日、僕らはせいぜい肩が触れる程度の距離でいて、別れを告げたときもそれで終わった。
ハグやキスどころか、手をつなぐのもなし。峡さんはとても丁寧で、紳士的で、一方僕は彼の挙動や汗の匂いにそわそわしてどうしようもなく……ああああああ!
その日僕はアパートに帰ってから頭を抱えたものである。
『ハウス』でアルファ相手にこんな悩みを持ったことなんて一度もなかった。あそこではアルファは気に入ったオメガにはすぐ近づいてくるし、こっちだって遠慮はしない。顔や話や雰囲気――なんでもいいが相手を気に入ればOK、嫌なら断る、それだけだ。
アルファとオメガが反応する欲求の匂いは独特で、ベータの単なる汗や体の匂いとは種類がちがう。ハウスでは手をつなぐどころか、出会いがしらにセックスしたって問題にはならないが、ハウスの外で知り合ったって同じこと――結局、その気になれば「ハウスへ行く?」という話になるのだから。
でも峡さんと付き合うのは、何もかも勝手がちがった。
だいたい付き合うといっても、峡さんが僕に「そういう興味」を持っていなかったらどうなるんだろう? 聞いた話だとベータには、男女問わずプラトニックな付き合いを好むひともそれなりの割合でいるという。峡さんもひょっとしたらそうなのかもしれない。あるいはベータ同士のカップルはもっとその――ゆっくり進むのかもしれない。
それとも――と僕は内心恐れていることをひとつ思い浮かべる。峡さんが僕と付き合うといったのは、昌行があの場にいたのがきっかけとなった、ある種行きがかり上のことにすぎなかったら――庇護すべき弟や甥のような存在だと思われていたらどうしよう? いやいや、そんなことはない――ないといいな……だとしても僕がこんな……こんなだと知られたら峡さんは幻滅するのかもしれない……
堂々巡りの考えをいじくりまわしながら、その夜も僕はベッドで峡さんの声を思い出しながら悶々として、自分で自分を慰めていた。もしかしたらほんとうに僕は淫乱なのかもしれない、と思いながら。
TEN-ZERO有志一同によるCAFE NUITのサプライズ企画は無事に終わった。
佐枝さんとボスは鷹尾が口実をつけて別々に呼び出し、ふたりそろったところで「おめでとうございます!」とやったのだ。こういうイベントは自分がされると死ぬほど恥ずかしいかもしれないが、僕ら有志一同にとってはお祝い兼ボスへのうっぷん晴らしというダブルの意図がある以上、あきらめてもらうしかない。
とはいえ天然のケがある佐枝さんはなんだかんだで僕らの祝いとプレゼントを喜んでくれたし、最初はとまどっていたボスもすぐに開き直って、誓いのキスをしろとはやしたてる僕らの前で堂々とディープなキスを披露してくれたので、逆にあてられてしまった感があった。キスについては佐枝さんの方が参っていたかもしれないが、ボスを標的にしたパイ投げは中止したので、このくらいは許してほしいと思う。
ボスもそうだが、久しぶりに会った佐枝さんも一時期にくらべるとすっかり落ち着いていた。実はベータの偽装をやめたあとの佐枝さんは、事情がわかっていない僕も不安になるくらい、アルファを惹きつける色っぽい匂いを醸し出していたときがある。あれにボスがやきもきしなかったはずはない。
それが今ではみるからに「パートナー持ち」の雰囲気になっているわけだから、たしかにオメガにとっては、アルファとつがいになることに意味はあるのだ。僕だって自分を棚に上げてよければそう思える。
次の日は休みだったので僕らはさんざん食べて飲んだ。ふらふらしながらアパートに帰って前後不覚で眠った翌日の午後、二日酔いでぼうっとしていた僕に、峡さんからメッセージが来た。
Saedakai:
用事があって零に電話したら、聞いたよ。あのふたりにサプライズパーティをやってくれたんだって? 零はきっともう大丈夫だな。感無量だよ。
やはり峡さんもパーティに呼べばよかった――僕は一瞬後悔したが、すこし考えてこう返した。
Haru3WAVE:
いえ、零さんにお世話になっているのはむしろ僕らの方です。それに僕は零さんの作品の第一のファンですからね。
Saedakai:
どうもありがとう。一年前にはこんな風に落ち着くなんて想像もできなかった。あのふたりに子供が生まれたら、孫ができたような気分だろうな。
孫って……僕は思わず笑い、返事をタップしようとしてどきりとした。もし峡さんが若いうちに子供を作っていれば、あと十年もたたないうちに孫ができることもありえなくはない、ふとそんなことを思ったのだ。
僕と峡さんには二十歳のひらきがある。二十年。オメガが成熟してヒートがはじまり、子供を産めるようになるくらいの年月だ。
急に打ちのめされたような気持ちになったのはどうしてなのだろう。
僕は思わず子熊のスタンプを連打し、ぜんぶ二日酔いのせいなのだと、そのあと峡さんへ言い訳する羽目に陥った。
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