7.花びらのつぶて

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7.花びらのつぶて

『実は「たべるんぽ」の、三波君が書いたレビューをいくつか読んだところなんだが、すごく面白くて』  僕は半分霞がかかったような頭で必死に峡さんの言葉を理解しようとしていた。イヤホンから流れる声は耳の奥で脈打つ血管に直接響いてくるようだし、緩急をつけて震えているローターのおかげで、背中から尾てい骨のあたり、つま先に至るまで、波のようにくりかえし快感が打ち寄せる。  峡さんの声は明るかった。こんな風に彼が話すのを聞いたことがあったっけ、そんなことをぼんやり思う。 『本当に面白かったものだから、つい話したくなって……』  僕が黙っていたせいか、声がだんだん小さくなった。 『急にすまない、都合悪かったかな……?』 「いえ! いえ、そんなこと――」  僕はあわてて言葉をさがし、同時に眼だけでどこかへ消えてしまったローターのスイッチを追った。 「そんなことないです……あの……ぁっ」  変な声が出そうになるのを必死でこらえる。 「その、読んでくれたんですね……」 『うっかり電車の中で開いてしまって、吹き出しそうになって』  峡さんはほっとしたような口調で話を続けた。 『ほらあの、ラーメン屋でうどん定食を食べる話、すごいね。最高だ。続きを家で読んでいたんだが、そうしたらその……直接感想をいいたくなったものだから』 「あ……あ、ありがとうございます」  僕はやっとスイッチをみつけた。やたらとだだっ広いベッドの端で、シーツの皺に挟まっている。足をのばせば届きそうだ。だが少し足先を動かした途端、中のローターが震えて僕はまた息を飲んだ。  まずい、峡さんに変だと思われたら……いや、一度切ってこちらからかければいいんじゃないか? 「峡さん、あの」  口をはさもうとした僕の声は峡さんには聞こえなかったらしい。というのも、まともに喋ろうとしたらおかしな音が出てしまいそうで、小さくささやくようにしか言葉が出なかったからだ。 『実は食事の時にレシピ本やこういうサイトを見るのが好きで』と峡さんは続ける。『ああ、独り身だからさ、晩酌のついでに』 「今…飲んでるんですか?」 『家でね。少しだけ』  ローターがヒートの熱を揺さぶる中、耳に直接流しこまれる峡さんの声は心地よく、僕の常識(というかまともな判断)はだんだん麻痺しはじめた。 「僕も……」  叶うなら耳に届くこの声を途切れさせたくない。ずっと聞いていたい。 「僕もよくひとりで飲んでますよ……だいたいビールですけど……」 『俺はワインが多いな』  峡さんは自分のことを「俺」というのか。僕の心臓が大きく脈打つ。 『三波君は自炊するの?』 「ん……」  峡さんの言葉が聞こえるたびに僕の下半身から背中、首のあたりがびりびりと小さくふるえる。ふわふわした甘い快感に包みこまれるようだ。高く昇りつめて燃え尽きるような快楽ではなく、蜜の中で漂うような歓びだった。 「僕は料理はあまり……うまくないので……レトルトとか惣菜とかをア――アレンジするくらいで……ぁ」  吐く息がマイクに響かないように僕は必死でこらえた。一度切ればいい、そしてローターのスイッチを拾って、止めて、かけ直せ。そんなまともな意見はまだ頭の片隅にいる。だがゆるりと押し寄せては引いていく快感の波が、そのかぼそい声を完全に押し流そうとしている。  幸い峡さんは気づいていない。当たり前だろう。こんなこと思ってもみないだろうし、知られたら恥ずかしくて死んでしまう。 『そう、最近のコンビニ食材もうまく使うと便利だからね。でも意外だな』 「何が?」 『三波君はその、ひとりで食事をしたりしないイメージだったから』 「まさか」僕は小さく笑った。 「峡さんは……料理、お好きなんですか? そういえば佐枝さんにそう……聞いた気が……」 『たしかに俺は料理するけど、零のやつ、そんなこといってた?』  峡さんの言葉は少しくだけた調子になった。 『まあ、零の家でもたまに作っていたから』 「うらやましいです……ん、素敵な……趣味ですね」 『いや、こんな独り身の料理なんて、変に凝ってしまうだけだよ』  峡さんは軽く笑い、その響きもよかった。ああ、素敵だ……素敵…… 『そうそう、それで「たべるんぽ」のことだよ。もちろんこのサイトは知ってたが、三波君がベストレビュアーだなんて思わなかった。単なる食レポじゃなくて読んで楽しいものが書けるのはすごい。零も三波君のことを多才だと褒めていたが、こんなに笑ったのは久しぶりだよ』 「そんなに面白かったですか?」  僕のかすんだ頭にさらにバラ色の雲が湧く。そのときローターが一瞬、激しく振動した。 「あっ…んんっ」 『どうした?』峡さんの声がすこし大きくなった。 『何かあった? 大丈夫』 「何でもないです、あの……」  気持ち良すぎて涙が出てくる。僕はかたく眼をつぶった。ああ、たまらない。どうしよう。 「あの、他は何が良かったですか?」 『ん? レビューの記事? そうだね』  峡さんは僕の以前の食レポに言及し、最近投稿した「自然食コンビニ弁当ベスト5」について何かいいかけ、ふと言葉を切った。 『いや、俺ばかり勝手に喋って――』  僕は思わず口に出していた。「峡さんの声が好きです」  直後、しまったと思った。 「あ、その……深い意味はなくて、だからその、峡さんの話を聞いているのがよくて」 『俺はふつうはこんなにお喋りじゃないんだ』  峡さんの口調に少しちがう響きがまじる。これはもしかして――照れているのだろうか。 『だから……その』 「僕も……いつもはもっと……うるさいやつなんですけど……」  僕らは同時に黙りこんだ。と、まるでタイミングを見計らったように僕の中のローターが激しく動きはじめた。  ああ、まずい。急激に高まってくる圧に僕はシーツをつかんだ指をぎゅっとにぎりしめた。ぴっちりしたビキニの前はペニスから沁みだした雫でしとどに濡れているし、布地がないも同然のうしろはもっと大変なことになっている。自然に腰を振りそうになって、こらえた衝撃で背中が勝手にそれ、ヘッドボードに当たった。はずみでぎいっとマットレスがきしむ。 『三波君?』 「峡さん……あの」  僕は喉をそらした姿勢で言葉を探した。もうだめだ。めちゃくちゃだ。気持ちいいし、恥ずかしいし、どうしようもない。峡さんにこんなの知られたら――知られたら―― 「あの、」 『ん?』 「今度……僕からも、電話……かけて…いいですか、その……家で飲んでるときとか……」 『あ、ああ、もちろん』 「いま、他の……着信が入ったみたいなので」 『そうか、ごめん』 「実家の姉で」  なぜ僕はこんな嘘をつく?――でも会話を中断する口実は姉くらいしか思いつかなかった。家族以外に話を中断させるような相手がいると誤解されるのも嫌だ。 『そうか。どうもありがとう』  峡さんは僕の嘘を信じてくれたらしい。 『最近はあまり楽しい気分になれることがなくて、だから教えてくれて嬉しかった』 「僕も……喜んでもらえて嬉しいです」  そのとき僕は心の底からそう思った。三波朋晴、グッジョブ! 「あの、また――」 『ああ、またね』  通話が切れた。  とたんにそれまでどうにか理性で押しとどめていた快感の波が一気に押しよせてきた。腰の中心から脳の天辺まで真っ白の快楽が昇ってくる。中でうごめくローターに僕の内側の襞がひくひくとむせび泣き、爪の先から頭皮まで、あらゆる表面を歓びが覆いつくす。 「ああんっ、あ、あ、あ―――」  自分でも信じられないくらい大きな声が出た。ここがハウスでよかった。壁の薄いアパートでなくて。前もうしろも濡れそぼり、シーツをどろどろにしながら僕はベッドの上でのたうち回った。おまけにそのあいだずっと、僕の中で振動をくりかえす機械にあわせるかのように、峡さんの声が頭の中で再生されていたのだ。  何度も何度も、くりかえし強い快楽とうっとりする甘い霞に襲われ、しまいに僕はすすり泣いていた。三回は射精したのにうしろの欲望はとまらない。もっと激しく、太い刺激に奥底まで突かれたい。何度も―― 「峡さん、あぁ、ん、ん、ああん」  知らないうちにローターが止まっていた。  電池切れだろうか。僕は震える手で小さな機械を引き抜いて、床に放り投げた。疲れ果て、しかもシーツはぐしょぐしょだ。気持ち悪くてたまらない。なのに結局そのまま眠ってしまったらしい。  無意識に掛け布団にくるまっていて、温もりの中で僕の耳にまた峡さんの声が聞こえていた。ああ、峡さん……僕はむにゃむにゃとつぶやいていた。あなたの声が好きです。好き……  はっとして目覚めた。濡れたシーツが冷たくて、布団の外に這いだすと紅と紫のけばけばしい装飾が眼に入る。あわててモバイルを探した。時刻は夜中の三時だ。  全身が妙にだるいが、頭はすっきりしていた。ヒートのぼうっとした霞が消えたのだ。あの馬鹿馬鹿しいTバックをまだ履いているのに気づき、僕は思わず吹き出した。笑いながら液晶画面をみて、チャットに通知が一件あるのに気づいた。アイコンは銅色の寸胴鍋。  Saedakai:  話せて嬉しかった。いろいろありがとう。  突然、一切合切が記憶によみがえった。ひとりの痴態も、その前の峡さんとのやりとりも、その最中に自分がしていたことも―― 「あーーーーっ」  僕は思わず叫んで両腕で頭をかかえ、かかえながらベッドのマットレスを蹴りつけた。もちろん峡さんは知らないはずだ。話していたあいだ僕がひとりで何をしていたかなんて。その後も、何をしたかなんて。絶対気づいてない。気づいてないはずだ。気づいて……  僕は自分にいいきかせた。たまたまだ。僕はヒートだったし、いろいろタイミングが悪かった。それだけだ。もしかしたら峡さんは僕の様子をすこしだけ妙だと思ったかもしれないが、会話自体には問題はなかったはずだ。その証拠にこうやってチャットに連絡もくれたし。大丈夫だ。大丈夫。  朝になったら返事を出せばいい。それにほら、峡さんは「たべるんぽ」のレビューを面白がってくれたみたいだし……  僕はうつむきながらシャワーブースへ向かった。つま先が何かを蹴った。ピンクのローターが転がっていく。ああ、畜生。膝がふるえる。恥ずかしさに息が止まりそうだ。  三波朋晴、この大馬鹿者。
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