もう一度あのときを

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*  郁が部屋付きのバスルームで入浴している間にドアがノックされた。  室見が出るとグラスと陶製のピッチャーを持ったカナが立っていて、「少し話をしてもいいかしら」と言うので部屋に招き入れた。 「郁は入浴中ですよ」 「ええ。あなたと話がしたかったから、ちょうどいいわ」  小柄で背筋のピンと伸びたカナは、どことなく郁に似た雰囲気があった。細かい幾何学模様のファブリックが張られたソファに向かい合って座ると、カナは室見を上から下までじっと見つめた。遠慮なく検分する視線に室見は苦笑する。 「俺は郁の相手に相応しい人間に見えますか?」  室見が訊くと、カナはふうと息を吐いてソファに凭れた。 「申し分ないわ。見た目はね。でも、中身はわからない。あなたがあなたなりに郁を愛しすぎているのは伝わってくるけれど」  カナは忌憚なく答える。“愛しすぎている”ことは、室見自身自覚があったが、カナが良い意味で言ったのか悪い意味で言ったのか判別がつかない。ただ、カナの表情は柔らかく、嫌悪を向けられてはいないようだと室見は感じていた。  ピッチャーからグラスに水を注ぎながら、カナは切り出した。 「あの子は……郁は子どもの頃からとても物分かりの良い子で、困らせられることがなかったわ。同級生のお友達の親が子供がヤンチャで困ると泣いていたけれど、そんなことが全くなくてピンと来なかったの。私の神経が細いせいで、逆にあの子にはいつも気を使わせてしまっていた。申し訳なかったわ……元夫が死んでからは特に……」 「昔から、郁は郁だったんですね」  懐かしそうに目を細めながら語るカナの思い出の中の郁に、室見は思いを馳せた。中学で初めて出会ったとき、既に郁は大人だった。真面目すぎる性格は、教師で大人だからかと当時は思ったが、郁本人の性質が大きいのかもしれない。 「確かあの子が十歳のとき、友達がふざけて投げた花瓶があたって額を怪我したことがあったの。そのとき私も夫も仕事で日本にいなくて、私の姉が病院に付き添ってくれた。でも、私たちが帰国してもあの子、すぐにその事を教えてくれなかったのよ。髪でこう、うまく隠してね」  カナが前髪を額の左側に寄せて見せる。 「額を四針縫って、念のためにMRIも撮って、結構な大怪我だったのに。姉も口止めされたんですって。唇を噛み締めて痛いのをじっと我慢して、『親には言わないで』って。あの子があんまり必死に口止めするから、じゃあ自分で言いなさいって姉は言ったんですって。私たちの仕事が忙しいから、こんなことで煩わせちゃいけないと思ったみたいなの。ショックだったわ……親なのに、頼ってもらえなかった。仕事を理由に不在がちにしているせいかと、真剣に悩んだわ」  室見は、郁が母親に、室見と既に八年前に番になっていることを告げていないと教えてくれたのを思い出した。母親であるカナにしてみれば、何でも打ち明けてもらい、息子の力になりたかっただろう。しかし郁は、八年前のことを話さなかった。もしも打ち明けていたら、この母親ならば郁を心配して、おそらくアメリカから日本に文字どおり飛んできた。郁は、アメリカで新しい家族と暮らす母親を、煩わせたくないと思ったに違いない。
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