教科書通りの恋を教えて

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 室見は差し出されたスリッパに足を入れると、エサやりのために理科準備室に向かう郁の後をついてきた。八年前と違い、室見は完全に部外者だった。なぜいまになって、郁の前に現れたのだろうか。疑問が浮かんでも口にはしなかった。なま暖かい空気が澱む廊下を、緊張しながら歩いていく。  室見は中学二年生で転校して以来、はじめてこの学校を訪れているはずだった。  彼が二学期の途中で転校した後、郁も次の年に別の学校に異動していたが、今年の春から再び、彼と出会ったこの学校に赴任してきた。当時の在校生が皆卒業したタイミングでの赴任に、あの時ほぼ何の処分も受けなかったものの、やはり配慮されているのだと感じていた。  職員室のある北棟から渡り廊下を通って、南棟の端に位置する理科室に入った。 「あ、ここも変わってない」  室見は懐かしそうに、教室の中に複数並ぶ実験台の天板を撫でる。八年前は郁より背の低い学ラン姿だった室見が、大人の男性になって再び教室にいるのは感慨深い。教え子が大人になった姿を見ることは時々ある。つい先日も街で「明科先生」と呼び止められて、偶然スーツ姿の青年と会った。当時はやんちゃで手を焼いた生徒が、真面目に社会の一員として苦労しつつもそれなりに日常を楽しんで過ごしているらしい姿に嬉しくなった。室見に対してもその時と同じような気持ちがわいて、郁は目を細めた。
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