教科書通りの恋を教えて

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教科書通りの恋を教えて

 八月中旬、夏休みの中学校には二人の他に誰もいなかった。  明科郁(あかしないく)は、セミの声が降るように鳴り響く木だちの下を通り抜けて校門にたどり着いた。駅から学校までは緩やかな登り坂になっていて、今日のような猛暑に歩いて登るのはなかなかつらかった。ようやくたどり着いたことにほっとして息を吐き、首に掛けたスポーツタオルで顔の汗を拭う。そして顔をあげて職員玄関を見た瞬間、息が止まるかと思うほどに驚いた。  そこには濃紺のシャツにベージュのチノパンツを着た短髪の若い男が立っていた。一見すると父兄かとも思われたが、郁にはそれが誰であるのか、顔の輪郭もわからない距離だというのに直感的にわかってしまい、ひどく動揺した。その男に近づくと、否応なく総毛立って郁の身体は反応を示した。自分にとって、その男が間違いなく重要な人物であることを体感できてしまいおののく。声の届く距離まで近づくと、記憶の中の彼とは、見た目についてはまるで別人だと思った。それでも、その男が彼であることがわかったのは、彼の周囲を取り巻く空気が紛れもなく、自分の生涯唯一の番である彼ーー室見一花(むろみいちか)であることを主張していたからだった。 「先生、久しぶり。ここは変わらないね」  八年ぶりに聞く声は、やはり記憶の中の室見のものとはかけ離れていた。発達途中の少年の声とは程遠い、大人の男性の低い声。見た目も、童顔で時折学生と間違われる郁よりも大人びて見えた。細身で華奢な印象の郁とは違い、室見は薄手のシャツの上からでも筋肉質な身体の輪郭が見てとれる。頭ひとつ分は郁よりも背の高い室見は、少しつり上がり気味の二重の瞳と端整な顔立ちから、他人に冷たい印象を与えることも多いだろうと思われた。柔和な印象の郁とは、対極にあるようだった。  ぐるりと母校の学舎を見回して、室見は郁と視線をあわせた。もう見上げるほどの身長差になった深い色の瞳を、郁はじっと見つめる。それだけで、身体の内からじわりと暖かいものが染みでるかのような感覚に襲われた。それは恐らく室見も同じで、しばらく息をつめてお互い見つめあい、身体の感覚の波が落ち着くのを待った。
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