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「息が詰まりそうだ……」  早朝のジョギングは目下、唯一のリラックスタイムと言えた。  夜も明けきらない内から、オフィス街にポッカリ穴を開けた広い公園を巡って軽く一時間、見上げれば首が攣りそうなラグジュアリーな高級ホテルへ戻ってくる。仕事のため数日前から泊まっているが、ロケーションも待遇も申し分ない。スタッフも一流なら食事も一流。用意された客室は都会にいながら木の温もりと間接照明で和のテイストを上手く取り込み、上質な居心地を約束してくれる。落ち着かないのは、この贅を尽くしたクリスタルのシャンデリアが燦然と輝くパーティー会場で、とりわけ、花を生ける集中力も削がれる人目が煩わしいのだ。 「家元、チェックをお願いします」 「家元ね……、まだ慣れないな」 「それでも貴方は家元なのですよ、利光さん」  門弟と言っても遥かに歳上で俺の小さい頃を知っている山下さんが「さぁさぁ、時間がありませんよ」と、糸のような目を一層細めて急かしに掛かる。俺はゆっくり食事を摂る時間もなく、ずっとこの調子で花鋏と針金を手に追いまくられていた。開け放しの片扉から、到底、遠慮しているとは思えないヒソヒソ声が聞こえてくるのが神経に障る。 「あれが、新しい家元だって?まだ、若いな」 「アトリウムロビーの花を見たか?斬新で目を惹いたよ。中々やるもんだ」 「無口で何を考えているか判らないって噂ですよ。どうりでツンと澄ましておいでだ」 「疲労を蓄積した顔は色気があってそそられる。いいねぇ。旨そうじゃないか」 「本気かい?あはははっ、お盛んなことだ」  聞こえよがしな嘲笑も下卑た話もうんざりする。  こっちは然もなくても五日前から、時折、背筋がゾクリとするような鋭い視線を感じて気が立っているんだ。 「耳障りな。昼二時までは関係者以外シャットアウトじゃなかったのか?」  ちっと舌打ちして「まぁまぁ」と、山下さんに宥められた。 「何しろ、二千名を超えるとあって、会場のセッティングも遅れているようです。スタッフが出入りするたびに開け閉めされる方が余程、落ち着かないと思いますよ?」 「それはそうだが……、言われ放題も癪に障る」 「人の口に戸は立てられぬと申しますから、お気になさらないことです。利光さんは、お若い。耳が良くて結構ですな。私には蠅がブンブン飛んでいるほどにしか聞こえません」 「ハエか……」 「ええ。およそ『花』が御心を乱されるものでもございません。さ、仕事仕事……」  流石に年の功だ。俺は、まだまだ未熟だと思い知らされる。 「どうせなら、もっとマシな男の御眼鏡に適いたいね……」 「は……?」 「何でもない。ここにカトレアラビアタを足そうか」 「それは、よろしいですな」  山下さんの「何本にいたしましょう」という声を聞きながら、俺はまた背中に例の視線を感じて振り向いた。すっかり過敏になっている。先刻の連中がいなくなっていたことにはホッとしたが、どうにも気味が悪く、ずっと見張られているような気さえしていた。 「余程、俺のファンらしい……」  初日には天国の寝心地だったベッドでも、この二日ほどは満足に眠れていない。馬鹿な怯えを振り払って兎にも角にも仕事に集中することにした。今夜のパーティーには俺も賓客の一人として招かれている。自己紹介なら、後ほど壇上でさせて貰うさ……。  華道、佐草流五世家元、佐倉利光(さくらとしみつ)。  独創的で形式に捉われず高い芸術性を求める佐草流に於いて、俺は幼い頃より才に恵まれ、先代の急逝により三ヶ月前に家元を継承した。大学では彫刻を学び、卒業後はディスプレイやブーケ、最近では香水のプロデュースも手掛ける新進のフラワーアーティストとして嘱望されている。歳は二七歳。若い感性を買われて今夜のパーティーの装花一切を任された。  会場は格調高く、気が遠くなるほど広い。  白い壁の清潔感。バーントアンバーを基調とした絨毯には金糸の刺繍が施され、中央には見上げるほど大きな花器に大輪の花々が絢爛に咲き誇っている。方々を飾る花のアレンジも多くの感嘆の声を集め、俺は密かに達成感と誇らしさで胸を熱くしていた。天井から豊かなドレープを利かせたプルシャンブルーのロングカーテンは生地が上質で、絨毯との色彩バランスも優れている。ホテル自慢の摩天楼ビューを活かすために、それらは纏められていたが、まるで天上のような広間に用意された更に一段、高みから二千名を見下ろす緊張感に足が竦まなかったと言えば嘘になる。そして、そんな時ですら、例の視線の主がどこかで俺を見ているのだろうと思い、俺は己を嗤った。居ないと気になって探しているとは、 「まったく、どうかしている」  家元として挨拶を終え、装花への賞賛と労いの拍手を浴びながら壇上を降りた俺は、ひとまず安堵の息を吐いた。こういう晴れがましい場所は正直、苦手だ。主賓の大物財界人や著名人には大勢が屯するが、多くを占めるのは若くエネルギッシュな企業家たちだ。情報交換やコネクションを結ぶ交流の場として野心の渦巻く一方で、裏ではセレブリティーが道楽のターゲットを物色しているという側面を俺は理解している。安売りする気も玩具にされる気もないが、楽しい夜を過ごせる相手を探しているという点では俺も同類だからだ。  この日のために俺が誂えたスーツは細身で優雅なピークドラペルのダークグレーのスーツだった。ポケットチーフはフォーマルに、ネクタイはワインレッドを合わせてみた。花を引立たせるには、ややシックな装いの方がいい。チェーンのついたラペルピンをチョイスして、さりげなく洒落てみたつもりだ。 「素晴らしいスピーチでしたよ」  という声を皮切りにアッという間に周囲を囲まれて身動きが取れなくなった俺は、 「君の装花は艶やかで、まるで君その人のように馨しいよ」だの、 「いいスーツをお召しですね。ストイックで何処かミステリアスだ」だの、歯の浮くような言葉を浴びせられ、恐れ入ります、有難うございますのバーゲンセールを繰り広げながら、ほとほと、うんざりして突破口を探していた。そしてまた、今度は不躾なほどハッキリと感じたのだ。背中向こうに、あの刺すような鋭い視線を……。 「おつかれさん」  ひどく打ちとけた調子で低く甘やかな声がして、花の香にナチュラルだが人工的でスパイシーな香りが融け合った。悠然と現れたのは白馬の王子様然とした長身の男で、権高な笑みを浮かべながらシャンパングラスを手に威容を誇っている。パールホワイトのスーツが余りにも眩しく、綺麗なフロスティブルーのシャツにターコイズが基調のネクタイを大きな結び目に整え、パフスタイルのチーフもとても華やかだ。  フォーマルな装いに慣れた洗練された本物のセレブリティーの登場に俺は高揚した。この場にいるということは社会的地位も財力も有るエリートなのだろうが、外見がそれらを裏切らない。俗な言い方をすればオーラを身に纏っている。それでいて見栄や気取った様子はなく、育った環境が自然と身に備えたのだろう傲慢な風情が、いっそ清々しい。「誰だ?」と問うより早く、俺を囲んでいた連中がザワザワと潮の引くように距離を置き、 「利光、少しいいかな?」  馴れ馴れしく呼び捨てにされて、意思を持った大きな掌に背を抱かれた。余程の有名人なのか明らかに空気が変わり、誰もがその迂闊に踏み込ませない風格に固唾を呑んで道を開ける。不思議と嫌悪感はなく、得体は知れないが、むしろ面白く思えてきた。 「二人にして貰えますか?」  と、周囲を人払いする優越感ったらない。男は意を得たりとニヤリとして俺を窓辺へ促した。
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