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湯気が視界を遮り、ふ、と息を吹きかける。左右に分かれた薄幕の向こうに思った通りの横顔が現れる。ぱら、とページをめくる音がする。一人の男性が座って読書をしていた。何度かこの店に訪れてわかったのは、恐らくこの男性はみきにしか見えていないということだけだった。すぐ隣のテーブルでみきとは色違いのマグカップが置かれている。その横顔を見つめていたが、ふと男性の読んでいる本は、まさに今、みきが読みたいと思ったシリーズの最新刊だった。いつものように眼鏡をかけ、す、と静かに音を立ててコーヒーを飲む拍子に目の下にうっすらと隈があるのが見えた。帽子の奥にあるだろうその瞳は、のぞき込まなくても物語を一心に追っているに違いなかった。本を開けば、そこには必ず異世界が見えない腕を広げている。ここは本の中の世界に似ている。現実とは壁を隔てた空間にあり、時間の流れがゆっくりになる。
ココアを一口ずつ飲む度、みきはクラスの子達よりも物覚えが悪く、勉強もあまりできないのは何故だろうと考えていた。運動もうまくできないから好きではない。運動好きな子は明るくて何でも物おじせずにはっきり話す子達ばかりだ。自分は誰かと話そうとすると緊張してうまく言葉が口から出てくれず、変に思われてしまう。それでも、他の子と「同じくらい」になれるように追いつかないといけない。他の子と同じようになれれば、クラスの生徒も、父や母も、みきを好きになってくれるはずだ。
みきがマグカップを握る手にぎゅっと力を込めたとき、男性がカップをコースターに置いた。そして本を閉じるとつと立ち上がり、音もなくドアへ向かって歩いていく。みきはびっくりして、つられて席を立った。男性は固く閉じられたままのドアへまっすぐ歩いていく。ぶつかっちゃう、とみきが心の中で叫んだ瞬間、外でごおっと強い風が巻き起こり、ドアが大きく開いた。ドア窓の小さなレースのカーテンがドレスのように膨らんでしぼむ間に、男は歩調を緩めることなくドアを通り抜けていく。吹き込む風が天井の古ぼけたシャンデリアをぐらぐら揺らし、棚上に寝かされた雑誌がパラパラとめくれた。みきは男性に続いて外へ飛び出した。空は端から少しずつ橙に染まり初めている。
ばたん、とドアが閉まる音が聞こえ、ゆきはカウンターから顔をのぞかせた。店内には誰もいなかった。
「みきちゃん?」
呼びかけてもしんとしたままだ。
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