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ゆきはテーブルを見て首を傾げた。壁際のテーブルと隣のテーブルに一つずつマグカップが乗っている。みきの方はともかく、紺一色のシンプルなデザインは女の子には大人びすぎている。まるで他に誰かいたかのようだ。
「ベルが鳴れば気が付いたと思うんだけど、聞き逃したのかしらね」
椅子にそのまま残っているランドセルから、少し経ったら戻ってくる可能性を考え、様子を見ようと決める。みきの隣のテーブルのカップを手に取るとほのかにコーヒーの香りがした。その時、まるで見えない手が動いたかのようにカーテンが大きくめくれた。細く開けていた窓からゆきに向かって強い風が吹きつけ、反射的に目をつぶる。ゆっくり瞼を上げると、テーブルの上に点々と小さな白い花弁が散っていた。ひらひらと頼りなく舞う花弁に思わず手をかざす。少し前に散ったはずのそれは、しわしわの手のひらに落ちた。
そういえば、と二日前に桜茶を買ったことを思い出した。どこにしまったのだったか。唐突にあれを飲もうと思い立つ。カウンターの奥へ急ぐ。薬缶に水を注いで火にかける間、棚の引き出しをあちこち開けてみると未開封の桜茶が見つかった。茶漉しを用意し、お湯を注ぐ。湯気の立つ湯呑を盆に乗せ、せっかくだからと店内に再び戻る。自分の店なのに客用のテーブルにつくのは悪くない気分だった。いかにも春らしい薄緑色のお茶は、口に含むと懐かしい香りが広がり、思考が一気に昔に巻き戻る。一口ずつ口に含むたび、瞼が重くなってくる。桜の成分には睡眠作用があったわね。眠りに落ちていく意識の中、そんなことを思い出した。
体がやけに軽いのは、ランドセルをカフェに置いてきてしまったせいだと気が付いた。荷物がないと心まで軽くなるのか、みきは一人微笑んでしまう。だというのに目の前の背中になかなか追いつけないのは何故なのか。男を見失わないよう小走りで駆け続ける。二つの影はカフェを出て商店街を抜けた。徐々に民家が少なくなり、田んぼと濃い緑の山に囲まれた畦道が伸びる。この道の先には小さな神社があり、町の外れでもある。神社を抜けると隣町だ。作物の手入れに出ている農家の人も夕方に差し掛かるこの時間は見当たらない。空は黙って橙色に塗りつぶされていく。どこまでいくのだろう。どこまでついていこう。風が吹くたび、稲穂は一斉に同じ方向へ首を垂れる。
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