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プロローグ
「え。私の勤務先は夏山愛生堂ですか」
「不服かい」
「い、いいえ。そんなことは」
清掃員の小花すずは、清掃会社ワールドの女社長の伊達の指示にドキドキしていた。そんな彼女は現在清掃しているすすきのBoysビルの掃除中、どこか薄らぼんやりしていた。
「エンジェル。どうしたの。モップが逆だよ」
「あら?やだ。ごめんなさい」
ホストクラブばかりのビル。ここのナンバーワンホストの迅に心配された彼女は、悩みを打ち明けた。
「明日からお掃除する会社はちょっと知り合いがいるのでドキドキなんです」
「断ればいいじゃん。ずっとここにいなよ」
「ここには疲労骨折からカムバックする椿さんがお戻りですわ。どうか皆さんで暖かく迎えてください」
「俺としてはエンジェルの方がいいのにな」
清掃老婆を思い出した白シャツ胸見せの迅はやれやれと髪をかき上げた。
「で。なんでドキドキなの」
「それは言えませんが。大手企業なのでちゃんとお掃除できるかなって」
「エンジェル。いいかい。俺の目をご覧」
彼女は睡眠不足で赤い目の迅の眼をじっと見た。
「お疲れですね」
「痒いんだ」
「ふふふ」
迅は笑って彼女のモップを奪った。
「良いかい?掃除っていうのはさ。確かに汚れた場所を綺麗にするだけだけどさ。綺麗にしてもらっているこっちにとってはそれだけじゃないんだよ」
「意味がひとつもわかりませんわ」
「……エンジェルがいるだけで。元気が出たりさ。嬉しくなるんだ」
ホストの彼はそう言ってモップを掛けた。
「君は心も綺麗にしてくれるんだ。だから自信持てよ、な?」
「何か迅さんにそう言われると、すごく励みになりますわ」
「俺がプロってわかってくれた?」
笑顔の彼はモップを返してくれた。
こうして掃除を済ませた彼女は札幌中島公園の近くにある自宅に帰ってきた。
「ただいま。疲れたー」
着替えが入っていたバッグを置き、手洗いを済ませた彼女は写真の前に座った。
「お父様。お母様。聞いてください。鈴子はね。お兄様のいる夏山ビルの掃除に行くことになったのよ」
写真の中の若い両親は何も言わずに微笑むだけであったが彼女は続けた。
「お兄様は鈴子の事なんかご存知にないから気にしてないけど。大きな会社でしょう?ヘマをしないかヒヤヒヤなのよ、あ」
そこに電話が鳴った。彼女はこれに出た。
『もしもし。お嬢様。今度のお掃除はどこになったのでございますか』
「義堂。それがね。お兄様の会社なのよ」
『なんと。夏山愛生堂ですか』
電話の向こうの老人は止めろと言った。
『あそこはブラック企業ですぞ。性格の悪い女やモラハラの男どもがいる極悪非道の世界。人の行くところではござりませぬ』
「でもね。行ってみたいのよ。お父様が社長をしていた部屋があるんですもの」
『頑固な鈴子お嬢様の事ですので爺は諦めますが。良いですか。決して慎也ぼっちゃまに正体を知られぬようにせねばなりませぬぞ』
「わかっています。義堂はしつこいわ」
こうして電話を切った彼女はそっと初夏の夜空を眺めた。星が光っていた。
「お父様。お母様。見ていて下さいね。鈴子はお兄様の会社をピッカピカにしてきます。さあて、お風呂に入ろっと」
札幌の短い夏の夜。爽やかな空気の中、彼女は優しい気持ちに包まれていた。
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