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112 恋ゴルフ 3
「慎也君!やっぱりそうでしたよ!」
「俺も見た。野村君の言う通りだったな」
月曜日の夜七時。円山ゴルフ練習場で、慎也はメルセデスのセールスマンの向井の声に深く頷いた。
「あのポロシャツは予言通りですよ」
向井は小林コーチの黄緑色の背に首を振った。
「明日はどうなるんでしょうね」
「くそ。俺、明日は来れないんだよな……向井君は?」
「僕も分かりません。あ?今LINEの返事が来ました。明日の午前中は、野村君が来るって」
「じゃあ。彼に任せようか」
そう言いながら慎也はクラブを取りだした。すると昨日使ったせいで、草が付いていた。
「慎也君。このタオルで拭いていいんですよ」
「サンキュー」
向井は椅子の横に掛けてあったタオルを慎也に渡した。慎也はこのタオルをしみじみ眺めた。
「そうか。他の打席にもタオルがあるけど。これってみんな社名が入っているよな」
慎也の白いタオルは、札幌では有名なふとん店の名前が入っていた。
「お客さんが持って来るのかもしれませんね。今度僕も持ってきます」
「俺も持って来る!」
「もうありますよ。慎也君の会社は」
いつの間にか背後には小林コーチが立っていた。
「姫野君がいつも持ってきてくれますから」
隣の打席に下がっていたタオルは、夏山カラーのサーモンピンクだった。
「さあ。それよりも。昨日のグリーンの感触はいかがでしたか?」
「僕は、成績がさっぱりでしたが。慎也君と知り合えて、とても楽しかったです」
「俺はくやしかったですよ?だから今日も来たんです」
「そうですか。まず収穫はあったようで良かったですね。さあ、練習を続けて下さい」
穏やかな小林コーチに、二人はクラブを持って打ち始めた。
しばらくして手を休めた二人は、飲み物を飲んだ。
「ところでさ。向井君て、ここに来て車は何台か売れたのかい」
「はい。おかげ様で一か月で三台」
「三台も?すごいじゃないか」
向井は恥ずかしそうに頬を染めた。
「下取りで来た中古車を乗って来た時に、興味が有りそうな人がいたんですよ。だから僕、隣の席に乗せてこの辺を一回りしたら、翌日会社に来てくれて」
「買ってくれたのかい?」
「はい。そんなお客さんが多いので。ほら今夜も乗って来ました」
黒い車がここからも見えた。
「あの車は、ライトが明るいんですよ。だからこんな夜に誰でも一度乗れば、気に入りますね」
人の良さそうな向井の目は、この時、怪しく光った。
「そうか……でも俺さ、買ってあげたいんだけど、社長だからお金持ちって勘違いされるから、今のエコカーしか乗れないんだよ」
「いいんですよ?あんな高い車、慎也君は友人ですから無理して買わなくていいです」
彼は慌てて慎也に手を振った。
「それよりも。小林コーチのポロシャツです」
「これからどうなるってか?だんだん色が薄くなるんだろう」
「はい。その後、どうなるんでしょうね」
二人はじっと彼の背を見た。
「しかし。おしゃれだよな。俺の会社の社員ときたら、クールビズって言ってんのに、まだネクタイしてるんだぜ。全く、小林コーチを見習って欲しい……あ?いい事思い付いた」
嬉しそうな慎也に、向井は首を傾げた。
「今度、『スーパークールビズ』っていうのをやってみよ!うん。これならみんなやる気になるぞ」
「社長さんは大変だな……そろそろ打ちましょうか」
「おう!」
この夜、昨日の筋肉痛も忘れて慎也は白球を存分に打った。
翌朝の午前中。慎也のスマホにメッセージが来た。
「これは何色?……総務部長、このポロシャツって何色に見えますか」
「……自分にはタマゴ色に見えますね」
社長に見せられた画像に、総務部長は真面目に応えた。
「そうか。このまま、イエローゾーンに突入なのかな……」
「社長?」
ぶつぶつ話す慎也に戸惑う総務部長に慎也は顔を上げた。
「あ、済まない。どうだい。みんなの『スーパークールビズ』は」
すると今度は、部長がスマホの画像を見せた。
「なんだ、これは。ゴルフコンペか?……渡さんは作務衣って。これふざけてないですよね」
うんとうなづく部長はさらに画像を見せた。
「風間、ひどいな。あいつこの恰好で会社に来たの?……姫野も……あのさ。みんなクールビスの意味わかってますよね」
「そうであってほしいです。これが最後です」
ちらと見えた石原の白いスーツ姿を慎也はまともに見ず、部下に命を出した。
「今すぐ。このクールビスを中止して下さい。これらの社員には今日は外に出ないようにメールで通告して下さい!」
「仰せのままに……」
部長の去った後、慎也ははあと溜息を付いた。
この夜は会議でゴルフ練習場には行けず、翌日になった。
今夜は練習に行こうと張り切った慎也は、仕事をこなし7時には練習場にやって来た。
パコーーーン!
……いい音。おっと、菜々子先生か……。
パコーーン!
……飛ばすな。どんなドライバーを使ってんだよ?
彼女の背後を通り、慎也はお気に入りの奥の打席に向い、重いゴルフバックを置いた。
……今夜は向井君は来れないし。野村君も来てないから。
自分が小林コーチのポロシャツを確認する係りになっていた彼は、キョロキョロして小林を探した。
……どこだ。どこだ?あ?いた……。
慎也はスマホを取り出し、写真を撮った。
……想像通り。黄色い世界に入ったぞ、と。
「ちょっと。君は何をしているの?」
「うわ?」
慎也の画像を菜々子は覗き込んだ。
「もしかして。小林コーチのポロシャツをチェックしてるの?」
「いいじゃないですか。別に!」
「誰も悪いとは言ってません!どうして……」
ムスとした慎也の顔を見て、奈々子ははっとした顔をした。
「ご、ごめんなさい」
彼女はそう言うと背を向けて、受付に走って行ってしまった。
「一体何なんだよ?」
この夜は小林コーチも忙しく、慎也は指導をうけないまま、帰る事にした。
「お疲れ様でした」
はいと慎也が差し出したカードを受け取った菜々子は、機械に通した。機械の画面にはスロットが回っていた。今夜の慎也も数字を揃えることができなかった。
「お返しします。ありがとうございました」
俯き元気の無い菜々子に、慎也は眉をひそめた。
……俺、何かしたか?
自動ドアが開いたので、彼は足を進めた。出たドアの外から室内をそっと見ると、どこかさびしそうな菜々子の顔が、自宅に帰っても離れなかった。
そんな事が有った翌日から慎也は所長会議などで忙しくなり、すっかりゴルフ練習場から足が遠のいていた。
向井と野村からくる小林のカラー報告を楽しみにしていたが、やはり菜々子の暗い表情が頭から離れなかった。
そしてやっと時間を作り、彼は練習場に向かった。
「ええ?紫??やばい」
黄色の次が紫とは完全に想定外だった。
「これはみんなに伝えないと!」
二人の返事によれば、反対色になったのではないか、という事だった。
「しかし……さすがというか。何と言うかだな」
遠くの打席から小林の背をしみじみ眺めた慎也は、そう呟き、クラブを手に取った。
パコーーン!
「いいですね。重心の移動が巧くできています」
他の打席では菜々子が生徒に指導していた。
今日の菜々子は一つにしばった長い髪を横に垂らし、ブルーのウエアを着ていた。
そして一人一人に声を掛けながら、慎也の方に近付いてきた。
……どうせ俺の事は、また無視する気だろうな。
しかし。先日の気まずい雰囲気も嫌だった彼は、思い切って菜々子に声を掛けた。
「菜々子先生。俺の事もお願いします!」
「え?は、はい」
慎也に声を掛けられた菜々子は驚いた顔だったが、ふうと息を吐き、彼の打席へ向かった。
「……だいぶフォームが安定して、頭がぶれなくなりましたね」
今夜の彼女はずいぶん低姿勢で慎也に指導を始めた。
パーーン!
「いいですよ。その調子でどうぞ」
カーーン!
「当たってます。続けて行きましょう」
カツン!
「もうすこしボールを良く見ましょうか」
「あのね。菜々子先生。俺の事バカにしてんですか?」
「バカに何かしてないわよ。人がせっかく優しく指導をしているのに」
「いつもと極端過ぎだし。もっと、こう普通に出来ないんですか?」
すると菜々子は、又あの悲しい顔になった。
「……ごめんなさい。私はこれで」
急に下を向いた彼女は、くるりと後ろを向き、立ち去ろうとした。
「待った。話の途中でしょう、あの」
「キャーーーー?離して!」
ビタン!!
思わず手首を掴んだ慎也を、菜々子は平手打ちをした。
「痛……」
「え?あの、やだ?つい、あの、ごめんなさい!どうしよう?」
顔をしかめて頬を押さえた慎也に、菜々子は動揺し慌てふためいていた。
「一体なんの騒ぎですか、え。菜々子さん何をしたんですか」
掛けて来た小林コーチに、慎也は口を尖らせた。
「いきなり菜々子先生がビンタを」
「ごめんなさい!本当に、ああ、赤く腫れて」
「とにかく。大きな声を出さないで!菜々子さん、慎也君をVIP室にお連れしなさい!」
「はい。こっちです、慎也君」
慎也は、客の見守る中、部屋へと移動した。
「ごめんなさい。う……痛そう」
「痛そうじゃなくて。痛いから!」
菜々子の持って来た氷で頬を冷やしている慎也は不貞腐れた顔で菜々子をじろと睨んだ。
すっかり意気消沈していた菜々子はべそをかきながら、彼に飲み物を渡した。
「本当にごめんなさい」
「謝るのはもういいからさ……一体なんなの?手を掴んだけなのに」
すると部屋に小林が入って来た。
「本当にうちの社員が失礼をしました。誠に申し訳ございません」
頭を下げる小林に倣い、菜々子も頭を下げた。
「それはもういいですから。理由をちゃんと説明して下さい」
「実は……」
小林と菜々子は立ったまま、説明を始めた。
「菜々子さんは、男性恐怖症なんです」
「男性恐怖症って。そんなわけないでしょう?」
「菜々子さん。ここまで来たら慎也君には事情を話しますよ。彼女は年の近い男性が苦手でして。プリンセスホテルの業務にも支障がでる程なので。ここに来て訓練していたんですよ」
「支障が出るって。そんなに若い男が怖いんですか」
菜々子はハンカチで目を押さえた。
「彼女は子供のころからゴルフの世界で戦ってきましたから。丸腰の彼女は、慎也君に手を握られただけでこの有様です。まあ、ゴルフを通じてでしたら会話が少しはできますので、ここで指導を通じて男性に慣れる訓練をしていたんですよ」
……そんなに怖いのか。
「小林コーチ。私はやっぱり無理です。もう辞めます」
「何を言い出すのですか」
「ここのボランティアも、プリンセスホテルも辞めます……」
「菜々子君……本気なんですか?」
目からぽろぽろ涙を流す彼女を慎也はじっと見つめた。
「慎也君。貴方は何も悪くないの。本当にすみませんでした。私の個人の責任ですので、どうかここのゴルフ場は無関係にお願いします」
そういって彼女は深く頭を下げた。
「理由は分かりました。でも、その辞めるっていうのは、俺は許せないです」
「……だって。他に責任の取り様が」
「あのね?みんな社員は辞める辞めるって簡単に言うけどさ。社長の俺から言わせてもらうと、そんな無責任な事はないから」
「無責任……」
「そう。俺をみなよ。辞めたくても辞められないんだぜ?」
菜々子はグスと鼻をすすった。
「社員はマサチューセッツ工科大学が言えないし。俺はヘタなのにゴルフをしないとならないし」
「ごめんなさい」
菜々子はハンカチで目を押さえた。慎也はまっすぐ向かった。
「菜々子先生。辞めないで下さい。そして俺がまともにゴルフができるまで、ちゃんと指導して下さい」
「……慎也君はそう言ってくれてますよ、菜々子さん」
「でも、私は」
……そうか。俺が怖かったのか。悪い事をしたな。
少女のように戸惑う奈々子を見た慎也は、なぜか心が痛んだ。
「俺も悪かったです。怖がらせて。でも、もう俺にバレたんだから、怖くないでしょ?」
「慎也君……」
「菜々子君。どうしますか」
「俺は実験台になりますよ。どうぞお好きに」
菜々子はじっと慎也を見て、深呼吸をした。
「わかりました。私、頑張ってみます」
そんな小林コーチは、飲み物を取りに部屋を出て行った。彼女を椅子に座らせた慎也は、訊ねてみた。
「ちなみに。何がそんなに怖いんですか」
すると彼女はぽつぽつ話だした。彼女は男性が急に怒る点や、暴力が怖いと言い出した。
「男の人がそうとは思わないし。それは誰でもそうだと思うけど」
「精神科の先生もそういうんだけど。私、男の人に慣れて無いから……」
いつものきびきびした彼女と打って変って、実に弱々しい女の子がここにいた。
「そうか。わかった。俺も気を付けるから」
「うん……ありがとう。慎也君」
赤い目でうなずく彼女に、慎也は笑みをこぼした。
「はいはい、二人とも。特別にアイスクリームをお持ちしましたよ」
「おお。抹茶だ。はい、菜々子さん!」
「ありがとうございます」
いただきまーすと二人はスプーンを刺した。
「ところで慎也君に聞いていい?」
「なんですか?」
「マサチューセッツ工科大学が言えないって、どういう意味?」
「ハハハ……それはですね」
菜々子のスナップの効いた平手打ちで頬を赤く腫らした慎也は、涙で目を赤くした菜々子に会社の話をして笑顔を作らせた。
……可愛いな。これが本当に菜々子さんなんだな。
この夜、頬は痛んだが、彼の心は清々しかった。
完
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