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114 あげてください
「スースー……」
……どうしよう。次で降りなきゃダメなんだけど。
夕刻の札幌の市電の中。白い吊皮につかまり立ちしていた拳悟は濃紺色の座席で完全に寝落ちしている小花を案じていた。
『次は中島公園通りです。お下りの方は……』
……ダメだ。起こさないと。
部活の帰りの彼は、動く市電の中を歩き、彼女の元に向かった。
「小花っち。下りるよ、ほら」
「ん?まあ、拳悟さん……ありがとうございます」
彼は寝ぼけてよろよろしている彼女の荷物を持つと、開いたドアに彼女を誘導し供に下りた。中島公園は黄昏に暮れていた。
「ずいぶん熟睡してたけど。仕事って大変なのかい」
「うふぁ。夕べ暑かったじゃないですか?よく眠れませんでしたの……あ、待って、特売している!」
通り道のスーパーの店先に陳列された商品に、彼女の目が光った。
「見て、サラダ油が安いわ。拳悟君、私お買い物して帰ります。ありがとう」
そういって彼女は彼に預けていた自分の荷物を受取ろうとした。
「いいよ。ここで待っているから買って来いよ。荷物持ってやるから」
「本当にいいの?じゃ、早く済ませますね」
彼女は素早くカゴを手にし、サラダ油を二本入れると、店内へ進んで行き、あっと言う間に戻ってきた。
「お待たせしました!よいしょ、重いから、荷物は二つにしたの。一つは私が持つから」
「いい。俺が持つから、小花っちは自分のバックを持って……行くぞ」
ボクシングで身体を鍛えている拳悟はそういうと、両手に荷物を下げた。
「本当に助かったりました。最近、揚げ物に凝っているので」
「あのコロッケ美味いもんな」
「そうでしょう?あの久美さんがくれたジャガイモは美味しいもの」
久美からジャガイモを大量にもらった小花は、これをコロッケにし、久美の家に持って行った事があった。
「そうか。母さんが同じく作ったけど、小花っちの方が美味かったよ」
「そんな事ありませんよ。だって作り方は久美さんに教わったんですもの、あ。拳悟君、ストップ!」
家まで帰って来た二人は、児童公園のところで立ち止った。
「なしたの?」
「し!見て、鉄平さんよ」
拳悟の兄、鉄平は、女の子と立ち話をしていた。
「知らない振りして、何気なく行きましょうね」
うんと頷いた拳吾と小花は、たった今『何気なく行く』と誓ったのに、実際は妙に小走りによそよそしく彼らを見ないように身を屈めて歩きだしていた。
その時、会話が聞こえてしまった。
「鉄平は私の事なんて何とも思ってないんでしょう?他の誰かと比べているんだもの」
「そんなこと無いさ」
「バカにしないで!」
バチ―ンとビンタを食らった音が響いたので、拳悟と小花は思わず立ち止まってしまった。
そして、うわーんと泣きながら去って行った彼女とすれ違った二人は、恐る恐る鉄平の方を見た。
「ご、ごめんなさい!拳悟君、行こう」
「おう」
口を切ったのか片手で口を拭いながらこちらを見ている鉄平に詫びながら、小花はダッシュで自宅まで帰って来た。
荷物持ちの御礼と、鉄平に配慮して欲しいと拳悟にお願いした小花は、こうして家に帰って来た。
翌朝。日課のランニングに、鉄平が現れた。
「悪かった。昨日は驚かせて」
「いいえ。すみません。見るつもりはなかったんですけど。元気出して下さいね」
「……ありがとう。じゃ、また」
そういって彼は片手をあげて彼女を追い越して行った。
名門バレー部のキャプテンの頬は手の形に赤くなっていたが、颯爽と走る姿に、彼女はほっとしていた。
そんなある日。中島公園一丁目のバレーのメンバーに召集命令の猪熊メールが来たので、みな町内会の公民館に集合した。
「えー。それではみなさんに相談があります」
そういって猪熊はプリントを配りだした。
「……鉄平君の応援か」
「そうよ、知子。来週決勝戦なのよ。高校ももちろん応援するけどさ。私達も地元として応援に行くことになったのよ」
相談だったはずなのに、プリントには集合時刻が書いてあった。
「じゃ、行けない人は?……いないね、よし!決定」
この後、お弁当の手配の係りなどを決めて、この会は終了した。
帰りの夜道。小花は久美と歩いていた。
「悪いわね。なんか猪熊さんは張り切ってくれてさ」
「だって決勝戦ですもの。燃えて来ますわ」
外灯が作る小花の影法師は、両手をグーにして震えていた。
「ありがとう……あ?私まで緊張してきたわ?」
すると背後から仲間が話しかけて来た。
母親のアンタがそんなことでどうするの、とか、自分が代わりにでたい、とか、確かに自分達も一回だけなら通用するかもしれないけれど、ユニフォーム姿が放送禁止じゃないのか、などと勝手な話をしていた。
そして各々が家に入って行き、小花も家に帰った。
翌朝。ジョギングしていた小花は、鉄平と一緒になった。
「少し休憩しよう!あのさ、俺の試合に来てくれるんだって?」
「はい、私バレーボールの試合を生でみるのは初めてですわ」
中島公園の池の傍で二人はゆっくりと歩いていた。
「小花っちの初めて?う」
「まあ、大丈夫?のぼせたのかしら……」
鼻血が出てしまった鉄平に、小花は首にかけていたタオルで鼻を押さえた。
「これ使って?まあ、止まらないわ」
「……?マジやばい」
タオルの匂いの感想を言った鉄平に、小花は慌てて彼の背を押した。
「あのベンチに座りましょう。頭を高くしないと……はい、ここに座って?」
小花はベンチの端に座ると右隣をトントンと叩いた。
「失礼します……」
「はい、頭をこっちに乗せて?いいから」
鉄平は鼻を押さえながら彼女に膝枕をしてもらっていた。
「鉄平さん。どう?血は」
「……全部喉に流れてくる」
「やだわ?うがいする?私、自動販売でお水を買ってくるね」
そういって立ち上がろうとした彼女の手首を彼はぐっと掴んだ。
「もう少しで止りそうだから……このままでお願いします」
「そう。いいですよ。止まるまで、こうしていましょうね……」
公園内を散歩する人が、いぶかしそうに見ていく中、鉄平はこの膝枕タイムをおおいに満喫したのだった。
鼻血が止まった彼と一緒にゆっくり歩いて帰って来た小花は、いつも通り仕事に向かった。
こうしてあっという間に決戦の日がやってきた。
「中島公園一丁目―ー――ー――ファイ」
おう!と拳を立てる狭い場所バージョンの円陣を決めた中島公園一丁目ママさんバレーボールチームは、観客席で応援の用意を始めていた。
「うわ。高校の応援って。凄いんですね」
「兄貴の学校ってブラスバンドが有名なんだ」
珍しく弟の拳悟も応援にやって来ていた。地域の若い人の席という事で、小花の隣に座っていた。
「……あのさ、小花っち。今日さ」
「ちょっと!応援の団扇が足りないじゃないのさ。これじゃないよ?夕べ作った奴!」
猪熊の声で拳悟の声が聞こえない小花は彼に耳を寄せた。
「なあに?聞えないわ」
「今日な。応援の時さ」
「柄のところが黄色だった奴……そ、その大きい奴。え、なしてそれしかないの?」
猪熊の声で全然聞こえない会話にイラとした拳悟は、隣の小花の肩に手をぐいと回して耳元に囁いた。
「今日は危険なの!だから俺の傍を離れるんじゃね―ぞ!分かったか?」
「何が危険なの?」
「ボールが飛んで来るし、ここは広いから小花っちは迷子になるから!いいか?」
「はい。そんなに心配なら」
その時、猪熊が観客席に振り返った。
「さあ、三位決定戦が終ったわよ。いよいよ鉄平の出番よ」
キャア―――!という黄色い声援に包まれて、コートには男子バレーの選手達が現れた。
「兄貴は……ほら、あれだ。今、サーブの練習しているし」
「まあ。ユニフォーム姿が凛々しいですわ」
キャプテンのマークを付けた鉄平は、首や腕を回し、ストレッチをしていた。
鉄平の通う北星学園高等部はスポーツでは名門高であり、彼はバレー部のキャプテンを務めていた。
両親ともにプロのバレー選手であった彼は身長185センチの体格を生かし、エースアタッカーとして名を馳せていた。
「ねえ。拳悟さん、あの応援している女の子達の持っている団扇って」
「あ。あれ?兄貴かもな。人気があるんだよ」
鉄平の顔写真入りの団扇は、アイドルのコンサートのように会場ではためいていた。これに小花は感激していた。
「すごい人気なのね」
「でも気にしないでくれよ。今日は兄貴のプレイを見てくれよな」
「もっちろんです!あ。始まるわ……」
やがて会場のアナウンスが流れ、決勝戦が始まった。
「まあ。相手も背が大きいのですね」
「ああ。全寮制の男子校なんだ」
スポーツ刈りに白い鉢巻きの相手チーム、ホワイト高校の選手は、長い前髪をかき分けている北星学園の選手をネット越しに睨んでいた。
「みんな!鉄平のサーブだよ」
……そおれ!
彼の動きに合わせて会場からは声援が響いた。
『ピ!アウト』
ああああ、と落胆の声が響く中、母親の久美だけは、何をしているんだバカやろう!と息子に激励の言葉を掛けていた。そんな感じで進んだ試合はホワイト高校は徹底的に鉄平を狙っていた。
「あ?また鉄平さんがレシーブよ」
「……兄貴にアタックをさせないために、わざとサーブで狙っているんだよ」
レシーブをするとその分時間を取られ、アタックのための助走の時間が減り、結果的にべストな攻撃が出来ないと拳悟は説明した。
「でも兄貴はレシーブが上手いし。それに他の選手だって攻撃はできるんだけど」
しかし今日はこれが上手くいかず、1セット目は相手に取られてしまった。
「拳悟さん。次のセットを取られたらおしまいなの?」
「いや、三セットマッチだからまだだよ」
しかし、ピ!という笛の声に第二セットが始まったが、相変わらず鉄平を狙って来た。彼はこれをレシーブしボールを上げ、仲間が繋ぎアタックをするが、高いブロックに阻まれる、というパターンに陥っていた。
「どうしよう。拳悟さん。このままじゃ」
すると笛が鳴り、メンバー交代となった。
「え?鉄平さんが交代なの」
「仕方ないよな。ここで少しリズムを変えた方がいいもんな」
ホワイト高校は封じようとしていた鉄平がいなくなったので、通常の攻撃を再開して来た。北星学園高校はこれを上手く対処し、結果的にはこの二セット目を取った。
「いいぞ!いいぞ!北星……でも、鉄平さん。プレイできませんでしたわ」
「強い相手だとこういう試合にあるからさ、兄貴は慣れていると思うよ」
その時、猪熊がお弁当が届いたので、会場の玄関までいって受け取って欲しいと言い出した。
拳悟も一緒に行くと言ったが、猪熊に荷物番をしろと言われ渋々これを受け入れた彼は、母親に彼女を一人にしないでほしいと頼み、留守番をした。
しかし。お弁当を受け取っていた久美は、懐かしい友人に声を掛けられ話に花を咲かせていた。
そんな久美に先に弁当を持って言っていると告げた小花は、一人でお弁当を抱えて階段を上っていた。その時、声を掛けられた。
「ちょっとあんた!そこのあんたよ」
自分が呼ばれているとは思っていない小花はこれを無視して女子の軍団の脇を素通りして行こうとした。
「ちょっと!無視すんなよ!アンタだよあんた!」
「私ですか?」
「他に誰もいないだろうよ。あのさ、あんた鉄平さんと近所だからっていい気になるんじぇねーよ」
「なっていませんけど?」
「わかってないみたいだけど。こっちはアンタに偉い迷惑をしているんだよ」
なんだか良く分からないけれど、今日鉄平が調子悪いのは小花のせいだという話になってしまった。
「ぜーんぶアンタのせいよ!鉄平様をもてあそんで」
ワアワアと騒ぐ鉄平のファンの女子の話をしている意味がようやく理解できた彼女は、両手に持っていたお弁当の袋を床に置いた。
「……みなさん。鉄平さんをそこまで想っているなら、どうして彼を信じて応援しないのですか?」
「し、信じる?」
「そうです。人は誰でも調子の良い時と悪い時がありますわ。その調子の悪い時こそ、応援して差し上げるのが本当の愛ですわ」
「本当の……愛?」
「そうです。鉄平さんは毎朝ジョギングをされたり、食事を気にされたり、鍛錬を続けています。それこそ雨の日も風の日も。そんな鉄平さんがこれくらいの事で、動じるわけありませんわ」
「おい!そこで何をやっているんだ?大丈夫か、小花っち」
ここでようやく助けにやってきた拳悟は、小花を背にして女子軍団から守っていた。
「来たな弟の拳悟……いつもいつも邪魔をして」
彼を憎々しげに見つめる女子高生に、拳悟はギロリと睨んだ。
「言いたい事はそれだけか?まあ、どんなに頑張っても彼女には勝てないって分かったろ」
ふんと捨て台詞を残し、女子高生軍団は行ってしまった。
「……大丈夫か、小花っち」
「ええ。何も?それよりも試合は?」
「そうだった!大変なんだよ。早く来いよ」
お弁当を持った二人は、急いで応援席に戻ってきた。
「これは……負けているのですか?」
「ああ。兄貴の高校のリベロがケガをしてさ……相手の強烈サーブを返せないんだ、あ、ここでメンバー交代、あ」
なんとここでの鉄平の投入に会場からざわめきが走った。
「これで北星は全員が攻撃できるけど、監督は何を考えているんだ?」
「……でも鉄平さんは明るく声をかけていますよ?多分、試合はこれからです」
この後、腕がちぎれそうなサーブがやってきたが、鉄平はこれをレシーブしていった。
「返球が乱れたけど上ったわ。まあ!ナイスですわ」
得意なアタックができなくても鉄平はレシーブでボールを上げ最後までチームプレイに徹してた。
こうして試合はもつれたが、見事北星学園と優勝となった。
「すごいですわ!やった―……きゃ?冷たい」
「おい。お前らいい加減にしろよ!」
腹いせに彼女に水を掛けて女が逃げて行った。髪は拭いたが来ていたTシャツが濡れてしまった。彼女は仕方なく拳悟の洗いざらしのTシャツに着替えた。
やがて表彰式になった。鉄平はMVPでは無かったが笑顔で仲間に拍手をしていた。そしてキャプテンとして観いていた観客に頭をさげた。一瞬小花と眼が合ったような気がしたが、彼はそのまま仲間を引き連れてコートから去っていた。
帰り。保護者は優勝記念の打ちあげをするといい、まっすぐ飲みに行ってしまった。しかし拳悟も小花も未成年なので二人は家に帰って来た。
「このTシャツは急いで返しますね」
「いいのそんなの」
胸には鉄拳と書かれた白いTシャツに二人は微笑みこの日を終えた。
翌朝。小花はまた二人の兄弟喧嘩で目が覚めた。
「……なんでお前が小花っちと仲良く試合を観ているんだよ?」
「うるせえ!知ってんだぞ?膝枕してもらいやがって」
「いいじゃねーか!それになんでお前のTシャツ着てんだよ?めっちゃ可愛かったじゃねえか」
「細かいところ見てねえで試合をやれよ!」
そして恒例の塀バーンが始まってしまった。
「二人とも!止めて」
「小花っち……」
「だってさ……小花っちって。それ何だ?」
彼女はお盆にクッキングペーパーを敷き、コロッケを山盛りに乗せて立っていた。
「鉄平さんのお祝にコロッケを揚げました。朝から揚げ物はきついと思ったんだけど、お昼にでも、あ?」
二人は揚げたてのコロッケを手でつかんで食べた。
「美味!これ最高!」
「熱!でも、美味!」
喧嘩していた兄弟は、目を細めてむしゃむしゃと食べていた。
「あのさ、これ、全部もらっていいの?」
「多過ぎたかしら。食べたい分だけでいいのよ」
すると鉄平は彼女からお盆を受け取った。
「小花っち!ありがとうな!おい、拳悟、そんなに食うなよ」
「だって美味いんだもん。小花っち、サンキュー!」
仲良くなった兄弟に、小花は嬉しくなって手を合わせた。
「こちらこそ。いつもありがとう。今日も気を付けていってらっしゃい」
エプロン姿の小花に見送られた鉄拳兄弟は、山盛りコロッケを抱えて家に引っ込んで行った。
中島公園一丁目の夏の朝は、今日も優しい愛に包まれてスタートしていった。
完
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