116 嗚呼、塩対応

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116 嗚呼、塩対応

「悪いな、お姉ちゃん」 「いいんですよ。お役に立つのなら、あ、赤です」 助手席の小花はそういって微笑んでいた。 「しかっし。モデルのドタキャンて本当にあるんだな」 「あの……私って何をするんですか?」 急に頼まれて車で一緒にやってきた小花は、石原に首を傾げた。 「ああ?すまんすまん、あのな」 石原の説明によると、風間の担当する新しく出来たクリニックがホームページ用に現在撮影中であるという。 「ここのクリニックはオバサンナースしかいないもんで、若いモデルを頼んだのに、来ないんだと」 「では私、モデルをするんですね?ナースの」 「そう」 「でも、ナース服がありませんよ」 「あるよ。俺の車に一杯積んであるから、好きなのを選べよ……って。なしてそんな目で見るんだよ」 ナース服を一杯持っている初老石原に、小花は身を縮ませていた。 「こらこら!これはサンプルだよ。ナース服の。うちの会社にあったを松田が選んで、俺が持って来たの!」 「それなら了解ですわ」 こうして石原カーは風間が待つ赤レンガクリニックに到着した。 「あ。小花ちゃん。急で悪かったね。着替えは母さんと頼むよ」 「こっちよ。小花ちゃん!みなさん、モデルさんが来ましたよ―」 息子の危機に風間母は薬局から化粧品を持ってきて、ナース服に着替えた小花にあっという間に髪と整えメイクを施した。 「いいんじゃない?さあ、白衣の天使のできあがりよ!」 「鏡が無いので自分では分かりませんが……風間さん、私、おかしくないですか?」 長い髪をアップにした彼女の足は白いストッキング。身体の線に沿ったナース服はどこかセクシーに見えた。頭にはみんなの大好きな制帽を付けていた。 「……あのさ。そのままでいて?今写真撮るから……うん、いいよ。すごく似合うよ」 「元々天使なのにな、そのナース服だもの。あ?先生!モデルをお連れしました」 こうして小花は、ドタキャンしたモデルの代理を務めて、ホームページ用の写真をクリニック内で撮影した。 「いいよ!その笑顔で……うん、足をもっと閉じて……そう!そのまま」 カメラマンの指示通りにポーズを決めた小花は、嫌な態度を見せず快く撮影に応じていった。 「良かった……でも問題は先輩ですね」 「ああ。怒るに決まっているからな」 可愛い彼女を見ながら、風間と石原は怒った姫野を想像してぶるっと震えた。 「今は考えるのは止めておきましょう。あ、もう撮影終ったみたいですよ」 「……どうでしたか?私、ドキドキしてしまって」 「へえ?小花ちゃんも緊張するんだ?」 「ううん。姫野さんがなんて言うかドキドキしたんです」 「ハハハ大丈夫。俺もドキドキを通り越して、バクバクだから?」 「俺なんか止まりそうだぜ。よっしゃ。俺がメシでも喰わせて帰るから、後は風間がしっかりやれよ?」 そして服を着替えた小花は、石原と会社に戻るために、車に乗ろうとしていた。 その時、彼女はかぶっていた帽子を風に飛ばしてしまった。 「きゃ?」 「おっと!あぶない?」 通りかかったサラリーマン風の男がジャンプ一番で取ってくれたので、小花は御礼を言った。 「ご丁寧にありがとうございます」 「どういたしましてお嬢さん?今日は日差しが強いですからね。どうぞお気を付けて下さい」 じゃっと手を上げて決めて行った男を、石原は怪訝そうな顔で見ていた。 「お待たせしました、ん、どうかなさいました?」 「いや、神対応だなって思ってさ。じゃあ、行くぞ」 そういって石原は車を走らせた。しかし途中、電話が入ってしまい、彼は車を脇に寄せた。 「悪いな姉ちゃん。ちょっと俺さ、あのビルに入っている病院に行って取って来ないといけない物があるんだよ。速攻で戻って来るから車で待っていてくれや」 「わかりました」 五分で戻る自信のあった石原は、車を駐車場に入れずダッシュをした。そして戻ってきたらパトカーがいた。 「やべえ!パトカーだ?……くそう」 違反の切符を覚悟した石原だったが、助手席の小花は笑顔で手を振っていた。 「運転手の方ですか?こんにちは。お連れ様になにかトラブルなどでお困りかと思ったんですが、大丈夫のようですね」 「は、はい?今すぐ退きますので」 石原が車に乗り込むと警官はオーライ、オーライと誘導し、彼を送りだしてくれたのだった。 「一体なんだっていうんだ?」 「私が一人で乗っていたら、お巡りさんが来てくれて、何かお困りですか?って優しく声を掛けて下さったんです」 「マジかよ?ああ、焦った……しかし。本当に女には甘いんだな。俺一人ならこうはいかんぞ」 そして彼は小花をハンバーグレストランに連れて来た。 「いらっしゃいませ!窓側の席にどうぞ。日差しが眩しければ遠慮なく申しつけ下さい」 親切なスタッフはそういって席を案内し、彼女に膝掛けまで貸してくれた。 「ええと何を食べようかしら。石原さんは?」 「お姉ちゃんと同じで良い。しかしな。俺、こんな席に座るの初めてだぞ」 「いつもはどこですか?」 「トイレの近くか、隅の暗―い席だぞ?」 「ご冗談を?ホホホホ」 石原の話を本気にしていない小花はいつものハンバーグを二人分頼んだ。 「しかし、得してんな……」 「そうなんですか?いつもこんな感じですよ」 すると今度は店員がアンケート用紙を持って来てよければ記入して欲しいと言い置いて行った。 「俺、知ってるぞ。これって店の事を良―く書いてくれそうな優しい人に頼むんだってな」 「そうなんですか?私はいつも頼まれますよ、ええと。面倒だから全部○で、スタッフの印象は『親切で笑顔なので、又来たいです』、っと」 「神対応だし?あ、料理が来た……あれ」 頼んだものと違う料理が来てしまった。 「すみません!すぐ作り直します」 平謝りの店員に小花は首を振った。 「私、それでいいです。もし他の人の分じゃないのなら……ね?石原さん」 「ああ。美味そうだし。喰おうぜ」 謙遜する店員を制して、二人はこれを食べた。 そして会計時に店からお詫びとしてハンバーグのソースをもらった二人は車に乗り込んだ。 「お腹いっぱいですけど。そうだ。ねえ、石原さんちょっとだけ寄り道して下さいませんか?今、留守番してくれている吉田さんが大好きなパン屋さんが近くにあるんです」 おうと返事をした彼は小花をパン屋へ連れて行き、駐車場に停めて車内で待っていた。 「お待たせしました……よいしょっと」 「また買い込んだな」 人気でなかなか手に入らないパンはちょうど焼き立てだったので彼女は買えるだけ買って来たと話した。 「前からずっとこれを食べたかったんですって話したら、おまけにほら、これも」 「すげえ。スーパーの袋一杯分あるぞ?」 「クロワッサンで美味しそうですよ。それにまたアンケートを頼まれましたわ。あとでポストに入れないと……」 荷物を後部座席に置いた彼女は助手席に座ったので、石原は車を走らせた。 「……しかし。美人っていうのは本当に得なんだな」 「そんな事ございませんわ。石原さんの気にしすぎ、って。あのドライブスルーに入って!早く!ほら!」 「はいはい」 肩を叩かれた石原はもはや運転手となり、彼女の命に従っていた。 「あの新しいプロテイン入りのシェイクが飲みたい……すみません。あの、ポテトと……」 彼女は石原が開けた運転席の窓に向かって、注文を言った。 「……ありがとうございます。お客様の合計は872円です。お車お気を付けてお進み下さい」 「872円用意しておこうっと」 この彼女の動きを石原は眉をひそめて見ていた。そして商品を受け取った二人は本当に夏山ビル目指して進んで行った。 「つかぬ事を聞くけどよ。いつもああやって合計をあらかじめ教えてくれるのか?」 「姫野さんも同じ事を言っていましたわ。私の時はいつもそうです。きっとお金を出すのが遅いからじゃないですか?」 「『お車お気を付けて』っていうのは?」 「気にした事ありませんが、普通じゃないですか?」 そんな風に言ってもらったことのない自分は、普段受けている対応が塩であった事を悟った。そして彼はその反対の扱いを受けている小花を何とも言えない気持で見ていた。 やがて戻ってきた夏山ビルに車を横付けしてもらった小花は、たくさんの食パンを抱えて玄関から入った。 「お嬢!私が持ちます。いい匂いですな」 「食パンです、優しく持って下さいね」 代わりに持ってくれた渡と一緒に、小花はエレベーターで5階へ行った。石原は中央第一に戻り、一連の話を松田に報告した。 「そんなに神対応なんですか?」 「ああ。お姉ちゃんは気が付いていないけどな。ドアだって、みんなお客さんが気を利かせて開けてくれるんだぞ?俺、一回も彼女が開けた所みてないし」 「レディファーストなんじゃないですか?」 「そういうレベルじゃない気がするけどな……」 自分がいかに世間に相手にされていないか身を持って知った石原は少し心に傷が付いていた。 その翌日。 小花にモデルをさせた事を姫野に言えずにいた石原は、適当な理由を付けて会社を出た。そして公園の駐車場に車を停め、寝ていると誰かが窓をノックしてきた。 「すみません?免許証確認させてください」 「職務質問かよ?まったく」 そしてコンビニでおにぎりを買っても、温めますか?と聞かれないまま袋に入れられてしまった。 本屋に行って欲しい本を店員に訊ねても、捜しもしないでありません、と云われてしまった。 ……世間っていうのは、初老の男に厳しいよな……。 お釣りでもらった千円札はよれよれ。ラーメン屋で出されたラーメンのチャーシューは肉の端で硬く、迷子に声を掛けたら後から現れた母親に睨まれたりした。 そうこうしている内に松田に帰って来るように連絡が来たので、彼は仕方なく、営業所に戻ってきた。 「石原部長。これは一体どういうことですか」 「なしてばれたんだ?」 そこには怒りに震える部下が彼を待ち構えていた。 「部長すみません。赤レンガクリニックの先生が電話を掛けて来て、俺と先輩を間違って、昨日の御礼の話をしちゃったんです」 姫野の怒りに怯えている風間は、松田の背に隠れていた。 「部長!彼女にモデルをさせるとは……しかも彼女はうちの会社の人間ではありませんよ?そもそも……」 姫野の話はもっともだったが、今日の石原はかなりへこんでいたので、言い返せず黙って椅子に座ってしまった。 「姫野係長。もうその位で」 「いいえ。松田さん。みんな鈴子に甘えすぎです」 その時、営業所をノックして彼女が入ってきた。 「声が大きいです……。それにそんなに姫野さんが怒る事ないじゃないですか」 「お前は全然分かっていない。あのな?気軽にネットに写真を載せるのは危険なんだぞ」 姫野と小花は向かい合ってバトルを始めた。 「わかっています。だから写真は私だと分からないようなものになる予定です。鈴子だってそれくらいは知っていますわ」 「そ、そうか」 「それに!赤レンガクリニック先生が困っていたので風間さんと石原さんは助けようとして私に頼んできたのです。それなのにどうしてそんなに……怒るの?鈴子は悪い事をしたの?」 急にべそをかきだした彼女に、姫野はしまった、と言う顔をしたが遅かった。 「うう。石原さん……」 「おう。よしよし。ひどい男だな?姫野は……」 石原はそう言うと彼女にティッシュ箱を渡しながら頭を優しく撫でていた。 「鈴子……俺はそういうつもりじゃ」 「ううう」 この雰囲気に松田が声を掛けようとした時、石原が動いた。 「だがな、お姉ちゃんよ……。姫野はお前さんが心配で強く言っただけだ。もうそんなに泣くんじゃねえ。そして、姫野。ちょっと来いや……」 そういって石原は俯いていた姫野を小花から離れた所に呼びこそこそ話をした。 「な。だから……これでいいだろう」 「もう。これ切りにして下さいよ。なあ、鈴子。俺が百パーセント悪かった。許してくれ」 「う、う……グス……本当にそう思ってるの?」 「……ああ。俺はバカだった。正しいのはお前の方で、俺はダメでどうしようもないクズだ」 「そこまで言っていませんけど」 「言わせてくれ!俺は最低人間なんだ。お前と口を聞く資格もないさ」 「おい、姫野、そこまで行くと嘘臭いぞ?」 「そうですわ……フフフ。資格が無いって言っているのに、お話ししているんですもの?フフフ」 「お願いだ……俺を許してくれ。な?鈴子さん?」 悪戯な顔でお願いする姫野に、思わず小花は口角を上げた。 「分かりました。だから、言わないで、下さいませ……」 そういって彼女は鼻をティッシュでかんだ。 機嫌を直した彼女は清掃し、部屋を出て行った。姫野も得意先との接待で会社を出て行った。 「しかし。石原部長、見事な裁きでしたけど、どうやって姫野係長を納得させたんですか」 「これだよ」 ガラケーの画像にはナース姿の小花があった。 「風間の撮った画像をやる取引をしたんだ。まあ、姫野はどんなナース服が心配もあったんだろうな」 「結局いつもの妬きもちですしね」 「仕方ねえだろう、お姉ちゃんは天使なんだものな……」 この話しを聞いた松田は営業所の冷蔵庫から栄養ドリンクを取りだした。 「どうぞ」 「お前……これは一番高い奴だそ?」 「部長は頑張りましたので、今日は特別ですよ」 「松田……」 松田は一番安いドリンクを手にし、プシュッと蓋を開けた。 「部長って、自分は塩対応されていると思っているんでしょうけどね。そうじゃないかもしれませんよ」 そういって松田はドリンクをぐいと飲んだ。 「どういう意味だ?」 「……ふう。そうですね。店の人は、この人は『細かい事は気にしない優しい人』って思って甘えているのかもしれないですよ」 「まあ、たしかに気にしねえけどな」 そういって二人はドリンクを飲みほした。松田が石原の飲み干した瓶を受け取り片付けた。 「さあ。それよりも。可愛い部下の姫野係長と新人風間君の営業成績ですよ?二人は夏山愛生堂のツートップなんですから。ちょっとこのデータを見て下さいよ……」 石原は可愛い部下のデータを見るために、そっと老眼鏡を掛けた。 涼しい風が囁く夜の札幌東区にある卸センターは優しさに包まれていた。 完
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