118 市場においで

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118 市場においで

「おい鈴子。ぼっとするな気を付けろ!」 「私は線の内側を歩いていたんですよ」 「市場の中は、忙しいからな。こっちが気を付けないと……危ないぞ」 「デンジャラスなのね」 本日、午前中に時間休暇を取った二人は、卸売市場に来ていた。 「あそこだ。みち子さんのいる食堂は」 「今は……空いているみたいね」 エブリスタに投稿している食堂女みち子に興味のあった小花は、姫野に我儘を言ってこうして彼女の職場に逢いにやってきた。 「いらっしゃいませ!あれ、姫野君?久しぶり!」 「どうもです。ほら、鈴子入ってご覧」 恥ずかしそうに入ってきた小花に、みち子は冷たい麦茶を出した。 「こっちの席に座ってよ。煩いお客さんがいるけど気にしないでね」 そういってみち子はカウンターの端に二人を誘導した。 「はい……あの凄いメニューの数ですね」 小花が背にした店内の壁にははびっしりと手書きのメニューが貼って合った。 「まあ。じっくり悩んでね、あ?いらっしゃいませ」 市場の会社の社員がガラと店のドアを開けて入ってきた。 「いつもの」 「はい!いつもの!」 みち子は大声で厨房にオーダーを通すと、今来た客に北海道新聞を手渡した。 「はい。心のバイブル道新です」 「おう!どれどれ……今朝のお悔やみには知り合いがいるかな……」 「それよりも、薬を飲みましたか?」 「うるさいな。わかってるよ……」 その時、市場の会社の社員がガラと店のドアを開けて入ってきた。 「おう、姉ちゃん、いつものやつに卵をこう、してくれや!」 こう、と言うセリフの時に、なにやら投げ入れる動き見えたみち子は、味噌汁に卵を入れて煮込んだ。 「……ごめんね、姫野君と彼女さん、相手ができなくて」 その時、出前の黒電話がジリリんと鳴り響いた。これをみち子が取った。 「もしもし。スピード食堂です……あ。あべ社長ですか?退院したんですね。え?今は病院からですか?はい……どうもお大事に……。みんな、出前は無いって電話でした」 アハハハと同僚のおばさん達を笑わせたみち子は、姫野達の元に戻ってきた。 「ごめんね。相手ができなくて。あ?また電話だ?ごめんね!私以外みんな耳が遠いのよ」 みち子は黒電話を取った。 「もしもし。スピード食堂です……え?かつ丼がまだ来ない?」 「ヤバい!忘れてた?」 同僚のおばさんは出前の注文を忘れていた事に気が付き、急いで作り始めた。これを見たみち子は、電話の相手に世間話を始めた。 「しかし、今日は暑いですね……え?『かつ丼、忘れていただろう』って?。あのね、今それを知ってもどうしようもないでしょう。それにお腹が空いた分だけ美味しいのだからむしろ感謝してもらいたい……はいはい。もうそろそろ着くはずですけど、バイクが見えない?見えてるでしょう?よく見て……」 この時間稼ぎの間にかつ丼と作ったおばさんは急いで店を飛び出して行った。 「はい、どうも!……ふうう。ごめんね、相手ができなくて。え?また電話だ。もしもし……」 みち子は忙しなく出前の応対をしていた。 「あ、すみません!今日は、アジフライはできないんですよ。なんでって……市場に入荷が無くて……いや?だから!高くて買えないの!?……もう。そんなに言うんなら、ご自分で釣って下さい、じゃ!」 そういってガチャンと電話を切ったみち子は、姫野達の元に戻ってきた。 「……うるさくてごめんね」 「いいえ。ところで鈴子。何を食べる?」 「たくさんメニューが書いてあって、選べないわ」 「私も何種類あるか分からないもの……はい。いらっしゃいませ」 体格の良い客は、ぼそ、とみち子につぶやいた。 「目玉焼きをよ……焼いて」 「何?()く焼いてって事ですか?」 「四個(よんこ)焼いて」 「……オーダーです!目玉焼き、四個で!」 はいよ、というおばさんの掛け声に思わず小花も笑ってしまった。 「本当にごめんね。うるさくて」 「いいえ。こちらこそ。ところで鈴子は何を食べたい?」 「姫野さんは?」 「俺はラーメンにする」 「私もそれで」 「ラーメンね?待っていてね……」 こうしてみち子は大きな鍋に麺を投入した。 「みち子さん。今日は空いている方ですか?」 「そうよ。一番忙しいのはやっぱり年末かな……ミカンとか蟹とか買いに来るお客さんで一杯になるのよ」 そう小花に言ったみち子は麺を慣れた手つきでかき混ぜた。 「年末に来ても高いだけでさ……美味しいとは思えないんだけどね。やっぱりお正月に御馳走がないと寂しいもんね」 「みち子さんは何を召し上がるんですか?」 「私?そうだな……冷凍食品かな?アハハ」 市場に勤めていながら不謹慎な彼女の発言は、冗談なのか本気なのか、判断は極めて難しいが、そんな彼女を小花は笑いを飛ばしていた。 「あ、すみません!彼女はナルト抜きで」 「はいはい。姫野君はネギ多目で麺は硬めでしょう?もう出来るわよ……」 そういってみち子は麺を手際よく湯切りした。 「……こんなにお仕事しているのに、いつ小説を書いているのですか?」 「よくぞ、よくぞ聞いてくれたわね……はい、ラーメンお待たせしました……」 出来たラーメンはごく普通の一般的なものであった。 「いただきます。ほら、鈴子、割り箸だ」 「うん、いただきます……」 ずるずると食べている二人をエプロン姿のみち子は、優しい眼で見ていた。 「美味しい!?……懐かしい味ですわ」 「嬉しい!……うちの食堂は市場に仕入れにきた名のある調理人も来るからね。市販の調味料は一切使っていないのよ。あ、いらっしゃいませ」 こうしてきびきび働くみち子にすっかり魅了された小花は、食べ終わり客が途絶えた時に、気になっている事を訊ねた。 「……いつ書いているのかって?私は市場の仕事が朝早いから、終るのも早いのよ。だから夕方よ」 「どうしてこんなに書いているんですか」 するとみち子は、ふっと笑った。 「あなたのような読者がいるからよ?毎朝早い時間にスターをくれる人もたくさんいるし」 「読者のため」 「そうね。だから私も、それに応えようとしているの」 そんな偉そうなみち子に小花は目を瞬かせた。 「ハハハ。お話しはここまでね。書くことが無くなってしまうから」 こうして姫野と小花はまた来ると言って、スピード食堂を後にした。 「どうします?夏山に行きましょうか?」 「まだ時間があるな……ドライブでもしようか」 そういって姫野は、車を走らせた。 「行きたい所はないか?鈴子」 運転席の彼は、いつものようにひょうひょうとした顔でハンドルを握っていた。 「特にないです。姫野さんの方こそ行きたい所はございませんか?いつも私に付き合ってくれているんですもの。たまには姫野さんのお好きな所に行きましょうよ」 「俺の好きな所か……」 「そうです。やりたい事でもいいですわ」 「やりたい事……」 なぜか姫野の頬は染まって行ったが、小花は話を続けた。 「したい事は?」 「まあ、あるといえばあるが。口に出せば嫌われるからな」 ふっと笑みを浮かべる姫野の腕に小花は自分の腕をからめた。 「言って下さいませ。鈴子ができることなら致します」 「止せ」 「笑ってお出でですが。鈴子はいたって真剣ですの。さあ。おっしゃって!鈴子にして欲しい事を」 「嫌われるからいいたくない」 「……じれったいわ。隠し事はしない約束なのに」 すると姫野は車を停めた。 「あのな。前からずっと気になっていたんだが、お前、俺の事、どう思っているんだ?」 「またその話しですか?」 ああと姫野は目を閉じた。 「鈴子は無意識だろうけどな。お前は人に優しいから俺は心配なんだよ」 「なにが心配なんですか?」 「……他の男の事を好きになったらどうしようって」 まるで迷子のように不安そうな顔の姫野に、彼女は胸がドキとした。 「俺は仕事を抱えているから。いつもお前の傍にいてやれないし。それに鈴子は若くて綺麗だから……俺のような冴えない男には」 すると小花は彼の口に、そっと指を当てた。 「そのような心配はありませんわ」 「わからないじゃないか」 「……まずですね。私は姫野さんを冴えない、と思った事はございませんわ」 真顔の彼女に、彼は質問を続けた。 「ヤキモチ焼きで嫌になるだろう」 「嫌にはなりませんが、私を信用してくれていない気がして………悲しくなる時もあります」 すると彼は彼女の手をギュと握った。 「もうしないから」 「いいえ。きっとします。だから今日は姫野さんにご用意したの…」 そう言って彼女はバッグから白い小箱を出した。 「後で渡そうと思っていたんですが、いつもお世話になっているから………気に入って下さると良いけれど」 受け取った姫野は開けた箱から胸に着けるアクセサリーを取り出した。 「これを俺に?」 「はい。クールビズのシャツで胸元が寂しい時に着けると、華やかになると思って」 「これ、結構高価なものじゃないか?」 驚き顔の彼に小花はフフフと笑みをこぼした。 「鈴子は初めてボーナスをもらったの!凄いでしょ?」 嬉しそうな彼女に姫野はもらったブローチを手の中で握りしめた。 ……俺なんかに金を使わないで自分の事に使えばいいのに。 「気に入っていただけた?」 「ああ……ありがとう」 「着けて差し上げますわ……貸して?」 彼の手からブローチを取った彼女は姫野のシャツの胸に着けた。この間、彼は押し黙っていた。 「……ほら。お似合いだわ。鏡でご覧になって?」 「鈴子。俺な……」 「なあに?怖い顔して」 姫野はふわと彼女を抱きしめた。 「どうしたの?泣いているんですか」 「……だって、お前。初めてのボーナスで俺なんかのために……」 彼女の髪に顔を付けた姫野は、やっとの思いでつぶやいた。 「いつも私のそばにいてくださるんですもの。これでも足りないくらいだわ。ほら。顔をあげて?」 彼女は彼の背をトントンと叩き、あげた彼の顔を両手でそっと包んだ。 「……ウルトラ営業マン、鈴子の親衛隊長、姫野岳人。フェアレディZの黒騎士よ……」 「フフフ。はい、お嬢様」 彼女はほほ笑みながら彼とおでこをくっつけた。 「これからも……ラーメンを食べに連れて行ってね」 そういっておでこにキスをしてもらった姫野は、また彼女を抱きしめた。 広い農地からそよぐ風は緑の香りを帯び、その濃い酸素がキャンパス周辺に立ちこめていた。 札幌駅隣の駅、桑園には北海道大学の果てしなく広い大地があり、それらが若い二人を優しく愛で包んでいた。 完
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