119  ビバ!社会体験 伊吹あらわる

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119  ビバ!社会体験 伊吹あらわる

「部長。相談なんですけど」 「なした。朝っぱらから?」 「息子の事なんですよ……」 松田の真剣な声に石原は新聞を下ろした。 「昨日、個人面談がありまして……」 松田はぽつぽつ話出した。 「伊吹の成績は問題ないのですが、あの子って、今までボランティアとか校外活動を一切していないんですよ。だから担任の先生が何か一つでもいいから校外活動をした方がいいっていうんですよ」 「そうか……。まあ、成績が同じなら実績が重要だもんな」 「どこか得意先を紹介していただけないですか?職業体験みたいな事でなんですよいいんですよ」 「……職業体験か」 「話しを聞いてしまったんですが……うちでいいんじゃないですか?」 「姫野。お前、今、何て言った?」 石原はすくと立ち上がった。 「伊吹君は私が預かります。数日間、仕事に同行させればいいんですよね?」 「姫野係長……良いんですか?」 「もちろんですよ。まあ、風間の薬局でも預かってくれるとは思いますが……。これは伊吹君に聞いて下さい。彼に選択してもらいましょう」 「お前。随分男前じゃねえか?」 「そうですか?それよりも部長は会社に許可を取って下さいよ」 メッセージで息子に確認を取った松田は、姫野の仕事の同行を希望してきた。 「自分は問題ありません。では部長。許可の方をお願いします」 仕事以外の用事を面倒くさがる姫野が珍しく積極的なので、石原は眉を潜めた。 こうして伊吹が夏山にやって来る事になった。 そして初々しい伊吹が母親に伴って出社して来た。 「おはよう。よろしくな」 「はい。こちらこそ」 姫野の差し出した手を伊吹はぎゅうと握り、握手を交わした。 「緊張する事ないからな。ただ俺の傍にいればいいから」 「はい!心強いです。あ、あのですね。こちらが同級生のバーマンさんです」 「は、はじめまして」 伊吹の背後にいた制服姿のバーマン洋子は、一歩前に出た。 「こちらこそ。鈴子と脱出ゲームで一緒だった子だね。よくあの壁を登ったな、君」 「あの時は小花さんに助けてもらいましたので。なんとか」 「姫野係長。伊吹はお預けしますね。洋子ちゃんは私とここで事務仕事をやるわよ」 「はい!よろしくお願いします!!」 「声が大きいわよ?もっと、こう、おしとやかに」 その時、中央第一営業所にバケツを持った彼女が入ってきた。 「おはようございます。清掃です、あ。洋子ちゃん。おはよう」 「小花さん!?ああ、良かった、知っている人がいて」 自分を見てホッとした顔の洋子に小花は歩み寄った。 「そんなに緊張なさらないでくださいませ。ここの方はみなさん気の良い方ですわ。ええと何日いらっしゃるの?」 「3日間かな」 「ウフッフ。ご一緒できて楽しみですわ!お昼も一緒に食べましょうね」 「おいおい。彼女は職業体験で来るんだぞ?お前と遊ぶ為にくるわけじゃないぞ」 すると小花は姫野に向かってぶうと膨れた。 「そんな事は鈴子だって存じています!私が言いたいのは、お仕事はもっと楽しくやりましょうって事なのに」 「おっと?これは俺が悪かったな……鈴子さん、済みませんでした」 ご機嫌斜めになりそうな彼女に姫野は先手を打った。 「その言い方も失礼ですわ?謝れば何でも許してもらえると思っているのね。姫野さんなんか嫌いですわ」 そういって背を向けた彼女を姫野は背後からふわと抱きしめた。 「……それは困る!頼むから機嫌を直せ、な?」 「嫌!」 「鈴子……お願いだよ」 彼女の耳元に頬を当て甘えている姫野を見ていた洋子は松田をくるりと向いた。 「これは?」 「ん?日常よ」 「日常……わかりました」 洋子は小花が姫野の頭を優しく撫でていた様子を見ると、自分に言い聞かす様に頷き、松田の後を付いて行った。 こんな感じでスタートした職業体験、伊吹は姫野と営業に、洋子は松田と中央第一の事務をする事になった。 姫野の車で大通り公園の地下駐車場にやってきた伊吹は、得意先のクリニックに届ける薬が入ったバックを持って姫野の隣を歩いていた。 「これしかないんですか?」 「そうだな。結構在庫を置いてもらっているからいつもそんな量なんだ」 姫野は地下街のオーロラタウンの入り口を開けて、伊吹を通し進んだ。 「しかし。今日の伊吹君の恰好だと中学生にはみえないな」 「おかしいですか?」 制服ではおかしいので何を着ようか母と悩んでいた伊吹は、話しに入ってきた伊織の服を借りて来たのだった。 「いやいや。それでいい。さすが松田さんだなと思っただけだ……さ、ここだ。失礼します、夏山愛生堂です」 姫野は歯科クリニックに入り伊吹を簡単に紹介し、薬と届けて次の得意先へ向かった。 「ドクターと話をしないんですか?」 「ああ。面倒を言いつけられるからな」 札幌の地下街のオーロラタウンを歩く人波に紛れて二人は次の眼科へやってきた。 「ここもすぐに帰るんですよね」 「……そうか。君がいたもんな……待てよ、失礼します、夏山です……」 今度の内科のドクターは姫野に用があるというので、患者が途切れるのを待って二人は診察室に入った。 「……姫野君、今度すすきの店に連れて行ってくれる約束は、って?……この子は」 「先生。彼は職業体験の中学生です」 「おっと?これは失敬。勉強か、偉いな君!」 中学生の前で話せなくなったドクターは、薬の話をして姫野と伊吹を解放した。 「助かった……良かったよ、君がいて」 「そういう接待もあるんですね、大変だな」 「まあな。でも鈴子には言わないでくれよ?後が面倒だから」 「そうですね。気を揉むだけですし。言わない方がいいですよ」 そして次は内科にやってきた時、姫野はその場にいた知り合いらしき人と話を始めていた。 「そうですか、じゃ、一緒に話しましょうか……あ。紹介します、彼は職業体験の中学生なんですよ」 姫野の傍らの男性の胸にはバッチが着いていた。 「やあ。姫野君の同行なんて羨ましいな。私はフェイザー製薬の者です」 「ええと、MRさんですね。医薬品メーカーの人ですね」 「そうです。よく勉強してきてるね?あ!患者さんが終ったから、君も一緒に行こう」 三人は午前中の診察を終えたドクターの診察室に入った。 「先生。新薬のお話しをさせて下さい。従来の物に比べて効果が大変優れているんです」 「そういう話しだよね。何がどう違うの?」 フェイザ―製薬のMRは薬の話を詳しく説明し、姫野は隣でうんうんと頷いていた。 「……と言う事です。新薬は夏山愛生堂からもう、来ているんですよね。姫野君」 「はい。こちらのクリニックには届いています。ぜひ患者さんにお勧下さい。他の先生にも好評ですので」 二人の話しに納得した様子のドクターに挨拶をし、三人はここを後にした。 「姫野君。じゃ、また!君も勉強頑張れよ」 「ありがとうございました。さあ。お昼でも食べよう」 姫野と伊吹は「八雲そば」に入り奥の席に座り、注文した。 「さっきのMRさんとは、一緒に回らないんですか?」 「……そういう時もあるが、他のメーカーの人の手前もあるしな」 「そうか?メーカー同志はライバルだっけ」 医薬品卸売会社の夏山愛生堂には、自社販売以外の医薬品は全てそろっており、その中にはメーカーが違うだけで同じ薬があると姫野は言った。 「どれを使うかは医者次第なんだ。だから俺の方からこっちを使って下さいとは言えないんだよ」 「MRさんとしては、さっきのように姫野さんに一声掛けてもらえたら嬉しいわけだ」 「まあな。だからああやって、力を入れたいクリニックで俺を待ち伏せしてくるんだ」 やがてそばが来たので二人は割りばしを割った。 「でも他のMRもそうだから、お互い様だ。いただきます」 「いただきます」 二人はずるずると食べ出した。 「さっきの人は新薬の紹介でしたね」 「ああ。新薬の開発には莫大な金が掛かるんだ。だから今の内に売っておきたいんだよ」 「今の内って?」 新薬の特許期間は20年であるが、実験段階でこれを申請するので完成させ販売できる期間は5~10年間しかないと姫野は説明した。 「この間に儲けないと、後発のジェネリック薬品に負けてしまうんだ」 「だからジェネリック薬品は安いんですか」 「開発してないから安く製造できる事もあるが、例えば材料もそうじゃないないか」 そういって姫野はそばをすすった。 「……このそばだって。材料のそば粉によって値段が違うだろう?医薬品の材料に使う卵が鶏かダチョウで差がでてくるし」 「ダチョウですか?」 「例えだよ。気になるならネットで調べてくれ」 最後にそば湯を飲んだ姫野達は地下駐車場に戻ってきた。 「そうだ。待ってくれ」 花園団子を買いに走った姫野の後姿を伊吹は目を細めてみていた。 ……小花さんに買って帰るんだろうな。 「待たせたな!さあ、戻ろう」 「はい。戻りましょう」 こうして二人は中央第一に戻ってきた。 「お疲れ様でした」 「あれ?洋子ちゃんは?」 「今、小花ちゃんと会社を回っています。どうでした?うちの息子は」 「風間よりも教えがいがありますよ」 姫野は椅子に座るとパソコンを起動させた。 「姫野さん。さっきの新薬の資料があったら僕も読みたいです」 「……それなら、その医療新聞を読むといい」 「ありがとうございます……ふーん」 姫野と伊吹が真面目に仕事をしている時に、石原が帰ってきた。 「よーーーし。これですっきりしたぞ。はあ、よっこらせの、どっこいしょっと……」 椅子に座り競馬新聞を読みだした石原を見て、伊吹は母に訊ねた。 「何がすっきりしたの?」 「髪じゃないの?」 床屋で散髪したての石原は、口笛を拭いていた。 「お、そうだ?オジサンは君に聞きたい事があったんだ。このギャラケーなんだけどよ。音が鳴らないんだよ」 「貸して下さい……はい。直しました」 「……どうやった?なあ。どうやったんだよぉ!」 「ドライブモードになっていました」 その時、電話が鳴り対応した松田は石原に回した。 「はい代わりました、石原です。なんだ渡か、なした?うん、うん」 三人はこれに構わず仕事をしていた。 「あ、その病院は、確か……眼鏡屋の右だ。右、右!」 電話をしている石原は一生懸命、右を指していた。 「お前は右も分からんのか?右って言ったら右!ライト!」 「フフフフ」 「見えない?眼鏡屋の看板があるだろう?お前、眼鏡を掛けてみろ」 この石原に我慢できず、とうとう伊吹は笑い転げた。 「か、母さん。ここで手を振っても電話の人には見えないよね?アハハ」 「ダメなのよ。どうしても手が出て……はあ、涙がでてきた」 そんな母子に関せず石原は唾を飛ばしていた。 「だから!右だぞ!右なの!」 そう言いながら空を切った水平チョップは、力が入ってデスクの書類を倒した。 「うわ?」 「きゃあ?」 「部長!もう止めてください」 すると部屋に入ってきた男が石原から電話を奪い、代わりに応対した。 「南に向かって走っているんですよね。じゃあ、眼鏡屋さんの奥ですから、そう、手前じゃなくて、はい」 ガチャンと電話を切った風間は石原にコンと頭をチョップした。 「ただ今戻りました」 「おう、おつかれ!」 そこへ小花と洋子が入ってきた。 「まあまあ、これは一体どういうことですか?」 床に散らばった書類を小花は慌てて拾いだした。 「いいんだ鈴子。これは自分で片付けさせよう」 「……そうは言っても。あれ、石原さん、右手から血が出ていますわ!」 「まったく世話の焼ける……部長、こっちで絆創膏貼りましょう。床の書類は伊吹が拾って。小花ちゃんはお掃除の仕事お願いね」 「はい。洋子ちゃん、お手伝いありがとうございました」 「ううん。こっちこそ時間つぶせて助かったもの。松田さん、私、お茶を淹れますね」 騒がしい営業所に勉強しにきた中学生の二人は、生き生きと動いていた。 ギラギラと太陽が照り付けている夏の昼下り。 若い二人は、明日も続くこの職業体験に胸をわくわくさせていた。 『洋子あらわる』へ
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