136 モップじゃないよ、トップだよ

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136 モップじゃないよ、トップだよ

「時計台ですか。それはここから駅に向かって行くとありますよ」 「ありがとうございました」 姫野と黄昏の歩道を歩く会社帰りの小花は、観光客に道を訊ねられていた。 「時計台は、ビルにうずもれて見えないからな」 「昔は周囲に何も無かったそうですよ。祖母は時計台の音で時間を知ったと言っていましたから」 「そういえば。お婆さんは元気か?」 「はい。伯父夫婦が施設に行ってくれているので、私も少し気が楽になりました」 「すみません!時計台はどこですか」 今度は観光客なのか若い男性二人が小花に声を掛けて来た。 「あの」 「俺が説明する」 これに姫野が代わり話しだした。 「スマホをお持ちですよね。ああ。ここです。このままお進み下さい」 そういって姫野が冷たく答え、彼女の肩を抱いてこの場を後にした。 「そうか。そう言えばいいのね」 「あのな。あれはナンパだぞ?しっかりしろ全く」 小花は普段は質素な身なりだが、今日は用事あるのでノースリーブの紺のワンピースを着ていた。自分の魅力に全く無自覚な小花に、姫野はイライラしていた。 「日が落ちると肌寒いですわ」 「ビル風だしな。ほら、俺の上着を着ろ」 そこへ営業車を駐車してきた風間が走ってきた。 「先輩お待たせしましたって。あ、ずるい?小花ちゃん、俺の上着、着てよ!」 騒がしい三人組は、こうして創成川沿いのビルに着いた。 「もう一度説明する。ここのクリニックは新規に開院したのだが、まだ患者が全然こないんだ。済まないが今日は患者として診察を受けて欲しんだ」 「悪いね小花ちゃん。ここは俺の担当なんだけどさ。先生、誰も患者が来ないから落ち込んでいるんだよ。小花ちゃんみたいな女の子が来たら、少しやる気が出ると思うんだ」 「大丈夫ですよ。ちょうど喉が痛かったので」 「入るぞ……どうも。夏山愛生堂です」   真っ白な内装のクリニックの受付には、誰もいなかった。 「すみませーん。夏山です。せんせーい」  すると奥から白衣を着た小太りの男性がやってきた。 「あ。風間君、姫野君。今晩は」 「どうもです。いかがですか先生、患者さんは」 「それがお恥ずかしい。午前中は二人、午後は、まだです」 「今日は知り合いを連れて来ましたので、彼女です。診察をお願いします」 「こんばんは」 姫野に背を押されて小花は受付前に一歩前に出た。 「そうですか?では、この問診表に」 「書きましたわ。保険証は、これです」 「早!?」  驚く風間を他所に、院長は中へ引っ込んだ。そして院内にピンポーンと音が鳴った。 『小花さん。一番にお入りください』 「行くぞ。小花」 「え?姫野さんも入るんですか?」 「俺も行く!」 こうして三人は一番と書かれた診察室に一緒に入った。診察室は5番まであった。 「本日はいかがされましたか?」 「三日ほど前から喉が痛くて」 「熱も平熱、下痢もしてない。では口を開けて、あーん?」   その間、姫野と風間は彼女の背後にじっと立っていた。 「お二人とも。そんな顔しなくても彼女に内診はしませんよ。これは風邪ですね、薬を出しておきましょう」 「はい」 「では、行っていいですよ」 「……それではダメです。先生!」 「は?」  眉間のしわを寄せた姫野に、院長はビクとした。 「まず!患者の顔色を見ないと。喉が痛い患者でも他の病気があるかもしれないんですから。おい、小花、顔貸せ」 「え?」  姫野は彼女の左眼の下瞼を指でそっと引っ張った。 「じっとしろよ……。ほら先生。見てください。白いでしょ」 「ああ、貧血があるね」 「若い娘は大抵貧血ですから。ここで鉄剤を処方するか。血液検査をして下さい」 「そ、そうだね」 「それと。病状の改善を確認するために三日後に予約をさせるのはお約束です!」 「はい?!」 「して。何を処方したんですか。ああ、ダメですよ?胃薬とトローチとうがい薬はセットにしてくれないと。後は、若い女性にはビタミンCも勧めてください」  医者に注文をつける姫野に、風間と小花は唖然とした。 「問診も『他に気になる所は無いですか?』って言わないと。他の病気が発見できないですよ!先生」 「はい!姫野君。あの……」 「何ですか?」 「若い女性には何を勧めろって言ったんだっけ?」 「ビタミンC」 「あ。そうだ。ビタミンC……。ねえ男の人だったら何を勧めるの?」 「それならいいのが有ります!ジャーン」   風間がパンフレットを取り出した。 「こっちは禁煙用のニコチンタブレット。こっちは薄毛に効く新薬品。こっちは男性の更年期に聞くホルモン剤です」 「へえ」 この様子に姫野は、提案した。 「先生。場所柄、このクリニックにくる患者は、疲れた男性サラリーマンです。彼らは仕事の合間に来ます。だから5つある診察室も有効に利用して、どんどん点滴を勧めてください」 「点滴ね」 「はい。点滴は飲み薬と違って速攻性がありますし。何より点滴の間、このベッドで眠れますので。患者には癒しのひと時になるかと思います」 「どうやって勧めるの」 「『非常にお疲れのようですが、お時間あるなら点滴しますか?』です」 「うわ。すっげ」 「分かった!姫野さんの言う通りにするよ」  こうして三人はクリニックを後にした。 「なんだ、その目は」 「だって姫野さん。お医者さまよりも詳しいんですもの」 「すごいでしょ。だからトップセールスなんだな」 「お前。そんな事言っている場合か。新人戦は始まっているんだぞ?」 「でた。それ、忘れようとしていたのに」  新人戦とは、新入社員の夏山愛生堂の医薬品営業マンの売り上げ実績を競うものだった。 「風間の親父さんは新人賞を取ったんだから。お前も頑張れよ」 「姫野さんの時はどうだったのですか」 「小花ちゃん。先輩が取れないはずないでしょう?新人記録持っているんだよ」 「たまたまだ」  小花は隣を歩く姫野をそっと見上げた。   派遣社員の小花は今まで様々な会社を渡り歩いていた。清掃員の仕事をしている彼女は時には八つ当たりをされたり意地悪されたりする事が多かった。   小花は高校を中退しているし、二年前までお嬢様をしていたので、世間知らずを自覚しており、仕事も清掃作業くらいしかできない。でも建物を綺麗にする仕事を誇りに思っている。そんな小花は夏山ビルに来て、ひょんなことから風間と知り合った。   風間はススキノの老舗薬局の御曹司であったので、お嬢様育ちの小花としては、波長が合っており気兼ねせずにいられた。    しかし。小花の素性を知らない姫野は、初対面からストレートに話をして来た。こんなにはっきり意見を言う人は、小花には新鮮だった。   お盆に連れて行ってくれた姫野の実家は、二年前に母を亡くした小花にとって楽しく、懐かしい時間だった。  ……そんな姫野さんに甘えてばかりいないで、お役に立ちたいと思っているんだけど。今日は診察受けただけで、良かったのかしら。 「どうした。俺の顔に何か付いているか」 「眼と鼻と口と」 「お。小花ちゃんも冗談言うんだね」 「そんな事よりも。何か食べて帰るか」 「じゃあ。こっちへ。地下に行きましょう」  食事マスターの風間に付いて、二人はレストランに入った。  手慣れた風間に注文を任せると、三人はお絞りで手を拭いた。 「ところでさ。小花ちゃんて。高校は横浜だったんでしょう?どういう学校だったの」 「女子高です。寄宿制の」 「それって。寮に住むんでしょう?決まりって厳しいの」 「そうですね。テレビは無いですし。朝のお祈りとかありますし。女子修道院のイメージに近いと思います」 「テレビが無いって。じゃ映画とかは」 「映画館で観ますよ」 「風間、彼女を浦島太郎扱いするんじゃない」 「ね、今度、一緒に映画に行こうよ」 「風間さんは彼女さんがいるはずですが」 「小花ちゃんは特別だよって痛?」 「あのグアムのビキニの女はどうした?」  姫野に頭を叩かれた風間は、ケロとした顔で応えた。 「あれは得意先の女医さんです。ただ旅のお供をしただけですよ」 「もてるんですね。風間さんて」 「いいや。小花ちゃん。姫野先輩の方がもっともてるんだよ?」 「姫野さんは、彼女を作らないんですか?」 「今はな。仕事が忙しいからな。あ、料理が来たぞ」  三人で仕事の話をしながら楽しく食事をした。 店を後にした三人は、姫野の運転で国道36号線を走っていた。ビールを飲んだ風間を彼の家に下ろした姫野は、小花の家に向かっていた。  その時。姫野が口を開いた。 「最初に風間に逢った時に、君は手土産を買って来たな。あれはどうやって買ったんだ?」 「……亡くなった私の父が好物だったので。頼めば作ってくれるんです。あの日はたまたまキャンセルがあって譲ってもらいましたが」 「あの時、俺の事を『人でなし』って言ったな、君は」 「すみません。風間さんが本気で悩んでいると思ったので」 「今は?今はどう思っているんだ」 「今ですか?あの、怒らないでね」  ごくんと小花はツバを飲んだ。 「口は悪いのですが、一緒にいると安心して、何かお役に立ちたいって思う方です」 「……」  姫野は嬉しくて言葉が出なかった。 「でも姫野さん。もてるんですよね。あの、彼女ができそうになったらいつでも教えてください。そうしたら私、誤解をされないように数学の勉強は何とか自力で乗り切りますので」 「あの点数では無理だ。いいから気にするな。君が卒業するまでは面倒みてやるから」 「でも。私に構っていたら、彼女ができませんよ?」 「だから。君がいるのに。彼女を作ったりしないから心配するな」  そうって頭を撫でた姫野の嬉しそうな顔に小花は頬を染め、彼もまた胸をドキドキさせていた。 その翌朝。中央第一営業所では、会議が行われていた。 「えー。今月も売り上げ目標を達成する試算だ。さて、最後に新人戦についてだ」 石原部長がそういって椅子に座った。 「うちの風間はボンクラだが。姫野から引き継いだ得意先のおかげで、何もせずとも新人でトップになっている」 「ラッキーね、風間君」 うんと風間はにっこりと松田に微笑んだ。 「しかし、2位の帯広営業所の織田もかなり売っている。こいつは帯広営業所のバックアップを受けてやがるから、こっちもうかうかしてられないぞ」 すると風間が挙手をしたので石原はこれを指した。 「部長!それってもっと売れって事ですか?俺トップになんないと、車のローンを自分で払わないといけないですよ」  風間の言葉に石原部長は立ち上がり、ホワイトボードに書き出した。 「……いいか、風間。お前に何度も言っているがそろそろ理解してくれや。新人戦では売上金額だけが勝負ではない。大病院を担当する奴もいれば、個人病院がばかりの奴もいるだろう?売上、回収、利益。これをはじき出してお前のセールスポイントが出るんだ」  ホワイトボードには謎の計算式が書かれた。 「お前は現在、姫野の設定した薬の値段で利益も出ているし、薬代も回収できているからポイントが高い。だから売り上げを伸ばそうとして、勝手に薬を安く売ると、反ってポイントが下がるんだ」 「じゃ、ポイントを上げるには、薬品代を高くすればいいんですね」 「計算上そうなるが、そんな事をしたら今度は医者が薬の支払いを渋るぞ」 「はあ?俺はこれ以上、どうすればいいんですか。ね?姫野先輩!先輩」 「そこでだ。姫野。お前の知恵の出番だ」   全員が彼を注視した。先ほどから腕を組んで考えていた姫野は、すっと顔を上げた。 「……あのですね。部長。なぜ自分ですか?部長が自分で考えるんじゃなかったんですか」 「俺は確かに考えるといった。が、何一つ思い浮かばなかったよ……」 「先輩!早く」  わがままばかりの営業所。腹が立つのは卒業した姫野は口を開いた。 「はあ。では意見を言わせていただきます。古い債権の回収はどうですか」 「古い債権の回収?」 「はい。バブル崩壊後、ススキノでは薬代を支払わず廃院した医療機関が多数あります。このツケの回収です。これなら風間にうってつけかと」 「なんなんすか、それ?」 「あのね、風間君。つぶれたクリニックから、昔の薬代をもらうって事よ。これは古い債権ほど、ポイントが高いわ。難易度が高いから」 「よし。それやれ!」 会議後、姫野は石原と相談し、どこの債権を回収するか決めた。 この決定後。姫野と風間のコンビは、つぶれたクリニックの責任者の元を訪れる日々を送った。 まず居場所を見つけることが至難だったが、ダメで元々、全リストを当たってみようと姫野の声に、風間も心を上向きにし励んだ。 「はあ。心が折れる」  しかし十日経ち、風間の精神力はピークになっていた。 「風間さん。脚をよけてくださいまし。モップが通りませんので」 「うわ?心配してくれないよーーー!」 「何を言っているのよ。自分の仕事でしょう」  松田女子の叱咤に、風間は机に伏した。 「だって。俺は褒めて伸びるタイプなんですよ?」  すると、姫野が書類を片手に営業所に入ってきた。 「風間、今、利益管理部に確認したが、お前はまだトップだそうだ」 「やりー!」 「しかしな。帯広もこの数字を知っているから、恐らく月末に大量に販売してくるぞ」 「翌月に返品する手ね。大病院ならできる必殺技だけど。風間君の得意先は小規模だものね」 「勝負はこの9月1か月だしな。だが風間。古い不良債権は、少し入金があったぞ」 「マジですか」 「ああ。少し脅し過ぎたかと思ったが、まあ、効果があったようだ」 「どう?少しやる気になったかしら?」 「そうです。風間さんはやればできる子ですよ!」 風間がゆっくり振り向くと、小花が雑巾を握って微笑んでいた。 「小花ちゃん……」 「だから姫野さんの言う通りにしましょう」 「わぁかりましたぁ!」  元気の出た風間に、姫野はあきれて果ててコーヒーを飲んだ。 「ここで最後にしよう」 そんな翌日。二人は不良債権ブラックリストの最大ブラック先。赤いレンガ造りの古い診療所にやってきた。 「『赤レンガ診療所』ってありますけど。ここ人が住んでいるんですか」  草が生えており郵便受けからは、チラシがはみ出ていた。 「ここには春に石原部長が来たって言ってからな。行くぞ」 「……ふあい」 「失礼します」  診療所の玄関は開いていたので、姫野はずんずん入って行った。こういう勇気と言うか度胸を、風間は尊敬していた。 「誰もいませんか?」 「うるせえな。誰だ」 奥の診察室から男性の声がした。 「(たいら)先生、失礼します」  ドアを開けると、車椅子の老人がいた。床にはウイスキーの瓶が転がっていた。 「私は夏山愛生堂の姫野と申します。こちらは風間と申します」 「風間?もしかして。薬局の(せがれ)か」 「そうですね」 「そうか。繋がり眉毛の親父はどうした?」 「薬局で元気にしています」 風間の父を知る高齢者に姫野はまっすぐ向かった。 「平先生。今日は我々は債権のお話しをしにきました」 「は?」 急にトボケ出した老医師に風間は頭に来て怒鳴り出した。 「さいけんです!」 「なんだって?」 「先輩。こいつ急に耳が遠くなりやがった」 「全部聞こえているぞ、このボンクラめ」  そう言うと、高齢医者は杖で床をバンと叩いた。 「いきなり来て何だその態度は。それが人に物を頼む態度か!」 「我々は法に基づいております。先生、どうか支払って頂けないでしょうか」 「……法だと?いつから夏山はこんな弁護士みたいな男を営業に使う様になったんだ?お前達は薬屋だろう。俺は医者だぞ?!」 「先輩、帰りましょうよ。これは無理ですよ」 「……平先生。今日は帰りますが、また来ます」 「うるさい。来るな!」  老医師の癇癪を関せず、姫野が頭を下げて部屋を出たので、風間も後に続いた。 「先輩!なんですか、あの態度」 「まあ。初日はこんなもんだろうな」 「何を笑っているんですか」 姫野は病院の写真を撮ると、すっと助手席に座った。 「帰るぞ。ここには明日来よう」 「マジですか」  姫野の含み笑いに訳のわからない風間はむっとしたまま運転席に座ったのだった。こうして新人戦は佳境に入って行った。 136話「モップじゃないよ。トップだよ」 *本作品と137話は本来、「14話 湖畔のアイスクリーム」の後の15話と16話でした。ですが編集の関係でここに入っています。現在の親しい関係風に微修正をしましたが、出会った当初の初々しさを残してあります。
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