137 ホワイトローズの涙

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137 ホワイトローズの涙

翌日の早朝の中央第一営業所。姫野は昨日の写真を見ながら、平医師の攻略法を考えていた。 ……赤レンガ診療所は、前社長が懇意していた先だよな。 あの荒れ果てた様子は姫野には寂しい老人に見えていた。 「おはようございます。清掃です」 「お。ちょうど良い所に来た」 姫野は平医師への手土産を相談しようと思い、経緯を話した。 「君なら何を買っていく?」 「一人暮らしのご老人なら。うなぎ弁当とかがよろしいのでは。でもそれ以前に。ずいぶんお家が寂れていますね……悲しくなりますわ」   椅子に座っている姫野の肩越しに写真を覗いた小花は、悲しい顔をした。 「君もそう思うか。俺も寂しい老人に思えたんだ」 そこに風間がおはようと入ってきた。 「あんな奴なのに?どうかしてますよ、先輩は」 そういって風間はデスクにバッグをデンと置いた。 「そんなこと無いわ。風間さん。それに、お一人暮らしで車椅子ですか」 「家族もいないようだし。きっとディケアサービスを受けているだろうが、それにしても荒れているな」 この話に小花は掃除をしながら答えた。 「姫野さん。お家の手入れまではヘルパーさんは出来ないんですよ。ちょっと写真を良く見せてください」 スマホを手に取ってしみじみ見つめる彼女を姫野は上目遣いで見つめた。これに気が付いた彼女は頬を真っ赤に染めた。 「……私の顔に、何か?」 「眼と鼻と口だ。ところで、うなぎ以外だったら何がいい?」 「お夕食で、すぐ食べられる物ですね。お寿司とか、すき焼き弁当とかです」 「わかった。よし風間行くぞ」  彼女からスマホと優しい想いを受け取った姫野は、上着を取り営業所を出た。  こうして毎日。弁当を携えて赤レンガ診療所へ向かった二人は、平医師がディケアサービスを受けている事を知った。彼のいる四時過ぎに訪れると、少しずつ会話をしてくれるようになってきた。 「昨日の弁当はダメだ!肉が固かったぞ」  風間お勧めのジンギスカン弁当は、無残にも床に捨てられていた。 「今日は、親子丼です。どうぞ」 「しかし、お前も変わった奴だな。俺に構う暇があったら他所の得意先に行った方がいいだろうよ」  弁当を彼の横に置いた姫野に、老医師は呆れたように言った。これを聞いた風間は医師に意地悪そうに答えた。 「平先生。うちの先輩は、夏山のトップセールスですから問題ありません」 「ふん。夏山俊也に比べれば、お前達なんかひよっこだよ」 今の慎也社長の父親を語る医師に、姫野はフフフと笑みを浮かべながら向かった。 「平先生は、前社長と個人的に親しかったと伺っています。俊也社長はどういうセールスマンだったのですか」  老医師は親子丼の蓋を開けながら、話始めた。 「あいつは熱血営業マンだ。薬屋のくせに医者のためじゃなくて、患者のために動いた男だ」 「具体的に言いますと」 「……東に病の母あれば、担いで病院に運び、西に病の父あれば、医師を紹介したりだな。要するに病人をどんどん連れて来るんだよ」 「伝説のセールスってそういう事なんですか……なるほど」  感心する姫野を横目に、老医師は親子丼をむしゃむしゃ食べた手を、ふと止めた。 「おい。これなんだ」 「お口に合いませんでしたか」 「いや。美味いが、これは(さじ)じゃないか」 「実は今日の親子丼を用意した者が、こちらの方が食べやすいのではないか、と申しまして」 「年増の事務員か?な、そうだろう?」 「いやその」 「言え!」 姫野は面倒そうに話した。 「……うちの会社に派遣で来ている19歳の女性です。その親子丼もうちの会社の食堂で、特別に薄味でご飯も軟らかめに作ってもらったと申しております」 「19歳の女?」 「はい。彼女は幼い頃、こちらの医院で予防接種を受けていたとの事で、恩返しと申しております」 「俺がそんな事したのはアイツの娘だけ……まあいい。おい。ボンクラ、お茶!」 「はい!」  元気の良い風間に任せた姫野は窓を開けて、声を掛けた。 「小花!暑いから、無理するなよ」 「はーい。もう少しだけです」  窓を閉めた姫野に、老医師は振り向いた。 「何をしておるんだ?」 「その彼女はどうしても、草取りをしたいと申しまして。もうすぐ終える所です」 「バカ?こんな暑い日にさせるな、そういうのは風間がやれ!」 「はいはい。俺達はもう帰ります」  無残なジンギスカン弁当を拾った風間と姫野は、診療所の外にでた。 「こんなにむしったのか?」  草の山に姫野と風間は驚いた。 「無我夢中でしたので」 「まあいい。風間、ゴミ袋に草を入れろ。営業所に持って帰るぞ」 「ふあーい」  こうして三人は大きな袋三つの草を積み、病院を後にした。 翌日の9月30日。風間の新人戦の売り上げの締め日だった。 現在トップは風間諒であったが、帯広営業所の織田も追い上げて来ていた。 「どうかな風間の成績は」 「ひ、姫野さん。帯広の織田さんは、得意先に来月分の薬品も購入してもらっているようです」 朝8時30分。4階にある利益管理部の女子社員は、先ほどから背後からパソコンを覗き込んでくる姫野にドキドキしていた。 「彼の得意先全部ですか」 「全部ではないですけど、あ。今また発注がありましたので。この様子だと、織田さんの全部の得意先にお願いしていると思いますよ」 新人戦に勝つために売り上げを伸ばしている織田に姫野は眉をひそめた。 「……このまま行くと。どういう計算になりますか?」 「織田さんが一番です」 うーんと姫野は、態勢を戻した。これに背後にいた風間が質問した。 「ね、先輩。俺達こんな情報を見ても良いんですか?帯広の方は、地方だから俺達の情報は掴めないんでしょ?」 「構わない、地の利だ。あの、風間の不良債権の回収金ですが、これはまだ未入力ですよね?」 「はい。ギリギリに利益を入力すると聞いています」 帯広はこちらに合わせて売り上げを伸ばしてくるので、姫野は入力締め切りギリギリに回収金をデータに入れる作戦だった。 利益管理の事務員は、A4の用紙に人は理解できない計算式で数値を出した。 「やっぱり。織田さんのデータと、今の風間さん+回収金では、本当に僅差ですね。織田さんが上かもしれません」 「ありがとう!又締め切りの6時前に来ます。行くぞ風間」 「ごめんね。また後で来るよ」 「はい!」  二人のイケメンに囲まれた女子社員は、その熱で突っ伏した。それを知らない二人は仕事に向かった。 「俺達も追い込みに得意先を回るからな。今日は二手に分かれるぞ」 「はい」   風間の得意先は元々は姫野の担当していた医療機関であったので、二人は各自営業車に飛び乗り札幌の街を駆け抜けた。  そして、夕方四時。営業所に戻ってきた姫野は、利益管理部の女子社員の元に馳せた。 「どうですか?風間は?」 「え?はい。先ほど帯広の黒沼さんからも問い合わせがあって。4時の時点では織田さんですね」  帯広支店の黒沼は姫野の同期。これは姫野の策略を知っている男だった。 「わかりました。又来ます」 そして中央第一営業所に戻った姫野は、部長の石原に報告をした。 「黒沼か。やっかいだな」 「でもうちも全得意先に肺炎球菌のワクチンを購入してもらいました。これは利益率が良いのでポイントが上がるはずです」 「もうそれしかないしな、ってところで風間はどうした?」 「まだ戻っていませんか?もうすぐ5時なのに。あいつは」   苛立つ姫野は風間に電話をした。 「出ません」 「いいさ。ここにいてもアイツにできる事はないのだから。最後まで得意先を回らせておけ。それより回収金はいつ入力するんだ」 「あ。もう5時か……」 「失礼します、清掃です」  緊迫した営業所に小花が現れた。 「あ?姫野さん!私、」 「済まない!今は君に構っていられないんだよ」  姫野は小花を押しのけて、四階の利益管理部へ駆けて行った。   データを確認すると姫野の策略通りにワクチンの購入で一気に風間がトップになり、これを画面で見ている他の社員からも、おおおおと歓声が上がった。 「ああ。でも。また織田さんですね」   風間が薬を売れば、織田も売る。まるでオークションのような動きになった。 ……まだ5時10分。回収金を入力するのはまだ早いな。 「お忙しい中、恐縮ですが、あの」 「うるさいな!なんだ一体」  姫野のシャツの裾を引く小花を姫野は怒鳴りつけた。 「すみません。営業所にスマホを置いてありましたが、風間さんからずっと」 「貸せ!お前、今どこだ。へ?平先生の債権額?」 『はい、先輩。今、払ってもらえるそうです』  風間の弾む声に、姫野は眼を細めた。 「今メールで送る!いいか?それを持って直接5階に来い。6時までだぞ!」   そう言って電話を切った姫野は、風間にメールを送ると同じフロアの財務部に向かった。 「良子部長!今からうちの風間が、不良債権の回収金を持ってきますので。金庫を閉じないで下さい。6時まで間に合わせますので」 「金額は?」 「270万程です」 「ヒュー?わかったよ。でも6時までだからね!」   今度は利益管理へ戻った姫野は、女子社員に270万の入金で風間の試算をしてもらった。 「この得意先は、S級でしたのでポイントが高いです。これで逆転のはずですが……あれ?」 「なんだ?」 「帯広も回収金を入れて来ました。これでわからなくなりました」 「俺の手持ちの回収金30万を入力したらどうだ?」 姫野は切り札として回収金の30万を持っていた。しかし事務員は難しい顔をした。 「僅差で勝てると思いますが。あ、電話だ。もしもし」  女子社員は電話を押さえて姫野に、黒沼からの電話だと言った。 「はい。5時30分の時点では、織田さんがトップですね」  受話器の向こうから、おおおおおと歓声が聞こえて来た。 「え。風間さんの利益の入力ですか?私は依頼を受けておりませんが。ああ、風間さんの売り上げが伸びる可能性ですか、ええと」 「ある、と言ってください」 「え?はい、あるかもしれません」  すると電話の向こうからは落胆の声が聞こえた。 「またお電話下さい、それでは」  ふうと溜息ついた女子社員は姫野を見た。 「良かったんですか。有るなんて言って」 「ああ。これで向こうは早めに金額をあげてくるかもしれないし、これでいいんだ」 ここで姫野は時間を確認した。 「5時50分になったら、その30万を入力して下さい。最後の270万はその後に入れますので!」 確かに270万円はまだ届いていなかった。そして1階の営業所に戻った姫野は、中央第二の営業社員に風間を玄関で待ち、財務部に連行するように指示をした。  ……仕方ない。もう少し買ってくれそうな得意先に頼むしかないか。 「姫野さん。あの」 「何だ一体」 「あの、私の通っているホワイトローズクリニックの先生が……」 「姫野さん!風間が到着しました」 「今行く!」 「え?待ってーー!」   風間の到着の声に駆け出した姫野の背を、小花は慌てて追いかけた。 「先輩。これが回収金です。領収書はこれ」 「でかしたぞ。風間」  5時45分。財務部の経理に受理されたお金の情報の入力は、あと10分後の予定だった。 その時、利益管理部の課長が彼に声を張った。 「姫野君!実は帯広から依頼が合ってね。今はもう帯広もリアルタイムで情報を見られるようになっている。それを踏まえて判断してくれ」 「わかりました。これでアドバンテージは無くなったか」 5階のフロアにいる皆がそれぞれパソコンを睨む中、小花は社員達のシャツの波をかき分け、とうとう姫野の所までやってきた。 「姫野さん。本当に申し訳ないんですが……」 「さっきから何なんだ!後にしてくれ!」  すると小花が泣きそうな顔で叫んだ! 「ホワイトローズクリニックの先生が、点滴のお薬がいっぱい欲しいって私の携帯に電話してきたんです!」 「何?」 「先生はパソコンが壊れて、中央一の電話も話中で繋がらないから私の所に電話してきたんです……」  小花の叫びにシーンとなったフロア。しかし、姫野が沈黙を破った。 「風間!先生に確認して二ヶ月分買ってもらえ!早くしろ」 「はい!もしもし。先生ですか……」  時計は5時50分。利益管理部の女子社員は、姫野の指示通りに30万の回収金のデータを入力した。 「風間さんがトップです!」  おおおおと歓声が上がった。 「でも織田さんも回収金を入れました」   うーーんと溜息に包まれた。   55分。 ここで事務員は270万のデータを入れた。 「これで……お願い!」  エンターキーに願い込め息を飲み見守る社員達は、顔の前で手を合わせた。   数字は僅差で風間。しかし、57分。再度、風間は織田に抜かれ、あああああと落胆の声が響いた。 「先輩、発注きましたか?」  59分。みんなで画面を見つめる空気は静まり返っていた。 「来い来い来い……来た――――!」 六時となった5階は歓声に包まれて、風間はみんなに胴上げされた。 ◇◇ 「はあ。疲れた」   1階の営業所に戻ってきた風間は、ようやく椅子に座った。 「お疲れさん。しかし。お前もやるな」 「ええ、夢中でした」   ホワイトローズの医師に3カ月分の医薬品を購入させた風間はほっとした顔で座っていた椅子のままクルっと回った。 「だって。部長。それくらいしないと差が開かないと思ったんですよ」 「平先生はどうしたんだ?」 「ああ。車で前を通ったら雨なのに窓が開いていたから寄ったんです」 最後のお願いで得意先を回っていた風間は、赤レンガ診療所に立ち寄ったと話した。 「そしたら先生が、草取りの御礼を小花ちゃんにしたいって言うんで彼女に電話で話してもらったんです。その電話が終わったら先生が急に払うって言い出して。車椅子の下から現金でポーンってくれたんです」 「すげえな」 ここで姫野はやっと彼女の事に気が付いた。 「そうだ!小花は?小花はどうした松田さん」 「……帰りましたよ。泣きべそかきながら」 「泣きべそ」 「ええ」  松田は頷いた。 「彼女が真の功労者なのにね。姫野係長に怒鳴られて可哀想……」 「松田さん。俺は怒鳴って無いです。ちゃんとお礼を言いましたよ」 「駄目だぞ姫野、女性には優しくしないと」 「うう」  風間と石原に窘められた姫野は、天を見上げた。その後、電話をしても出ないし小花に無視された姫野は、考え抜いて小花の自宅まで謝りに行った。 8時を回った小花の家は留守のようだった。   ……こんな時刻まで、一体どこで何をしているんだ? すると彼女が帰って来た。 「あれ。姫野さん。どうしたんですか?」 「君こそ、電話にも出ないし」 「……居残りです」 「そうか、学校か。数学か?」  疲れた顔の小花は小さく首を振った。 「物理です」  そういって玄関前に立つ姫野のそばまで歩いてきた。 「私に何か御用でしたか?」 「いや。今日の礼と詫びを」  すると小花は、じっと姫野を見た。 「……もう。いいですから」 「いや。謝る」 「ですから。もういいの!」 「待て!?小花」 「物理も姫野さんも嫌いです!」  そういって小花は玄関のドアを閉めた。姫野は大きく肩を落とし、ごめんと声を掛けて帰って行った。 玄関のドアの向こうの小花はいじけていた。 ……無力な私でも少しくらいは協力したいと思ったのに。あんなに怒るなんて。やっぱり私は姫野さんの邪魔になるだけなんだわ。  家に上がると重たい教科書が入ったトートバッグを床に置いた。本当は勉強を教えて欲しかったけど。やはり甘えてはいけないと思った。 そんな小花は食事も取らずお風呂に入り、この夜は不貞寝した。 翌朝。姫野に逢わないように早朝のうちに清掃を終えた小花は、一通り仕事をこなすと、吉田婆と休憩していた。 「小花ちゃんは、もうすぐここ、終わりなんだろう。終ったら次の会社は決まっているのかい」  派遣期間は半年であり今月で終了だった。 「そろそろ話が合っても良いはずですが、会社は何も言ってこないです」 「あーあ。また一人で掃除するのか。婆さんには応えるよ」 「社内はリフォームが進んでいますから、掃除はしやすくなりますよ」  その時、部屋のドアのノック音が聞こえた。 「失礼します……」  姫野が入ってきて、小花は驚いて飲んでいたお茶をむせそうになった。 「小花。昨日は本当に済まなかった!この通りだ」  すっと頭を下げた姫野を見て、吉田は部屋から出て行った。 「あの、姫野さん!そんなに謝らないで下さい」 「お前は何も悪くない」 「だから顔を上げてください」 「君のおかげでとても助かった」  ……姫野さんは嘘をつく人ではないけれど。大人ですもの、社交辞令かもしれない。これに思い上がってはいけないわ。いつ、何時も謙虚にしないと。 「こちらこそ。お忙しい中、ご丁寧にありがとうございました……」 「それじゃ。また」  部屋を出て行った姫野に、小花はじわと、涙ぐんでいた。  この金曜日。風間のトップ達成と関係者の慰労を兼ねて、飲み会が開かれていた。 財務部長の良子にキス攻めにされ、利益管理部の女子にお姫様抱っこをせがまれた姫野と風間は、疲労困憊で会を後にした。 「先輩、行きましょう」 「どこに」 「小花ちゃんちですよ。もう一度謝っておきましょう」 「……では俺が行く、お前は悪くないのだから」 「いいえ行きます、そうだそれに」 タクシーを止めた風間は微笑んだ。 「謝るよりも、お礼を言いましょうよ。ね?先輩。ありがとうって」 「風間……」 笑みを称える風間は姫野をタクシーに乗せて、自分も乗り込んだ。 「さすがだな」 「え」 「お前は最高だよ……」 風間の気配りに姫野は、彼に肩を軽くぶつけた。 夏の札幌の夜の風は涼しく、街路樹のアカシヤの葉と彼らを揺らしていた。 完  ……後味が悪すぎる。謝って許してくれたけれど。あの悲しそうな顔はなぜだ? 窓の外は冷たい雨が降っていた。風
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