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138 君は薔薇より美しい 78kg級
「おはよう。美咲さん、って……朝から汗がすごいね?」
美咲の顔をみて、織田は思わず社名入りの手ぬぐいを彼女に渡した。
「あちーーー。ありがとうございます。なんか、織田さんのくれたサプリって発汗作用がありますね。私さっき、一度Tシャツを着替えたんですよ」
「でも水分は取った方がいいよ、あ、おはようございます」
「おう。おはようさん。何だお前。サウナにでも入ったのか?」
黒沼はそう彼女を一瞥すると、自分のデスクの上の書類を手に取った。
「つまんない冗談ですね。営業ならもっと気の利いた事言えないんですか」
「お前が客なら、そうするけどな。お前は俺の何でもないし」
「……確かにそうですね。黒沼さんの仕事熱心さに、私、感動で胸が震えました」
そういって美咲は営業所にモップを掛け始めた。この二人の会話に、織田は眉をひそめた。
「先輩。言い過ぎじゃないですか」
「そうか?あいつはこのくらいでへこたれる女じゃないだろう」
先日、美咲に説教された黒沼は、美咲に謝罪をし、この夏山愛生堂帯広支店の清掃の仕事を続けてもらっていた。
「それにしても……やっぱり言いすぎじゃ」
「いっとくがな、あいつも俺に相当ひどい事を言っているぞ?昨日だって俺が駐車場で車を当て逃げされた話をしていたら、あいつ笑ってたじゃないか」
「それは黒沼さんがパチンコ屋に停めていたせいですよ。それを仕事中の事故にしようとしたから」
すると黒沼はこれを制した。
「もう言うな!済んだ事だ。さあ、仕事だ」
こうして彼らは営業先の病院に向かった。
「おはようございます。夏山愛生堂です」
やってきた甘いマスクの黒沼と、さわやか真面目青年の織田に、看護婦は頬を染めた。
「おはよう。黒沼さん、あのちょっとこっちに……」
若い看護師とひそひそ話をしている黒沼に織田は溜息を付いていた。
……今度はこの女と付き合っているのか……。
女性付き合いの激しい先輩に、純朴青年の織田はこうして頭を悩ませていた。
そんなある日。
彼らに夏山愛生堂の本社から通達が来た。
「……新人戦の表彰式……これって」
「ああ。毎年の恒例なんだよ。式の後にダンスを踊るんだよ。そうか、それの準備をしないとな」
黒沼はスマホを操作して、織田に自分の時の画像を見せた。
「それが姫野で、隣が俺だ。ダンスのパートナーは誰でもいいのだが、本社はいつも良子部長っていうおばさんだ」
画像には今よりも若い黒沼が美しい女性と映っていた。
「先輩はこの女性と踊ったんですか」
「ああ。ダンス教室の先生だけど。彼女はもう無理だぞ」
「元カノですか……。それは俺も嫌ですし。ではこれから探すんですか?」
新人選で二位の彼も踊らなくてはいけない状況であり、織田はダンスの相手を心配した。
「いいや。もう見つけてあるから心配するな」
「ひょっとして今の彼女ですか?でも他にも」
すると黒沼は織田の口を慌てて塞いだ。
「し!黙れ!俺の人格を疑われるだろう」
「……すみません。そこ、掃除するので、避けていただけませんか」
いつのまにか背後にいた美咲に、彼らは場所を避けた。
「ありがとうございます。誠に恐れ入ります……」
そういって美咲は黒沼をまるでけだものを見るような目つきで見ながらモップを掛けた。
「あ?肝心な事を。俺はダンスは踊れませんよ?」
「大丈夫だ。講師が手取り足取り教えてくれるから。心配するな!」
そう嬉しそうに話す黒沼に、織田と美咲は眉をひそめた。
翌朝。早めに出社した織田は、美咲に相談した。
「先輩が俺にダンス用の服を買って来いっていうんだけど。どこで売っているか知ってる?」
「はあ……まずはね。織田さん」
美咲はスマホを取り出し、何やら織田の写真を撮った。
「そして……これかな。いや。こっちの方が」
「何をしているの?」
織田が覗き込むと、画像の自分はタキシード姿だった。
「すごいね。そのアプリだと、試着しなくてもイメージができるんだ?」
「そうです。それにこれは買わなくてもレンタルでいいでしょう?一回しか着ないんだから」
「なるほど。で、どれにすればいいかな」
すると美咲は、相手次第と話した。
「織田さんのパートナーになる人の衣装と合わせた方がいいですよ。それにこういう場合、一位の人とかぶったら嫌ですよね。もしよかったら、一位の風間さんの画像ってありますか?」
「……風間?アイツは社内メールにあったような」
織田が検索すると彼の顔が出て来た。
「ふむふむ。色が白くてひ弱なほんわか王子様か……。ススキノプリンスですものね。シルバーのタキシードくらい着てくるかもな……」
美咲はなにやらブツブツ独り言を言い始めた。
「織田さんは日焼けしてスポーツマンでスタイルがいいですものね。うん。これは黒の正統派でいきましょうよ。お似合いですよ」
「そうかな……」
不安そうな織田に、美咲はびしっと言い放った。
「いいですか?織田さんはもっと自信を持って下さいよ。せっかくの次席なんだから」
「次席?」
ずっと二位とか、一位になれなかったと自分を責めていた彼は、この美咲の次席という響きにドキとした。
「そうですよ。だから自信を持って下さい。あ、誰かさんみたいな勘違いはダメですよ?」
「勘違いね。なかなか美咲さんも言うね」
「極悪非道の女の敵ですからね。本当はもっと言いたいんですよ、あ、帰って来やがった。お疲れ様です……」
黒沼はすれ違った彼女をジロリとみると、織田の隣の自分のデスクに座った。
「お前ら。今、俺の悪口言っていたろ」
「……俺は言っていません」
「くそ!あいつめ……」
一生懸命掃除をしている美咲を見て、黒沼は舌打ちをした。
そうしてあっという間に、織田の表彰式の日が間近となった。
「その衣装。お似合いだよね。真理ちゃんもそう思うでしょう」
「うん。織田さんすごくかっこいいですよ」
「そう?なんか恥ずかしいな……」
社内でこの正統派のタキシード姿を披露した織田は恥ずかしそうに頭をかいた。
「美咲ちゃんが選んだんでしょう。後姿も素敵」
どれどれと集まってきた社員達を他所に、一人の男は腕を組んでいた。
「まあまあ、かな……」
本気でそう思っている上から目線のナルシストに、美咲はふっと笑みをこぼした。
「何がおかしい?」
「いえ。大物だなって。感心しただけです」
すると黒沼は真顔で美咲に向かった。
「なあ……今回の新人戦の一位の男は、俺のライバルの後輩なんだ。俺はあいつら二人とも倒したいんだけど、良い方法知らないか?」
「無いです。織田さんのために妙な事はしないで下さい」
けれどブツブツ考え事をしている黒沼に、美咲は心の底から呆れていた。
そんな二人が表彰式のために札幌に行き、帯広営業所を留守にしている時、事件が起きた。
「ちょっと!黒沼君いる?」
会社に女達が押し寄せて来た。水前寺所長も表彰式のため不在であったので、一先ず、事務の真理が対応した。
「なんでしょうか?黒沼は出張でおりませんが」
彼女達は各々が黒沼と交際していると話した。
「つうかさ?二股なんて話じゃないのよ、私達は七人よ、この七股って。バカにし過ぎでしょう!」
営業の課長もまだ得意先から戻っていないので、対応している女子事務員はこれに参ってしまった。
「みなさん。ひとまず、こちらへどうぞ」
美咲はそういって七人を会議室へ誘導した。そんな彼女に真理はそっと囁いた。
「いいの?勝手に部屋に入れて」
「あそこで騒がれたほうが迷惑だもの、それよりもごにょにょ……」
頼りになるのが美咲しかいない事と、パートの女子事務員も仕事に追われていたので、一同は美咲の指示通りにすることにした。
まず美咲は彼女達の頭を冷やすために、少し時間を置いてから会議室に入った。
「みなさーん。お待たせしました。まずはお茶をどうぞ」
美咲と真理は会社にあったカステラを彼女達に振る舞った。
「さて……それではこれより『黒沼省吾、七股事件』についてお話を聞こう思います。まずは一番右のあなた、どうぞお話しください」
「私は歯科医院に勤務していて。黒沼さんが営業で来ているんです。それで知り合って」
「そうですか、でもあの人はあなたに逢いに行っているわけではないですよ、はい、次の方」
美咲は裁判のように話をサクサク進めていた。
「私は薬局の薬剤師です。ある日、薬の注文を間違えた時、黒沼さんが優しくしてくれて」
「そうですか。でもそれは当然の行為ですよ、では次」
こうした事情聴取により、彼女達は全て彼の仕事がきっかけで知り合い、プライベートではデートをし、彼を自宅に招き入れた事があることが判明した。
「なるほど、これでみなさんも状況を把握できましたよね。。それで皆さんはどうされたいんですか?」
美咲裁判長の仕切りに対し、耳鼻科の看護師は手をすっと上げた。
「私は黒沼さんの事、本気だったんです、だから彼の本当の気持ちが知りたいです」
他の六人もうんうんと頷いていた。これに美咲は真顔で尋ねた。
「あのですね。皆さんに一つお尋ねしますが。彼のどこがそんなにいいんですか」
「見た目かな……あと優しいし」
「っていうか、それしかないような」
「デート代もいつも出してくれたよね」
こんな彼女達に美咲はバーンとデスクを叩いた。
「みなさん、目を覚まして!本命の彼女がいたら、七人の女の子と付き合うはずないです」
六人は黙って下を向いてしまった。
「あいつは自分の見た目の良さで、調子に乗っているとんでもない男ですよ」
「でも。優しいですよ」
「そうよ」
しかし美咲は違うと首を振った。
「それはうわべだけです!そもそも仕事で良い顔しているのだから、家とかここの社内ではその反動が凄いですよ、あんなのと結婚したら悲劇に決まっています」
「でも、お金も出してくれるし」
すると美咲の目が細くなった。
「カードでしょ?だって黒沼さんは車のローンとか、自分の服にお金を掛けているから預金は全然無いですよ。結婚しても自分にばかりお金を掛けて家にお金を入れない典型的な自分勝手夫です」
「確かに。いつもカードだね」
うんと六人は頷いた。
「じゃあ、私達は遊ばれたって事?ひどい……」
悔しさと憎しみで彼女達はしくしく泣き出した。美咲は彼女達にテッシュを配り出した。
「みなさん……これは慰めになるかどうかわかりませんが、あの男は綺麗な女性にしか声を掛けません。だから皆さんはそれだけお綺麗だってことです。自信を持って下さい」
「……ところであなたは?清掃員の恰好だけど」
やっと美咲の立場を気にし出した彼女達に、美咲はゴミ箱を持ち、使用済みの涙テッシュを回収した。
「私もアイツの非道が許せずに説教をしたことがあります。みなさんはあいつに一発喰らわせて、次の恋に向かった方がいいですよ」
「お話は良いですか?これはお茶と資料になります」
お茶の代わりを配っていた真理は、パンフレットを配った。
「これは?」
眼科の看護師の問いに、美咲はこれを説明した。
「今月末にある婚活パーティーのお知らせです。参加の男性は確かに中年ですけど、みなさんお金持ちでお嫁さんを本気で探しています」
「本気か」
「どれどれ」
黒沼の彼女達はパンフレットを手にした。
「そうです。それにあいつはカッコいいかもしれませんが、人の見かけは変わります。それを忘れなく」
これを聞いた唯一の三十代の整形外科の看護婦が、仲間を見渡した。
「みなさん、今日はこれで帰りましょう。今後の事は各自が彼を話し合うって事で、いいかしら?」
はい、と六名の女は返事をした。
こうして七人をなんとか説き伏せた美咲は、社員から拍手をもらった。
そして月曜日。まだ事件の事を知らない織田と黒沼と支店長は、疲れた様子で出社してきた。
「おはよう。美咲さん。アドバイスありがとう、これ、札幌のお土産」
「ありがとうございます」
「おい、織田。こいつに食いものをやるな」
「あれ?黒沼さん、その頬どうしたんですか?まるでビンタされた跡みたいですけど」
新人ダンス時に、風間のパートナーの札幌夏山ビルの清掃員にビンタされた顔はまだ赤く腫れていた。
「うるさい!これは可愛い女の子だからいいんだ!お前の張り手とは違うんだから」
「あ、あのですね、黒沼さん。黒沼さんが留守の間……」
真理が七股事件を黒沼に説明しようとした時、これを美咲は制し真理の手を取ってこの場を離れた。
「いいの、真理ちゃん。別に頼まれたわけじゃないし」
「でも!美咲ちゃんがせっかく」
「本当にいいの、これで……それに七人の彼女達は怒りの鉄槌を下すからさ」
そういって美咲はまた掃除を始めた。そんな美咲に真理は尋ねた。
「あのさ。美咲ちゃんて、黒沼さんの事、腹立たないの」
「立つけどさ……あの人、それだけ営業先で無理しているんじゃないのかな。だから私のようなかよわい女に、八つ当たりしているのよ」
もくもくと雑巾で窓をふく美咲に、真理は目を瞬かせた。
「美咲ちゃんて、優しいね」
「そう?ありがとう。真理ちゃんも何かあったら私に言ってね。私にだけは遠慮いらないから」
「うん!ありがとう。私仕事に戻るね」
やがて、事件の事を耳にした黒沼だったが、美咲に素直に礼が言えなかった。
しかも毎日どこかの得意先でビンタを食らっていたため、週末は心身ともに落ち込んでした。そんな彼が帰ろうと、広い道を走っていた時、その道の傍らに見覚えのある姿が合った。
「……お前、ここで何をしているんだ」
「自宅まで歩いて帰っているんです。入社してからずっとですけど」
以前美咲を家まで送った事のある黒沼はこの距離に驚いた。
「そうか。まあ、もっと頑張れや」
「はい、さようなら!お気をつけて」
そう嫌みで返す美咲を残し、彼は車を走らせた。するとフロントガラスに雨粒が付いてきた。
……雨か。あいつは?
赤信号待ちの間にルームミラーで後方を見たが彼女は全然見えなかった。
……レインコートくらいはあるだろう。
そうはいっても、雨は段々強くなってきた。彼はワイパーを動かした。
……くそ!何で俺があんな女を。
道路をUターンした彼は、彼女の元に走って行った。
「乗れ!送る」
「いいですよ。私は雨に濡れて、風邪を引いて休みたいんですから」
「良いから乗れ!」
「どうせ、知っていて乗せなかったって言われるからでしょう?大丈夫。私は誰にも言いませんから」
「お前さ……」
すると黒沼は笑って降りて来た。
「いいから乗れ!人が親切にしてるんだから!後ろだぞ」
そういって美咲を車へ押し込んだ彼は、車を発車させた。
「いいか?これで貸し借りなしだからな」
「最低です」
「ハッハハ。最高の褒め言葉をありがとうな!」
忙しくワイパーが動く夜道。美咲の前では素直になれる黒沼は彼女を乗せて、街道をひた走って行った。
136「君は薔薇より美しい 78kg級」完
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