142 ああ劣等生

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142 ああ劣等生

「はあ……」 「そんなに大変な試験なのかい」 午前11時。5階の立ち入り禁止の部屋で悲しげに雑巾を縫っていた小花に吉田は訊ねた。 「はい。どうしよう……これに落ちたら私、立ち直れませんわ」 「勉強すればいいじゃないか?」 「やってもやっても分からないものは分からないんです!」 少しキレ気味の小花は珍しく吉田に八つ当たりをした。 「でもさ。まだ時間あるんだし。小花ちゃんは若いんだから」 「すみません。……私。外の空気を吸ってきます」 そういって彼女は部屋を出て行ってしまった。 ……結構ヤバイかも……一応連絡しておくか。 彼女を心配した吉田は例の彼にメールを送っておいた。 札幌駅の東にある夏山ビルの屋上に、彼女はポツンと立っていた。 「デスちゃん。もうダメかもしれないわ……」 そんな独り言をつぶやいた彼女は、以前あった鳥よけの模型「デストロイヤー」が設置してあった個所をそっと撫でた。 空はどこまでも青く、乾いた風は夏の香りがしていた。 「……みなさんとも、お別れね……」 「小花ちゃん!?やめろーーー!」 屋上に佇んでいた彼女を背後からやってきた風間はギュウと抱きしめた。 「死なないで!?お願いだよ小花ちゃん!」 「きゃあ?風間さん?どうしたんですか」 必死の風間に、小花はびっくりして振り返った。 「どうしたって。こっちが聞きたいよ!なしてこんな所にいるのさ?」 「……ううう。うえーん……」 真剣な顔の風間に思わず小花は泣き出した。 「なしたの?」 「鈴子は……鈴子はもうお終いなの」 わっと泣き出した彼女は風間の胸でえーんと泣きだした。 「あのさ?泣いていたら分からないよ。ねえ?何があったのか教えて?先輩と喧嘩したの」 違うと彼女は首を振った。 「定時制の学校で嫌な事でも?」 彼女は首を振った。 「中島公園一丁目。じゃあ、PTA。他には義堂さん。これも違うの?良子部長がうざい。蘭さん達と喧嘩した……他にはなんだろう。卸センターのお掃除の子に仲間外れにされたのかい?」 どれも違うと彼女は首を振った。 「もしかして俺なの?ね。教えてよ。俺が力になるからさ」 本気で心配してくれている風間に、小花はようやく顔を上げた。 「……今度試験があるんですけど。鈴子はそれをクリアできないの」 「何の試験?」 「会社のです……ワールドの」 「小花ちゃんの勤務先か?そうか。やっと方向が見えてきた」 こうして風間は少し落ち付いてきた彼女を5階の立ち入り禁止の部屋に連れて来た。 「お?風間の坊っちゃんすまないね」 「いいんですよ。彼女は俺の命の恩人ですし。で。そのテストって何なの小花ちゃん?」 彼女はやっと重い口を開いた。 「清掃員が受けなくてはならない試験があるのです。でも私は何度やっても不合格で……だから前回はサボってしまったの」 時は昼休み。吉田は相談に乗ってくれている風間のためのお湯を沸かしカップ麺を用意し始めた。 「それに合格しないとどうなるの?」 「清掃員の仕事ができなくなるって。手紙に書いてありました……」 そういって彼女はティッシュで鼻をかんだ。 「でも無理!私……絶対合格できないもの……」 しくしく泣いている小花に、風間は頭をかいた。 「ちなみにどんな試験なの?」 すると吉田が代わって説明した。 「簡単な時事問題と、清掃に関する問題だよ。時事問題は今の総理大臣が誰かとか、東京オリンピックが開催されるのは何年ですか、って常識問題だよ」 すると小花はわあああと机に突っ伏して泣きだした。 「ダメだよ?!吉田さん」 「ごめん!そんなつもりじゃなかったんだよ」 こんな常識を知らなかった小花は、己の無能さに涙した。 「よ、吉田さん。でも他の清掃の関する問題は?小花ちゃんなら楽勝でしょ?」 すると吉田は、茶封筒から出した前回の問題を読み上げた。 「……油汚れを落とすのに適しているのは次の内どれか。①酸性洗剤、②アルカリ洗剤③酸性とアルカリ性を混ぜたもの。だってさ」 「小花ちゃんは……どれだと思うの」 風間は胸で泣く彼女に恐る恐る訊ねた。 「マジックルン、としか分かりませんわ……あとはウタアロ石鹸」 商品名で憶えている小花に、風間はああと肩を落とした。 「風間君。他の問題はね。洗剤を用途に合わせて希釈する時の水の量とか」 「希釈?もう無理?!うううう……」 この数学的な話しに小花は首を振っていた。 「鈴子は……鈴子はここまでです。風間さん……やけに長く感じたこの夏。本当にお世話になりました……私、幸せでした」 「何を言っているの?冗談でも怒るよ!ええと待ってね……」 風間はこの状況を何とかしようと策を練った。 ……実技は完璧なんだから……小花ちゃんが使っている洗剤が何で出来ているか覚えればいいわけだし……後は、希釈か…… しばし考えた風間は、良し!と声を出すと彼女の両腕を握った。 「小花ちゃん。勉強方法が見えてきたよ。俺の母さんが教えてくれるよ」 「へ?」 涙のせいで目を真っ赤にした彼女は風間を見上げていた。 「俺の一家はみんな薬剤師なんだよ。母さんに分かりやすく教えてもらえばいいよ」 そういって彼は彼女の髪を優しく撫でた。 「本当に?鈴子でもクリアできますか」 「うん。小花ちゃんにやる気さえあれば何でもできる!」 「何でも……」 風間はカップ麺の麺が伸びているのも臆せず、彼女に持論を説いた。 「俺はね。小花ちゃんが好きなんだ。でもあんな姫野先輩も好きなんだ……だから、なんていうか、いつまでも先輩と競っていたいんだ。それには小花ちゃんがいてくれないと」 「風間さん……」 「小花ちゃんはどうなの?ワールドを首になってもいいの?この夏山を辞めて他所に行きたいの?」 「嫌です!鈴子はここでもう少し。ここでお仕事したいです……」 「なら簡単だよ。今夜からうちの薬局で母さんに洗剤について教わるといいよ。ね?元気出して?」 そういって風間は彼女の頭を優しく撫でた。 「小花ちゃん……風間の坊っちゃんがここまで言ってくれているんだよ。うちの太郎にもアドバイスされるからさ。頑張ろうよ?ね?」 この優しさに頷いた彼女は、この夜、ススキノ風間薬局で洗剤に関して風間の母から特訓を受けていた。 「そうか……油汚れは同じ油で落とすんですね」 「そうよ。後は小花ちゃんが使っている洗剤を理解すれば大丈夫よ」 熱心な風間夫人に、小花はへろへろだったが、掃除に関する勉強はとても楽しかった。 しかしあまりの熱心さに逃げたくなった小花だが、店の奥から出てきた風間社長の励ましでなんとかこの夜は家時に着いた。 ……疲れたわ。でも、少しは光が見えそうだわ。 御風呂にお湯を入れながら小花は御風呂用洗剤の背面の説明書きを読んでみた。 そして風呂に入りながら、洗剤について勉強していた。 アルカリ性、酸性、中性洗剤。界面活性剤。クエン酸、重層……。 湯に浸かっていた彼女は、風呂場にあった洗剤を見比べていた。 ……今までそんなに気にしていなかったけど、色んな種類があるのね。 ぼおおとしていた彼女に突然声が聞えて来た。 「おい!小花っち!お前寝ているんじゃんねえよな?」 「きゃ?その声は、拳悟さん?びっくりした……」 小花の風呂は向かいに住む拳悟の自宅の庭に隣接しており、小花が入浴中は鉄平と拳悟兄弟が風呂を覗く狼藉者を監視していたのだった。 「妙に静かだからさ……」 ボクシンブ部の彼は庭で縄跳びと称して彼女の風呂の歌を期待し窓の隙間に声を掛けた。 「平気ですわ。ちょっとテストの事を考えていたの……」 「でもよ。いい加減に出ろよ。お前がでないと俺も終われねえよ」 「まだ髪を洗ってないから。急いで洗いますね」 そういって小花は湯からザザ―と上がった。 「急がなくていいから」 その時、庭にもう一人がやってきた。 「拳悟、代わるからお前家に入ってろ」 「別にいいよ。兄貴こそ部屋にいろよ」 いいって、いいからと兄弟はだんだん喧嘩腰になって行った。 そんな事を知らない彼女は、長い髪をシャンプーしていた。 ……♪夏は心の鍵を……甘くするわ、ご用心♪…… この歌声をキャッチした兄弟は、はたと動きを止めた。やがて各自筋トレなど始めて、彼女の歌を堪能したのだった。 翌朝。勉強の成果を吉田に確認してもらい、彼女は土曜日の試験に備えた。そして土曜日当日。お弁当を持参し、大通りにある派遣会社ワールドが入っている正門館ビルにやってきた。 「よ!小花ちゃん」 「欽也さん?良かった!知っている人がいて」 ああと欽也爺さんも嬉しそうに頷いた。彼の話しによると今日のテストは新人やカムバックしたばかりの人も受験であり、追試験組は欽也と小花だけと話した。 そして緊張しながら二人は試験会場の会議室へ入った。 「あ?太郎さんだわ」 「し!彼はもう私達の上司なんだよ?あの、本日は宜しくお願いします」 欽也は太郎にペコと頭をさげ、自分の席に座った。 そして試験が始まった。それはあっと言う間に終わった。弁当を食べ終えた頃、結果が廊下に張り出された。 「……あったかい?小花ちゃん」 「ないです……欽也さんは?」 「ないね……これは、オイラは首かな」 すると二人の肩を太郎がトンと叩いた。 「残念でしたね。お二人はこちらに来てください」 嬉しそうな合格者を尻目に二人は哀しく奥の会議室に入った。 「……これからお二人の成績についてお話ししますが。まず欽也さんのテストですが。この答案をご覧ください」 そういって太郎は並んで座っていた二人の前に欽也の答案を返した。 「残念ですが。我々には欽也さんの字が読めませんでした」 「ええ?オイラの字が?」 そこには草書の字が連なっていた。 「しかもその漢字って旧文字ですよね?その他、欽也さんは横文字がダメなんですか?」 「そうなんだよな?まいっちゃうなもう」 欽也はそういって自分の頭をコンとお茶目に叩いて見せた。 「続きまして小花さんの答案。努力された様子が分かりますが、この洗剤を薄める問題が苦手のようですね」 「……はい。でも実際はいつも使っているバケツでちゃんと適正な濃度でお掃除しているんですよ」 「それはわかりました。でもこの成績では二人は不合格です」 「お願いします太郎さん。私勉強して何とかしますから」 「オイラもです!今のままの年金じゃあ、やっていけないんだよ」 二人の真剣な目に、太郎はふっと笑みをこぼした。 「では実際に実演してもらいます。小花さん、この問題文の通りに洗剤を薄めて作って下さい」 太郎のくれたチャンスに燃えた小花は、借りたバケツで薄めた洗剤を作って見せた。 「……次は欽也さんです。この油汚れを、ここにある洗剤を選んで綺麗にして下さい」 「待ってました!ええとこれかな……シュッとスプレーして……はい消えた!!」 この様子に監督官の太郎はゆっくりうなずいた。 「はい。では合格で良いでしょう」 やったーと落ちこぼれ二人は両手を上げてハイタッチをした。 「しかし。今後の仕事に対する心構えのレポートを書いてから帰って下さい」 宿題ではダメか、という二人に対し、提出が遅れるから、と太郎はこの部屋で二人に作文用紙に向かわせた。 鬼、意地悪。恩知らずと雑言を受けながら太郎は二人が逃げ出さないように見張っていた。 「書きながら聞いて下さい。小花さん。夏山さんからお仕事の延長依頼が来ていますが、どうしますか?」 「ぜひお願いします」 すると太郎はニコと微笑んだ。 「助かりました。あと欽也さん。これからワールドの社員が増えるので、欽也さんには新人教育をお願いしますね」 「良いけどさ。なんだよ。いきなり」 立ち上がった太郎は、二人にペットボトルのお茶を渡した。 「実はですね。北海道第二の大手企業が積極的にうちの派遣会社員を利用してくださっていまして、しかも得意先の医療関係先に紹介して下さっていましてね。今は新しい仕事を断っているくらいなんですよ」 「へえ……親切な会社があるもんだね」 「私もそう思いますわ」 熱心に作文を書く二人は、早く終えたくて必死にペンと動かしていた。 「……そんなわけで新人を多く入れたいんですけど、新人教育は欽也さんにお願いしたいんですよ」 「え、オイラに?で、でも俺はまだ入って三年目だぜ」 「それで十分です。それに自分も最初は戸惑ったんですけど、欽也さんがいたから続けられたので」 「え?太郎君……」 欽也は思わず顔を上げた。 「今回も入社したのが私のようにワケアリばかりです。でも、欽也さんとならみんな仕事を楽しくやってくれると思うんですよ」 「太郎君……オイラの事をそんな風に思ってくれていたのかい」 ぐすと涙ぐむ欽也に小花はポケットティッシュを渡した。 「お二人は私にとって恩人なんですよ、さあ。早く作文を書いて下さい。これでもお二人を合格させるのにこっちも必死なんですよ?」 これに胸がジーンと来た二人は、なんとか二枚の原稿用紙に文字を埋め、太郎に提出した。 そして疲れ切ってビルを出た二人は、一刻も早く自宅に帰りたかったのでここで別れた。 「ただいま……ああ、疲れた」 リビングの隣の和室にゴロンと転がった彼女は、見慣れた天井を眺めた。 「でも合格ですもの!あ、そうだ、風間さんが心配していたものね」 小花は世話になった風間にメッセージを送った。 ……姫野さんが出張で帰って来るのは明日だし。 医薬品メーカーの工場見学で関西に行っている姫野は不在であったので、今回、この件は伝えていなかった小花は事後報告するつもりだった。 ……♪♪…… 「あれ?姫野さんから電話……もしもし」 『鈴子か?風間から聞いたんやけど、どないしたん、テスト』 「合格できました……」 『さよか?ほんまよかったなー……ごっつ心配したで』 姫野のあやしい関西弁に小花は眉をひそめた。 「話し方がおかしいんですけど」 『くそ?どうも引きずられてしもて。かなわんなー?』 「姫野さん!しっかりして!」 『あかん?自分でどうすることもできへん!はよ帰りたいわ』 「……じゃあね。鈴子が好きって言ってみて」 『おほん。鈴子が好き』 イントネーションが明らかに異なるので、彼女はけらけらと笑った。 『ダメだ?済まないが、手本でお前が言ってくれへんか』 「姫野さん。好き……。え?もう一度?ええと岳人さん、早く帰って来て……早く逢いたいの。鈴子は寂しいわ」 悪ノリしている小花に姫野はあえて頼んだ。 『もう少し続けてくれ。頼むさかい』 「そう?……今ね、うちに岳人さんのTシャツが一枚あるでしょう?これ着心地良さそうだから、今着ているんだけど、ブカブカなのよ」 『あのサーモンピンクか』 「そう。これ着て寝てもいい?」 『お前は全く……はあ。明日帰るから。お前の家に顔を出すから』 いつの間にか言葉が元に戻った彼がおかしくて小花は微笑んだ。 「ねえ?鈴子が好きって言って」 『愛している。鈴子』 急に耳に飛び込んできた彼の声に彼女の胸は熱くなった。 「お待ちしております。お休みなさい」 やっと電話を切った彼女は、ベッドに寝転んで、あっという間に眠ってしまった。 その頃。関西のホテルの一室にいた姫野は一人ビールを飲んでいた。 ……俺のTシャツを着て寝ているのか……。 彼は窓に向かって道頓堀川を眺めていた。 ……もう寝よう。 そして彼はベッドに潜り込んだ。スマホに目覚める時刻にアラームを設定した後、姫野は彼女の画像を見ていた。 大好きな彼女。 愛しい彼女。 自分を待っている彼女。 抱きしめたい彼女。 ……ああ、早く札幌に帰りたい。 関西の夜は熱帯夜で姫野は冷房をキンキンに効かせた。 そしていつものように彼女の画像のお休みを言い、姫野は寂しく眠りに着いた。 完
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