6098人が本棚に入れています
本棚に追加
/183ページ
147 豊平川イカダ下り
「ねえ!出たい!出たい」
「社長……確かに目立ちますが。うちの会社はそんな事をしなくても十分、利益が出ていますし」
「でもさ。やってみたんだよ。俺は札幌の全てのイベントに参加しようと思っているんだもの」
「やる気だけは買いますが……お時間がないですし」
野口は目をチワワのようにウルウルさせている慎也に頭を抱えていた時。西條がすくと立ち上がった。
「野口さん!若いうちはやりたい事を何でもやった方がいいって」
「君は簡単にそういいますがね。筏を作って川を下るんですよ?誰が筏を作るんですか?」
「それはあれですよ、例のほら、石原部長と渡部長にやってもらえば」
「よーし決まり!それってさ。俺も筏に乗るからね。あーあ。楽しみ!」
こうして第40回の豊平川イカダ下りに夏山愛生堂もエントリ―する事になった。
このミッションを言い渡された石原と渡は、例によって会議室で途方に暮れていた。
「いつか言い出すんじゃないかとびくびくしていたが、とうとうこのイベントに気が付いてしまったか」
「しかしどうする?姫野は忙しいから全然頼れないぜ」
「うーん。では誰を頼ろうか」
無力な石原と渡は最初から自分達で解決しようと思っていないので、出来る人を一生懸命考えていた。
「……そうだ?俺のスマホに聞いてみよう。何でも知っている頭の良い奴なんだ……」
へえと感心しているガラケー命の石原を隣に置き、渡は慣れた様子でスマホに問うた。
「『豊平川イカダ下り』!」
「なんだ?これは『イカ』か」
「もう一度!『豊平川イカダ下り』!」
「『豊平川』って出るだけだな……しかも渡。お前はこれで何を調べる気だ?開催内容は俺、知ってるぜ?」
「……無念。猫に小判状態だ。俺にはこれを使いこなせない……」
するとこの会議室を清掃しに彼女は入ってきた。
「失礼します。まあ?会議でしたか。掃除は後にします」
「お待ち下され!?いいんです。お嬢が優先ですので我々は即刻立ち退きます!おい、石原。豊平川イカダ下りはやはり姫野に相談しよう」
この話しを耳にした彼女は、姫野がものすごく忙しい事を知っていたので、ちょっと考えた。
「あの。イカダ下りでしたら、私、経験者を存じていますわ」
「なにぃーーーー?それを早く言ってくれよぉ」
「バカ?お嬢に何を言う?」
彼女に大声を出した石原の頭を渡は頭突きした。
「痛いな?ところでそれは誰だい?」
「配送にいる手塚さんですわ。毎年参加されていますの」
よし!と席を立った石原と渡は、小花に礼を言うと部屋を颯爽と出て行った。
そして夕刻の清掃時に、彼女は松田から詳しい経緯を聞いた。
「そうですか。イカダは手塚さんが作ってくれるんですね」
「社長が載るから慣れた人が作ったものがいいでしょう。もちろん材料費は出すし」
「あとは……仮装っていうか。パフォーマンスですか」
そもそも目立ちたがり屋が参加するお遊び祭りなので、川を下るよりもこっちの方が重要だった。
「そうなるわね。まあ、私の知った事ではないけど。これくらいは部長コンビに考えてもらいたいわ」
「……ではこれは社長と部長コンビが参加なんですか。フフフ面白いメンバーですね」
想像して含み笑いしていたところに、風間が営業から戻ってきた。
「聞いて下さい。うちの親父が勝手に豊平川イカダ下りに申し込みしちゃって。俺、出る羽目になっちゃいましたよ」
「まあ。風間さんも?あ?あれメールだわ」
卸センター掃除隊からの緊急メールだった。
「すみません。緊急メールなので、読んでみます……、まあ?卸センターのお掃除仲間もエントリーしたって」
「これで済むと良いけど。あ。ごめん、またPTAだ」
そこには里美中学校の開校80年を祝して、PTA役員でイカダ下りに参加する旨が載っていた。
「小花ちゃん。PTAもこれに参加みたいよ」
「又、私にメールが着た。うそ!中島公園のママさんバレーも出るそうです」
「オールスターじゃないですか。そうだ?俺も手塚さんにイカダを頼もうっと!」
こうして小花の周囲の人達が急にイカダ下りに参加する事になった。
そして彼女が自宅に帰ると、ポストに茶封筒が入っていた。その文字に見覚えが合った彼女はリビングでこれを読んだ。
「イカダは猪熊さんが何とかするのね……アイディアを書いて猪熊さんちのポストに入れないといけないのか……どうしましょうね」
とにかく何か書いて出さないと催促が来るので、彼女は得意のイラストを描いて行った。
「テーマは『アタックNO.1』猪熊さんがバレーボールのきぐるみを着て……。無理なら頭の上にボールをくっつけて。みんなはバレーのユニフォームを着るでしょう……。久美さんが笛を吹いて、そして旗のように、バレーのネットをヒラヒラヒラっと!うん。いい感じ!」
カラーペンで色を彩色した彼女は翌朝これをポストに入れようとテーブルに置いた。
その時、掃除隊からメールが着ていた事に気付いた。
「ここもアイディアか……え?セクシービキニ姿着用って。どうしましょう」
仲間の過激な提案に彼女は困ってしまった。
……そうか。私は他のイカダに乗るから参加できないって言えばいいのよ。それに五人全員は乗れないし。
そんな事を勝手に決め付けた小花は、自分が参加しない事を前提にコスチュームの案を送った。
「テーマは『キラキラお掃除隊』。紗里さんはホウキ。明子ちゃんと真子ちゃんはぞうきん。恵ちゃんはバケツっと。そしてセクシービキニのお尻に『卸』『セ』『ン』『タ―』って書くのはどうかしら……うん。これは目立つわ」
我ながらいい事考えるな、と感心した小花はこれを仲間に送ると、風呂を済ませた。
そして上がった後メールを確認すると、今度は松田からメッセージが届いていた。
「またですか?皆さん。ご自分では考えないのかしら」
しかし、様子が分からない松田が困っていると思ったので、小花は里美中学校PTAの為に考えた。
「ええと。まず千葉会長の服……そうね。いつも薄着だし、インパクトが欲しいならフンドシくらいじゃないと物足りませんわ。でもバーマンさんや真田さんはお気の毒ですから……二人は中学校のジャージか、制服を借りてっと。志保美さんも参加かしら。だったら、志保美さんも女子の制服ね。ふわあ……色々考えたら眠くなった……」
そして寝る支度を済ませた彼女は倒れるようにベッドで休んだ。
翌朝。
雨であったので、彼女の家の前に彼が迎えにやってきた。
「おはよう。結構振っているぞ」
「お世話になります」
姫野の運転するフェアレディZは彼女を載せて夏山ビルへ走り出した。
「風間から聞いたぞ。イカダ下りの件」
「フフ。みなさん楽しそうですよ。でも用意が大変そうですね」
「他人事に聞えるが……お前も誘われているんじゃないのか?」
ううんと彼女は首を振った。
「参加するってお話しですけど、イカダに乗れるのはせいぜい3,4人でしょう?それに鈴子は相談されただけで、参加はしませんわ」
「それを聞いて安心した。俺も手伝えないが、当日は風間の応援に行こうと思う。鈴子も行くか?」
「はい!楽しみですね」
こうして他人事と思っていた二人は、当日豊平川の河川敷にやってきた。
「大きな石で、ごろごろしているのね。歩きづらいわ」
「俺に掴まれ、あ!手塚さん。お疲れ様です!」
スタート地点では参加者がイカダの傍でスタンバイしていた。
「大変だったよ……姫野君、俺、何台イカダを作らされたと思う?」
「ハハハ。3台ですか」
「5!5台だよ。まあ、かなり儲けたけどさ」
「手塚さんの仮装は……車ですか」
「そうだよ。俺の会社の車のイメージさ。まあ、毎年これだけど」
胸と背に手塚運送と書かれた赤いTシャツ姿で、頭には車の形の帽子を被っていた。
やがて前が進んだので、手塚は仲間と一緒にイカダを持ってスタートの列へと進んで行った。
「あ!バーマンさん!ハロー」
「ハロー小花」
里美中学校PTAの一同はやはり子供から借りた中学校のジャージを着ていた。
「小花さんの案通りになったのよ!」
「お似合いですわ?志保美さん!バーマンさんも、真田さんも」
その時、彼らの背後からぎゃあと悲鳴が聞こえた。
「ちょっと真ちゃん何してるのよ!転んだの?」
「だ、大丈夫だ。なんのこれしきの傷……あ、小花さん。応援サンキューです!」
フンドシ一丁だった千葉はこの河原で転んだらしく、うっすら身体から血が滲んでいたが、鬼の志保美は川で消毒しようと彼を連れてイカダの列を進んで行った。
「フンドシは危険でしたのね。あ。みんな」
「ちょいと小花ちゃん。どうして水着じゃないのよ?」
そこにはターザンビキニの恵が立っていた。
「そうよ。私達だけにこんな恰好させてさ」
「小花ちゃん。紗里ちゃんはね、こんなに寸胴体型なのに気合い入れてビキニで来たのよ?それなのに」
「……あらあらあら?今、何て言いました?明子ちゃん」
「え?寸胴」
「ふん。まな板胸に言われたくないわ」
「もう!紗里ちゃんも明子ちゃんもやめなさいよ。見苦しくて恥ずかしいわ」
「真子ちゃんも穏やかにですわ」
また一色即発のこの場に小花がおろおろしていた時、彼女の背後から彼が現れた。
「おお。あでやかだね?卸センターのお掃除娘さん」
「「「「夏山の社長さん?キャーーーー?」」」」
この黄色い悲鳴を耳で塞いだ慎也は、にっこりほほ笑んだ。
「今日は俺も参加するんだよ。あ、ちょうど君達の次の番みたいだし。よろしくな」
「社長さん……その恰好で出るんですか?」
「ああ。良いだろう?」
夏山カラーのサーモンピンクのTシャツ姿の彼の帽子には手書きで「社長」と書いてあった。
「社長、日焼け止め塗りましたか?ああ。君達はお掃除隊ですね。小花さんはどちらの応援ですか」
慎也の背後から顔を出した野口に、掃除乙女の心臓が高鳴った。
「私はみんなの応援ですの。そうだ、野口さん。恵ちゃん達は女の子だけで参加なので、良ければ見守って下さいますか?」
「いいですよ。後ろから見ているだけですよね。ええと、恵さんでしたっけ。よろしく」
野口に片思いをしている恵のために小花は彼に頼んだ。この様子をお掃除隊はいいぞ!と頷いていた。
「よ、よろしく?」
「さ!時間だろう?小花さんはそこで応援してくれよ。お掃除さんも行くぞ!さあ、あっちだから俺に付いて来い!」
おう!と四人の乙女は勇ましく自分たちのイカダを軽々と御神輿の用に持ち、スタート地点へと進んで行った。
「おい。鈴子、大変だ、来てくれ!こっちだ」
姫野が呼ぶ方へ小花がくるとそこには風間薬局のイカダの上で、風間社長が伸びていた。
「どうなさったの?」
「ここに来るだけで疲労困憊だよ」
炎天下暑さの中、ぽんぽこサンバ用のたぬきのきぐるみを着て来た風間父はすっかり伸びていた。
「諒。母さんはここで父さんを見ているから、お前一人で出ておいで」
「ええ?嫌だよ?リタイヤする!」
「風間。行け!俺がイカダを運んでやる」
「でも姫野さん。風間さんだけでは不安ですわ。岩にぶつかって頭から血が出るかもしれないもの」
そういってなぜか小花はポケットからスマホやら、財布などを出し始めた。
「……何をしている」
「こんな事があるかと思いまして。鈴子は用意をしてきましたの。これで濡れても大丈夫だし。ご夫人、私の荷物を見ていて下さいね。さあ、風間さん行きましょう」
「小花ちゃん?ありがとう!小花ちゃんが出るなら俺も出る!」
「バカな?お前らだけでは無理だ」
そういって姫野がシャツを脱ぎ、持っていたバッグから何やら取り出した。
「こんな事があろうかと用意してきて良かった。風間さん、俺の荷物も頼みます」
そういって姫野は素早く着替えた。そして応援用に風間が持ってきていた風間薬局の青いTシャツを着た姫野と小花は、順を待つ列へ進んだ。
「見て!猪熊さんよ」
ぎゃーーーと川を下っているグループは、背の大きな素子が立ち、ボールのきぐるみの猪熊を中心に倒れずにバランスを保っていた。
久美と知子が必死にパドルをこぎ、流れの早いコースを巧みに進みイカダを操作していた。
「上手いな……あっと。ここでダメか」
川では素子が派手な水しぶきを上げて猪熊と一緒に川に落ちていた。
「救命胴衣を着ているから、大丈夫そうですね」
川に落ちて久美に叱られていたのにニヤニヤしている素子を見ていた時、小花達は見慣れた赤いTシャツを見つけた。
「手塚さんだわ……お上手ね」
「あのさ。なんか手塚さんのイカダって俺のと違うな……」
「まあ、気にするな。船なら俺に任せろ」
「……姫野さんカッコいいです。鈴子はドキっとしました」
「俺は別の意味でドキドキだよ……はあ、転覆したらいやだな」
しかし手塚の船もひっくり返っていた。そして今度は男の悲鳴が聞こえてきた。
「あれは千葉さんだわ」
「裸はあぶないよ。川に落ちたら岩にぶつかって傷だらけに、あっと?」
ジャバーーンと盛大に落ちた千葉だったが、彼の仲間達はゴールする事を優先させ、彼を助けることなく進んで行ってしまった。
「千葉さんは泳ぐのがお上手ね。あ、次はお掃除仲間です。みんながんばって!」
きゃあああと騒ぐお掃除乙女達は、結構過激な水着だったので注目を浴びていた。
「おふざけでホウキを持って来たけど、大丈夫かしら紗里ちゃん」
「結構うまいぞ。他の3人もバランスを取っているから」
「あ。でも一人落ちたよ?」
川に落ちた恵は、次にやってきたイカダに声を掛けてもらっていた。
「野口さーん」
「君は泳げますね?ではご自分で。社長!私にしっかり掴まって下さい」
一切余裕のない野口は恵をスルーし、慎也を守っていた。
「うおおおお?流れが早いぞ!アハハハ。面白いな」
「石原!命に代えても社長を守るぞ!」
「うるさい!お前が浮き輪になってやれ!」
舵を任された石原は必死に早い流れにバランスを保とうとしていた。これを見ていた姫野達は彼らに声を掛けた。
「落ちろー!」
「もういいですよ。落ちて」
「皆さま!無理しないでいいですよーーー」
自分達だけは最後まで川に落ちずにゴールしたい姫野チームは同じ会社の仲間の足を引っ張るようなエールを送った。
「姫野!お前はバナナの皮で滑って、宇宙の果てまで飛んで行ってしまえ!!」
「アハハハハ」
「風間もだ!豆腐の角にぶつかって泣きべそ掛け!」
「アハハハハハ!」
のんきな慎也を載せたイカダはやはり濁流ポイントを越えられず、派手に転覆した。
これらを見ていた姫野はいつの間にか無言で一人考え込んでいた。
「……小花ちゃん。先輩いつもよりもおかしいけど、なしたの?」
「し!静に。ゾーンに入ったんですわ。ゲームの時もこうなの」
ぶつぶつと頭の中でシミュレーションをしている姫野を周囲の人が変な目でみるのを防ぎながら風間と小花はスタンバイをした。
「よし。いいか。俺が漕ぐから鈴子はここに座れ。風間はここだ。俺はここに座る」
三人は姫野を先頭に鈴子、風間がくっついて座った。
「揺れるが落ちるなよ?鈴子は俺にしっかりつかまって前を見て岩があったら早めに教えてくれ。風間は後ろのほうでバランスを取ってくれ」
そして姫野は前方に座った。
「俺は左右で舵を取るからお前達はぶつからないようにしてくれ」
「この体制って。ボブスレーみたいですね」
「そうだ風間。一緒に体重移動して行く。良し!行くぞ」
姫野が漕ぐ風間号は、こうして豊平川を下りだした。浅瀬であるが急流のポイントもあるこのコース。姫野が前の組の失敗をインプットし、これらを難なく交わしていた。
「前方右手。岩があるわ!」
「その先に草あり!」
小花と風間のナビもあり、姫野達はほとんど水を被らず難所へとやってきた。
「「「「「小花ちゃーん!がんばってー」」」」
お掃除少女の黄色い声援や、渡と石原のヤジが飛んで来たが、集中している彼らには何も聞えなかった。
「来たわ!姫野さん!」
ちょっと滝っぽくなっているここは、転覆ポイントだったので、小花は姫野をギュと抱きしめた。
「小花ちゃん!俺怖い」
風間はそんな小花を背後から抱きしめていた。
しかし。姫野は臆することなくむしろここにスピードを付けて突っ込んで行った。
「……うわあ?先輩ストップ!」
「きゃあああああ?」
「はっ!」
風間号はふわと空を飛んだかと思うと、バシャーーン!と着水した。
これをみた河川敷の見物客はおおおと拍手を送った。
そして姫野は着水の反動で転覆しないように鉄の腹筋でこれを支え、さらにスピードを付けこの難所を飛び筏を進めた。そしてそのままゴールした。
「あはっはっは。どうだ?上手くいったろ?」
「はあ……それはそうですけど」
「もう。限界」
そして川から上がった三人は仲間達の元に戻って行った。
「はあはあ、あれ?慎也社長は?」
「それがさっきからいないんですよ」
風間と野口が心配する中、お掃除娘達は、あっちあっちと川を指さした。
「なんですか。あ?なんであんなところに?」
上流から川を下るイカダに慎也が載っていたので、一同が驚いて目を凝らした。
「おーい!みんな!ねえ?菜々子さん。みんなこっちを見てるよ?」
「慎也君いい加減にして!それよりも小林さん。このイカダ大丈夫ですか?なんか左に傾いていますけど」
「そうかもしれませんね。じゃあ、右に寄って下さい」
「のんきな事いって?きゃあ?滝よ!慎也君、滝!」
「俺につかまりなよ、菜々子さん。せーので川に落ちよう、せーの」
「もうイヤ!……キャア?―ー―」
ザブーンと二人は川に落ちたので、これを見ていた野口は血の気が失せた。
「助けにいかないと!」
「大丈夫ですよ。菜々子先生がいるし、ライフジャケットを着ているし」
そんな風間の心配を他所に、慎也は菜々子を抱きしめながら川で泳いでいた。
「気持ちいいねー。菜々子さん」
「なんでこんな事に?笑い事じゃないでしょう」
「だって、菜々子さんと一緒なんだもん……」
「全くもう。困った社長さんね」
憎めない慎也と菜々子はこうして水の中で戯れながら岸へ向かっていた。
「先輩!転覆しないでゴールできたのって。俺達だけみたいですよ!」
「当たり前だ。誰が漕いだと思っているんだ」
自信にほくそ笑む姫野を傍にいた小花に、掃除娘がそっと話しかけてきた。
「小花ちゃん。あのね、恵ちゃんをくっつけてよ」
「そうだった!?姫野さん、私挨拶してきます。野口さーん」
小花はお掃除娘を紹介した。
「……あ、小花さん。お疲れ様です」
「野口さんの方がお疲れですわ。あの、こちらの女性は卸センターのコ―ヒーの三木さんで掃除している」
小花がターザンビキニ姿でずぶ濡れの恵をを紹介しようとした時、これをタオルで髪を拭いていた野口が遮った。
「存じていますよ。恵さんですよね?コーヒー豆を買いに行くといつも元気に挨拶してくれますから。それに今日の水着はコーヒー色ですか?良くお似合いですよ」
「えええ?そんな……」
嬉し恥ずかしの恵は驚くほど全身が赤くなってしまった。
「おやおや。日焼けしたんですか?よければ日焼け止めのクリームを貸しましょうか?手遅れかもしれませんが」
「「「それっ!」」」
ここに掃除乙女が集まってきて、野口と恵をぐるりと囲んだ。
「そんなことないわ!たっぷり塗ってあげて野口さん!」
「そうよ。あの、その水着もずらしてくださって結構よ」
「恵ちゃんは鈍感ですけど、敏感肌なの。おねがい!野口さん」
紗里、明子、真子の勢いに押されたので、野口は川沿いに張られた臨時テントへ恵を優しく連れて行ってくれた。一同は手を合わせて成功を祈っていた。
「あれは何をしているんだ?鈴子」
「夏の恋ですわ」
「へえ」
川の中ではまだ慎也が菜々子と水に戯れていた。
「川下りか……ま、楽しかったな」
「ええ、鈴子は姫野さんと一緒なら何でも楽しいわ」
「俺もだ……幸せって、こういうものなんだな」
姫野の呟きに小花は笑みを見せた。
夕陽が映える豊平川。ごつごつした石に腰掛けた二人の頬はふっと見つめ合った。
川面からの涼しい風。清い水の匂い。札幌の風物詩はこうして幕を閉じた。
完
最初のコメントを投稿しよう!