166 洞爺湖マラソン 2

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166 洞爺湖マラソン 2

「どうだ。そのシューズは」 「すっかり履き馴染んでいますよ。ええと今走ったコースはどの辺りかしら」 軽くコースを走った彼女は姫野の差し出した水を受け取ると、湖面を眺めながら飲んだ。 「ここは後半の始めってところだな。ん?」 この道を通り過ぎようとした軽トラックは、姫野を見て停まった。 「岳人じゃねえか。何してんの?」 洞爺湖酒屋と書かれた軽トラックから腕を出した主人に姫野は駆け寄った。 「明日ここでマラソンがあるだろう?彼女が出場するんだよ」 「彼女?お前の……あ、どうも」 「こんにちは。走らせていただいております」 「いえ?あはは?ご自由にどうぞ!おい、岳人」 「ん?なんだ」 二人は何やら話し始め、姫野は嫌がっていたが、向こうはそんな事いうなよ、と後で実家に迎えに行く、と云い、この場を去った。 「どうかなさったんですか?」 「……あいつは幼馴染みなんだ。くそ。飲み会に誘われてしまった」 「久しぶりなんですよね?以前来た時も、アイスクリームの人に誘われていたのに姫野さんは断っていましたもの。今回は行ってくださいませ。お友達は大切にして欲しいです」 「行きたくない!俺は鈴子と一緒にいたいんだ……」 そういって姫野は洞爺湖のフェンスに寄りかかった。 「鈴子は8時に寝ますもの。それ以降ならいいじゃないですか」 彼女は姫野の横に立ち、同じく湖を眺めた。 「……あのな。お前に聞きたい事があるんだ」 「何ですの?」 「今朝な。お前を迎えに行った時に、初めてここに連れて来た事を思い出したんだ。お前は麦わら帽子に白いシャツに、麻のスカートを履いていたよな」 「まあ?よく憶えておいでですね」 「何でも憶えているよ……お前の事は全部」 「姫野さん?」 どこか遠くを見ている彼に、小花はドキとした。 「最初に逢った時は風間を庇っていたから……てっきりアイツを狙っている女の子だと思ってな。お前にひどい事を言ったよな」 「フフフ。私もひどい事を言ったので、おあいこですわ」 二人は洞爺湖に浮かぶ中島へ向かう遊覧船を眺めていた。 「あのな。鈴子……どうして俺なんだ?」 「何が」 「お前は、男に誘われてデートに行くような女じゃないだろう。どうして俺の誘いに付いて来たんだ?」 「……あの。姫野さん?」 「聞かせて欲しいんだ。お前の気持ちを」 洞爺湖を背にした姫野の真剣な顔に、彼女はもう逃げられなかった。 「あの、その……後じゃダメ?」 「鈴子。お願いだ」 風間と仲良しの小花に刺激を受けた姫野は、結構本気だった。その時、軽ワゴン車がここに到着した。 「ヤッホー兄貴、すずちゃん?どう走った感想は」 「美雪さん?あのね。思ったよりも風が強いですね」 そう言って話し始めた妹と彼女に姫野は背を向けてまだ湖面を見ていた。 「先輩、どうしたんですか」 「いや?何でもない。そろそろ実家に戻ろうか」 元気の無い姫野が気になったが、彼らは実家に戻ってきた。 「私、シャワーを借りていいですか?」 「そう?これから温泉に行ってもいいよ。ねえ、兄貴?」 すると小花はうーんと考えた。 「私、長湯は苦手だし。明日はレースですので、今回はパスですわ」 そういって小花は姫野母の案内で浴室へ向かって行った。 「やば?!私、お肉屋さんにジンギスカンのお肉を買いに行く係りだったし」 「注文してあるんでしょう?じゃあ先輩。俺が車を出すよ。行こう、美雪ちゃん」 美雪と風間が慌ただしく家を飛び出して行った。その時、浴室から声が聞えて来た。 「すみませーん。お湯がでませーん」 母が対応しているはずなのにおかしいと思った姫野は脱衣所まで行ってみた。 そこに母はおらず、シーンとしていた。 「そこに誰かいますの?」 「俺だ。お湯が出ないのか?」 「水しか出ないの」 ボイラーのスイッチが入っていないのかと思った姫野はこれを確認したが、問題は無かった。 「おい。鈴子!その蛇口をひねったのか?」 「なんかよくわからない……」 そういって小花は浴室のドアをそっと開けた。 「お前?何て恰好で……」 タオルで前を隠しているが、裸の彼女は姫野にしがみ付いた。 「いいから寒いの!早くお湯にして」 「ええとな。こうだ」 彼女を背にした姫野が出したシャワーは、音を立て、やがてお湯になった。 「熱すぎない?」 「良いと思うが」 「出したままにして……」 そういって彼の背から出てきた彼女は肩にシャワーを浴びせ始めた。 「もう大丈夫よ、ありがとう姫野さん」 「あ?ああ……」 美しい彼女がタオルで隠しているとは言え、裸でシャワーを浴びているのを真近で見てしまった姫野は、あまりの衝撃にリビングのソファに倒れ込んだ。 ……何を考えているんだ?……まあ、あんまり深く考えていないんだろうけど。 「なした?岳人」 「母さん?どこにいたんだよ」 洗濯ものを片付けていたという母みどりは、息子に北海道のコーラ『ガラナップ』を出した。 「あのさ……母さんは近いうちにお嫁さんとして小花ちゃんを連れておいでってお前に言ったよね」 「ああ」 「でもマラソンだね、これって」 呆れた母に姫野も疲れた顔を見せた。 「……今回はあいつが勝手に決めたんだ。でも、話しは進めるから」 「そうかい。母さんはお前に任せるけどさ」 そして夕飯の打ち合わせをしていた時、また彼女からお呼びが掛かった。 「姫野さーん。また水になったー」 「ほれ、岳人。呼ばれているよ」 母に即された彼が浴室に向かうと、小花は戸を開けて入ってくれと言った。 「どうした」 「石鹸を流そうとしたら、水なの」 全身泡だらけの彼女は彼に背を向けて座っていた。長い髪はアップしており、泡がついている身体を彼は見ないようにシャワーを確認した。 「ここを押すからだ。ほら、お湯になったぞ」 「ねえ。もう出るからそこにいて。また水になるもの」 そういって彼女がすくと立ち上がったので、彼はあわてて背を向けて浴室を出た。 彼女が浴びている間、姫野は脱衣所で立って待っていたが、やがてシャワーが止まったので、彼女に部屋に行っていると告げて、リビングに戻ってきた。 ……嫁さんか。今回そういう話ができるといいのかな。 しかし小花はマラソンに夢中なので、今夜は止すと決めた彼は、リビングにやってきた彼女を隣に座らせた。 「大変だったな」 「でも、さっぱりしたわ」 真夏だが洞爺湖から流れてくる涼しい空気に包まれたこの家は、鈴子には肌寒く感じ、思わずくしゃみが出てきた。 「涼しいからな。ひとまず俺の服を着ろ」 「うん」 姫野が着ていたグレーのパーカーを着た彼女は、嬉しそうに長い袖から手を出した。 「ウフフフ。姫野さんの匂いがする」 「今まで着ていたからな。それよりも鈴子。早く髪を乾かせ、風邪引くぞ」 「はい!」 すると小花は立ち上がり、結んだ髪を解きながら洗面所を借りるといい、ドライヤーを掛けに行った。 「……まあまあ熱い事で。母さんも安心したべさ」 「何が?」 「すずちゃんはお前が本当に好きなんだなって想ってさ。ほっとしたよ。あ、美雪が帰って来た」 庭では父が炭に火を淹れ始めており、姫野も手伝おうと外にでた。 こうして肉をゲットしてきた美雪と風間と明日のマラソンの話をしながらバーベキューの用意をしていると、小花がカットした野菜を持って庭に出てきた。 「叔母様のお手伝いをしましたの、はい、姫野さん。上着を返します。寒いでしょう」 そういって小花は彼の背に着ていた上着をふわと掛けた。 「お前は?」 「上着を持って来たので大丈夫ですわ」 ウインドウブレイカ―を着た彼女は美雪とお喋りを始めた。 ……匂いがする。鈴子の匂いだ。 「先輩。どれから焼くんですか?」 「あ?ああ。そうだな……」 こんなドキドキ状態で始まった夕方のバーベキューは、手際の良い姫野父のおかげで、楽しく進んでいた。 「ええ?先輩って、この岸からあの中島まで泳いだ事あるんですか?」 「ああ。友達とな」 「楽しそうですね。いつか鈴子もやってみたい」 「すずちゃんって泳ぎも得意なの」 小花は小柄な美雪にうんと微笑んだ。 「美雪。鈴子は道具を使わないスポーツは得意なんだぞ」 「へえ」 「美雪さんは?何でもお出来になりそうですけど」 ……すずちゃんは眩しいな。 利発で元気いっぱいの彼女が、美雪には羨ましく見えた。 「そうだな。スキーかな」 「風間。美雪は俺に付いて来れるからな。結構上手いんだ」 姫野は美雪に風間のスキー上級者であると話しをしたので、二人は今までどんな険しいコースを滑ってきたか、自慢合戦を始めた。 「いいな。鈴子は、スキーはできませんもの」 「今年の冬は行ってみよう。歩くスキーならお前でも大丈夫だよ。森の中は楽しいぞ」 「そうですね……あのね。姫野さん、ちょっとお話しがあるの。こっちに来て」 そういって小花はめずらしく姫野の手を取り、湖面へと進んだ。 姫野一家はこれを見て見ぬふりをし、風間と美雪はスキーの話で盛り上がっていた。 「なんだ?」 「あのね。さっき、お話ししていた続きなの。姫野さんとここに来た理由ですの」 湖面をじっと見ながら彼女の手を握っている彼に小花は恥ずかしそうに話し出した。 「それはですね……確かに鈴子は、他の男性に御誘いを受ける事がありましたが、その……いつも断っておりました。だって殿方も良く存じませんし……鈴子は男性と、その、お付き合いした事ございませんので……怖かったんです。でも」 「でも?」 「姫野さんは……その……あの。やっぱり後じゃダメ?」 「ダメだ」 うううと恥ずかしそうな彼女は、必死で話を続けた。 「鈴子は、札幌の色んなビルや会社の掃除をしておりましたが、姫野さんは、その中で……一番一生懸命お仕事をなさっている殿方だと存じておりましたの」 「俺は信用が合った、というわけか」 思った内容とちょっと違うので姫野はちょっとがっかりしかけていた。 「それだけではありません。姫野さんは腹グロで意地悪でびっくりしましたけど。仲間思いだし、派遣会社の清掃員の鈴子を大切にしてくれたので。とても嬉しかったの……」 「お前は頑張っているからな」 「……実はね。姫野さんは夏の予定のない鈴子を可哀想に思って、誘って下さったんだと思ったの。だから、あの時の御誘いはきっと最初で最後だと思って……それで勇気を出して行こうと思ったの」 「鈴子……」 姫野は彼女の肩をそっと抱きしめた。 「あのね……姫野さんは鈴子の事を何にも知らないのに……いつも優しくしてくれるのはなぜなの?」 「好きだからに決まっているだろう!」 「どこが好きなの?鈴子はドジばっかりで、いつも姫野さんを困らせてばかりなのに」 彼女と夜の湖の波音を聞きなら彼は彼女の髪を優しく撫でた。 「……今は全部好きだ……お前は?」 「姫野さんの事は、好きっていう言葉では足りないの……ただ、ずっとおそばにいたいわ」 胸の中の彼女は無自覚で彼にプロポーズして来たので、彼は嬉しさで彼女をギュウと抱きしめた。 「……苦しいわ」 「ごめん?大丈夫か」 「フフフ。平気よ、ねえ。姫野さん……」 彼女は彼の腕から出て、湖面に向かって歩きだした。 「鈴子はね……姫野さんに言ってない事があって……それはあの」 彼に背を向けたまま話す声が笑い声から涙声に変わっていた。 「今はまだ言えないけど……あのね。冬になったら……お話し出来ると思うの。それまで……」 この涙声に耐えられず彼は彼女を抱きしめた。 「言わなくていい!何も言うな」 「ううう……ごめんなさい。でも本当よ。冬になったら、お話しするわ」 実の兄慎也が自分を捜していると知らない彼女は、清掃員として夏山愛生堂との契約が切れたら、姫野に自分が夏山の娘だと打明けようと思っていた。 「わかった!この話しはこれ切りだ。俺からは一切聞かないし、お前は時期が来たら勝手に話せ。な?それでいいだろう」 「はい」 「では今まで通りの俺達でいよう、な?」 「うん」 「鈴子……俺もな、お前とずっと一緒にいたいんだ」 二人はまた手を握りながら湖面に映る月を眺めていた。 「……兄貴。ラブラブの所ごめん。お迎えが来たよ」 地元の仲間の誘いに姫野は思わず星空を見上げた。 「まあ?そんな時間。鈴子はもう寝ます。さあ、姫野さんはお友達と行ってらっしゃいませ」 「くそ……」 呼びに来た美雪の後を、手を繋ぎながら歩いていた小花は姫野を見上げた。 「姫野さん。あんまり飲みすぎないでね。それと明日は、鈴子に期待してね!」 「ああ。いつだって期待しているよ。お休み」 彼女と後ろ髪引かれる思いで別れた姫野は、風間に詫びを入れ重ーい足取りで友人達の車に乗り込み出かけて行った。 バーベキューの片づけは母がやると言って聞かないので、小花は少しだけ手伝い、早めに就寝した。 そんな中、置いてきぼりの風間を、美雪が温泉ホテルへ連れ出した。 「美雪ちゃんって運転上手いんだね?本当に初心者なの?」 「その辺はあんまり突っ込まないで!さあ、着いた!」 業務用の駐車場に停めた美雪は慣れた様子で、裏口からホテルに入って行った。 「あ。美雪ちゃん、なしたの」 「御風呂に入りに来たんだよ。お金はあっちで払うから。風間さん、こっちに来て」 知り合いの仲居にそう言って美雪は従業員用の通路をずんずん進み、ホテル内の温泉大浴場へと彼を案内した。 そして一時間くらいで出てこようと約束をして二人は、各風呂へ入り、出てきた。 「風間さん。何か飲む?」 「ビール飲んでいい?」 「いいよ。美雪が運転するし。あ、生ビールもらうか。すみませーん!姫野です」 どこでも顔パスの美雪は、風呂上がりに座敷でくつろぐ風間に生ビールを持って来てくれた。 「ふう。美味しいな。お湯も気持ち良かったし」 「なんてったって、宇宙一だもん。あ、花火が始まった」 二人のいる座敷の窓の外の洞爺湖で大花火がスタートした。 「すっげ……あれって、花火が移動してんの?」 「そだよ。岸に向かってホテルがあるからさ。全部のホテルから見えるように、花火は船に乗せて移動させているんだ」 「これは確かに宇宙一だな……あ、あれ?もしかして」 花火に気を取られていた風間は、隣で花火に興奮している親子に気が付いた。 「ダディ!……あれ?風間さん」 「ミスター風間?ナイスミーチュウ!」 バーマン父子に逢った風間は、驚きで目をパチクリさせた。 「風間さんもここに泊まっているの?私は明日のマラソンに出るんだ」 「洋子ちゃんも?」 「も、って言う事は。もしかして小花さんが出場するの?へえ?」 話しが分からないミスターバーマンと、美雪はそれぞれのパートナーにどういうことだい?と聞いていた。 「そうか。これは強敵だね。あ、彼女は姫野先輩の妹の美雪ちゃんだよ。俺達は先輩の実家に泊まっているんだ」 「よろしく。美雪です」 「バーマン洋子です。それじゃ、小花さんによろしく」 そういって洋子は不敵な笑みを浮かべて父と部屋に行ってしまった。 「洋子ちゃんは運動神経抜群だよ?……どうしよう?これじゃ作戦変更かも?」 「あの子がどうしたのさ?風間さん!美雪に全部話してよ!」 「美雪ちゃん。あの洋子ちゃんは、たぶんものすごく早いと思うんだ。だから小花ちゃんのレースのライバルになるよ」 姫野は飲み会で不在であるし、今からの作戦変更をどうしようかと思った風間に、美雪は軽く肩をぶつけた。 「面白いじゃないの。いいわ。家に帰って美雪と風間さんでプランを練り直そうよ」 「?頼りになるな……先輩よりも」 冗談まじりの風間に、美雪は眉をひそめた。 「……今頃気が付いたの?フフフ。さ、そのビール飲んだら帰ろう!ぜーんぶ美雪に任せてよ?」 そんな彼女の話が終らないうちに風間はビールを一気飲みした。 そしてホテルの中の入り組んだ従業員用の通路を先行く彼女に必死に付いて行き、車まで到着した。 「シートベルトした?忘れ物はない?行くわよ」 「はい。お願いしまーす」 美雪の運転する車は洞爺湖沿いの道を進んで行った。 夜の湖は黒く、静に月を映していた。 空の星は光り、風は涼しく彼らを包んでいた。 この夏の洞爺湖は、若者達の熱い思いに溢れていた。 3へ続く
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