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1 心の汚れを綺麗にします
「ダメです!!」
夕刻。会社の屋上のフェンスの前でぼうとしていた風間諒の背後から女性が彼をギュウと抱きしめた。
バランスを崩しそうになった彼が振り向くと、南風の中で必死に自分を抱きしめる清掃員の作業着姿の女の子がいた。
「……何してんの?」
「極悪非道な世界ですが。おねがい、死なないで……」
「は?俺が?違うよ!あの、ちょっと離して。この方が危ないよ」
六月の西空に夕日が沈む中、札幌駅東方面にある五階建の白い雑巾がたなびく屋上で風間は彼女に抱きしめられたまま後ずさりした。
「そうか、もしかして飛び降りると思ったの?」
「はい!」
「確かに考え事をしていたけどさ」
「え?違うのですか」
冷静な彼の言葉にようやく手を緩めた彼女はほっと溜息を付き、胸を手で押さえた。
「良かった……。あの、ここではなんですので、下の階に行きましょう。私、お話しを伺いますから」
「え?いやそんな事」
「ほら。早く!」
否応なしに彼女に腕を取られた彼は、彼女が開けた重い鉄のドアに進み、下へ続く階段を彼女に手を引かれて降りた。
◇◇◇
「どこまで行くの?」
「ここですわ」
やがて五階の廊下に進んだ彼女は給湯室横の関係者以外立ち入り禁止のドアをよいしょと開けた。
「どうぞ、こちらへ」
「ここって入っていいの?立ち入り禁止ってあるのに」
「防犯対策ですわ。こうしておかないとここで仕事をサボる人がいるので」
「なるほどね」
風間がそっと入ると室内は小ぎれいな部屋になっていた。ドアのプレートのデンジャラスなイメージと違い畳の小上がりに小さなキッチンがある休憩室に彼は安心して進んだ。その奥の小上がり畳には清掃員の制服の女性が横になっていた。
「なんだい。この僕ちゃんは」
「どうもっす!」
もうすぐ還暦を迎える恰幅のよい吉田正子はまるでお釈迦様の涅槃像のように寝転んだまま眉間にしわを寄せ風間を見据えた。ここに彼女は声を掛けた。
「吉田さんお休みのところすみません。この方が何か思いつめて屋上に佇んでいたのでひとまずここにお連れしました。はい、どうぞ。ここへおかけ下さいませ」
「はい。そうします」
彼女に肩を掴まれた風間は古びたソファに座った。そんな彼を見るために吉田は面倒そうに体を動かした。
「……お前さんは確か、中央第一営業所の新人だろう?また石原部長に何か言われたのかい。あの男の話は本人だってわかってないからね……どっこいしょっと」
ものすごく嫌そうな顔をしながら身体を起こした吉田を、風間は頭をかきながら言葉を探した。
「それもありますけど、はあ」
「ではあなた様はいかなる理由で屋上にいらっしゃったのですか?……これ、どうぞ」
「ありがと、ふう……」
目の前の小さなテーブルに置かれた湯のみの湯気を見ながら風間はつぶやいた。
「つうかさ。俺って、そんなに落ち込んで見えました?」
「はい」
「自分ではそんなつもり無かったんだけどな……」
「そうですか」
向かいのソファに腰掛けた小花すずは、首を傾げて風間を見つめた。
「何かお心を痛めておいででしたら、赤の他人の私達に遠慮なくお話し下さいませ。話すだけでも気が楽になることもございますし。ね、吉田さん?」
「ほら、早く話しなよ。私はトイレに行きたいのだから!」
風間は自分を心配そうにみつめる小花を見て、ふうと溜息を付いた。
「俺、先日失恋したんですけど。まだそれを引きずっていて……。ぼんやりしながら仕事していたら受けた注文を間違えたんです」
「うっかりミスですか。よくあることですね」
小花はお茶をすっと飲んだが、吉田は立ち上がった。
「まあ、それはあんたがしっかりしないせいだけど。それでどうしたって?」
「はい……そのミスのお詫びに今夜の七時、相手先のクリニックに先輩と謝りに行くんですけど、手土産を買ってこいって部長に言われて。でもなんかもう何もかも嫌になって……辞表を書こうと思って屋上にいたんです」
「まあ。それはお辛いですわね」
「そうかい?大したことじゃないと思うけどね」
小花と吉田の言葉に風間は首を横に振った。
「他の人は平気でも、俺にはもう限界なんですよ……ああ」
脱力し眼をつぶってソファに背持たれた風間に小花はそっと声を掛けた。
「では……死ぬおつもりは無いのですね?」
すると風間はさっと右手で制した。
「大丈夫!それは心配しないでいいから。なんたって俺は仕事なんかで死ぬ男じゃないから」
「ほらごらん!l小花ちゃんは心配しすぎだよ」
「でも吉田さん。この方は屋上にいた時はもう今にも空に飛びそうで」
「飛べるなら止めなくても良いじゃないか」
「フフフ」
笑顔の彼はソファに背持たれて足を組んで小花にウィンクをした。こんな余裕の風間を見た吉田は、靴を穿きながら呆れて風間に言った。
「お前さんはカッコつけて話しをしている場合じゃないだろう!とにかく相手に謝りに行かないとあの石原はねちねちうるさいよ?あんた一生この事言われるよ」
「そんな事は分かってますよ!でももう、どうでもいいかなって……」
「ほら吉田さん。やっぱり失恋の傷が癒えていないのですわ」
風間を心から案じた彼女は、心配顔で彼を見た。
「どうしよう……お気持ちは察しますが私には全く関係ないし……あ?そうだ!私。手土産を買ってきます!」
「へ?」
「小花ちゃん、こんな男はほおっておきなよ」
「いいえ。不安を抱いていては仕事も謝罪もできませんもの」
「え?本気で買ってきてくれるの」
「はい!」
嬉しそうに手を叩き立ち上がった小花を、風間は驚顔で見上げた。
「ね。そしてきちんと謝罪をしてから辞表を叩き付ければ良いじゃないですか!吉田さん、私、ちょっと行ってきます!」
「あの、そこまでしなくても」
「はいはい。行ってらっしゃい……はあ」
風間の返事も聞かずお財布片手に部屋を飛び出した小花が去った部屋はシーンとなった。ここで吉田は風間に向かった。
「……あんた名前は」
「風間です」
「風間君。うちの小花ちゃんは言い出したら聞かないからさ。手土産だけ受け取ってやってよ」
「そう、ですね」
風間は腕時計を見た。今は夕方の5時半だった。吉田は掃除道具を手にした。
「あの部長にはさ、車の中で頭を冷やしていましたって言い訳して部署に戻ってなよ。あんたはどうせ会社を辞めるのだから、少しくらい嫌みを言われても平気だろう?」
「はい。全然平気っす!」
どうせ辞めるんだし?と気が大きくなった風間は爽やか笑顔で親指をビシと立てたので、これを見た吉田婆は冷ややかにつぶやいた。
「大した太い神経だこと……じゃ。手土産は届けるから。待っていてよ」
「ういっす!」
「はいはい。私も掃除に行くからね」
そして吉田婆に背を押されて一緒に部屋を出た風間は、一階にある自分の職場の中央第一営業所へ向かった。
「戻りましたー!ふう……」
風間は何事もなかったように自分のデスクにすっと座った。それを見た彼は声を掛けた。
「……風間。お前、今までどこに行っていたんだ」
パソコンを前に仕事をしていた先輩上司の姫野岳人は何気なく風間に声をかけた。
「はい?ああ、ちょっと頭を冷やしていました」
「そうか……」
説教をした後、黙って部署を飛び出してしまった部下を心配していた姫野は、彼が笑顔で戻ってきた事が理解できずその怒りと戸惑いを必死に隠して声を出した。
「それに。お前、手土産はどうした?」
「ああ……今、届きますよ」
「届くって。お前、買いに行ったんじゃなかったのか」
「まあ、そこはまあ、そういうことで」
……だめだ。俺には理解できない。
反省の色どころか、先ほど怒られていた形跡が一切無い風間に、姫野は怒りを通り越して自分の方がおかしくなったのではないのかと頭を抱えた。そんな彼らに女子事務員が声を掛けた。
「お話し中すみません姫野係長。ライラック病院からお電話です。内線二番です」
「分かった!風間、話しは後だからな」
「うっす!さて、仕事、仕事……」
事務員の電話に救われた風間は、姫野の電話の会話に揺れながらそっとパソコンを覗いた。
するとその時、中央第一営業所のドアから鈴が転がるような可愛い声が響いてきた。
「失礼します。清掃係りです」
モップを携えた小花は会釈し営業所の清掃を始めた。長い髪を一つに結び頭には清掃員用のブルーの帽子を被った彼女は、目深にしたままモップで床のゴミを集めながら屑かごのゴミを手早く回収し始めた。
そして、風間の隣にやってきた彼女は、誰にも見られないようにそっと彼に紙袋を手渡した。
……風間さん、はい。これ……
……ありがとう……
先ほど知り合ったばかりの二人はアイコンタクト一発で仕事を決めた。
こうして受け取った風間にウィンクを決めた小花は、いつものように清掃をし中央第一営業所を出て行った。この間に電話をしていた姫野はやっと電話を切った。
「……おい。風間、そろそろ行くが手土産はどうするのだ?」
「ここに」
「え」
電話を終えた姫野は、鼻の下にペンを挟んでいる風間の手元に驚いた。
「いつの間に?」
「まあ、俺が本気を出せばこんなもんですよ」
「出せるんだな、お前……」
得意気に紙袋を頭の高さに掲げた風間に呆れた姫野は、椅子に掛けてあった上着を取った。そして車のキーを持つと風間を連れて、得意先へと向かった。
◇◇◇
「大変申し訳ございませんでした!」
「いやいや。姫野君。そんなに気にするなよ」
「ですが、ご迷惑を掛けてしまって……おい、風間も謝れ」
「はい。申し訳ありませんでした」
到着した塩川クリニックの院長室で頭を下げる姫野に倣い風間も頭を下げた。
「本当にすみませんでした。これはほんの気持ちですが、おい、風間、例の」
「はい。あのこれなのですが、ええと、あ?奥様」
「私?ええ、はいはい」
姫野に横腹を突かれた風間は、話を一緒に聞いていた看護師をしている院長夫人に菓子折りの紙袋を渡した。
「奥様。俺のせいですみませんでした!これ受け取って下さい」
「まあ?風間君。こんなに気を遣わなくても良いのに……」
「いいえ。気持ちですので!俺の気持ちを受け取ってください」
「どうしよう、困っちゃうわ」
良いのに、良いのにと言いながらも手を出し受け取った夫人は、高校時代にミスター札幌に選ばれた事のある風間の爽やかな顔に赤面した。声が近かったせいもあり、顔を赤面させて受付の奥へ引っ込んだ奥方に院長も笑っていた。
「ハハハ。しかし。マスクの1万個って凄い数だね……トラックが来た時は私も一体何が起きたのかと思ったよ」
「すみません!近所の人も驚かせてしまったようで」
「ふふふ」
「風間!お前の仕業なんだぞ」
「まあ、まあ。姫野君。面白かったからもういいよ」
百枚入りのマスク箱1つという注文を、1万個としてしまった風間のミスを勇み足だと笑い飛ばしてくれた院長に姫野は再度頭を下げた。
すぐに返品した姫野は、注文通り一つだけを置き病院を後にした。その帰り道、姫野は怒りを抑えて風間に尋ねた。
「風間。ここはまあ良いとして。うちの倉庫にはお前が取りよせたマスクが9,999個在庫になっているから……それをどうするか問題だぞ?」
「おっと?そうでしたね」
コイン駐車場まで歩く宵の狸小路商店街はススキノへと歩く社会人達が足早に過ぎていた。ここを共に歩く姫野の足取りは重かった。
「はあ、どうしたものか」
「姫野先輩。俺、責任取って辞めますから。そんなに落ち込まないで下さいよ?」
笑顔で決める後輩に姫野は肩を落とした。
「……あのな。辞めるとか簡単に言うな!俺はお前の親父さんから一年は続けさせてくれと頼まれているんだぞ?お前はまだ入社して三カ月なのに」
「いや。俺にしては持った方なので、自分を褒めてやりたいですよ」
「しかし」
怒りを押し殺して眼鏡をすっと押しあげた姫野に、風間は笑みを見せた。
「アハハハ。大丈夫ですよ。親父の事なんてほおっておいて」
「何をバカな事を……」
歩きながら姫野は狸小路のアーケードを仰いだ。隣に歩く後輩は爽やかだった。
「でも俺、今日謝ってホッとしました。入社して姫野先輩には迷惑しか掛けて無いですけど。やっぱり明日辞表を書いてきます。俺には営業は無理ですよ」
「風間……」
立ち止った姫野は後輩の勇ましい背を見つめた。そんな彼を風間は励ました。
「ほら先輩。そんな顔しないで下さいよ?いいじゃないですか問題児がいなくなるんですから。大丈夫ですよ!これでも勘当されるのは慣れているんで」
「はあ……」
笑顔の風間が姫野には頭が痛かった。
◇◇◇
翌朝。出社した風間は五階の立ち入り禁止の部屋をノックし、そっと開けた。
「……おはようございます。小花ちゃん?うわ!」
「こっちがびっくりだよ。昨日の僕ちゃんか」
そこには掃除用具を満載したワゴンで出動しようとしていた吉田婆がいた。
「あの。小花ちゃんは?」
「今の時間は……四階かな。会議室に行ってごらんよ」
「ありがとうございます!」
まるで犬のように素早く階段を下り四階に行った風間は、廊下で掃除機を掛けている青い作業着の彼女を見つけた。
「小花ちゃん。昨日はありがとう!」
「ん。聞えない、あ?昨日の」
高音をうならせていた掃除機を止めた小花は、彼を見上げた。
「おはようございます!まあ、顔色がよろしいですね。良かった……」
「ありがと」
帽子のツバを上げて彼を見上げた小花の優しい笑顔に、風間は眼を細めた。
「おかげさまで夕べは良く眠れたんだ。これも君のおかげだよ」
「それは何よりです。それで辞表は今日お出しになるのですか?」
「うん。善は急げと言うからね。それよりも……どら焼き代を。はい、これ!」
笑顔の風間は封筒に入れたお金を小花の手に渡した。
「確かに受け取りました。ところで風間さん。よろしかったらお昼を一緒に食べませんか?ささやかですが、送別会をさせてください。食事はこちらでご用意しますので」
「え?さすがの俺も。そこまで甘えるわけにはいかないよ」
「……そうですか。では時間があればお茶だけでも飲みに来て下さい。待っていますね」
そういって小花は掃除機を持ち会議室へ行ってしまった。
こうしてすっかり気が晴れた風間は、狸小路商店街の曲を口ずさみながら辞める気満々の中央第一営業所へ向かった。
「おはようございます!姫野先輩」
「おはよう」
今までで一番元気な挨拶の彼の一声に、デスクにいた姫野は立ち上がった。
「おい。風間、昨日の件だが」
「はい。ちゃんと用意してきましたよ」
姫野の冷酷顔に風間はぱっと花が咲いたような笑顔で封筒を取り出した。
「……実は自分で云うのもなんですが、俺にしては巧く書けましたんです。これネットで見本を見たんですが、やっぱりオリジナルがいいかなって。はい、辞表です!」
「……」
どうぞ!と嬉しそうに風間が差し出した封筒を、姫野はそのまま自分の机の上にポンと置いた。
「あのな」
「はい?」
机上に置いた封筒に眼もくれず、姫野は風間に詰め寄った。
「……今はそれどころじゃない!お前、あのどら焼きをどうやって手に入れたんだ?」
「は?」
「これを見ろ!」
姫野は風間の肩を強引に抱き、机上のパソコンの画面を見せた。
「お前が買ってきたどら焼きは白餡じゃないか?あの店ではそんなものは売ってないぞ」
「ええ?どこで買ってきたんでしょうかね」
「はああ?」
驚く姫野に風間は不思議そうに首を傾げていた。
一話 完
<初公開日 2018・8・12>
<再公開日 2023・5・22>
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