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32 乙女の矜持
「え?この数字って」
思わず彼女は、体重計から降りた。
「髪が濡れているせいね」
そう自分に言い聞かせた彼女はこの夜、風呂上がりのアイスを食べずに水をたくさん飲んで寝た。
翌朝。毎朝二枚食べている人気パン屋『どんぐり』の食パンを一枚にし、大好きなマーガリンも最少限に抑えた彼女は、マイブームだったハスカップのジャムを冷蔵庫から出すことなく、庭から取って来たミニトマトと供に、そのまま食した。そして牛乳を飲んだ彼女はいつもより早めに家をでた。
自宅から歩いて乗る市電は中島公園通りの停車駅だが、今朝はひと駅先へと歩いて乗った。
いつもは座るところだか、今朝は吊革につかまり外の景色を眺めながら乗った。
三つ先のすすきの停車駅で降りた彼女は、人波とともに地下鉄南北線にて札幌駅へと向かった。札幌駅からはひたすら地下歩道を歩いた。今朝の彼女は腕を振ってストライドが大きかった。
やがて地上へ階段で上り、彼女は勤務先である夏山愛生堂をめざした。
「おはようございます」
すると宿直の男子社員が声をそろえておはようの挨拶を返してきた。
小花が登社する朝六時台に夏山ビル内にいるのは夜勤で会社に宿泊した札幌市内の営業マンの男性社員達だ。
彼らは小花の来る時刻には、スーツに着替えており、朝の七時に始まる医薬品の通常受注と当時に、自らの営業所や、そのまま帰宅するのだった。
そんな彼らに挨拶を済ませた彼女は五階までの階段を上ると、清掃員の控室である立ち入り禁止と書かれたドアを開けた。同僚の吉田がまだ来ておらず、彼女は着替えを済ませ身支度を整えた。青い清掃員のズボンとシャツ。長い髪を後ろで一つにまとめ、帽子を目深にかぶった。今日も暑くなりそうなので首に白いタオルを掛け、鏡の前で準備万端に整えた。
「よし。行きますわ!」
鏡に向かってそうほほ笑むと、彼女は掃除用具が満載しているワゴンを押して、出動した。
「おはよう。小花」
「おはようございます。姫野さん」
中央第一営業所には今朝も早く姫野が出社していた。パソコンに向かっている彼を気にせず、彼女は床をモップ掛けを始めた。仕事人間姫野も彼女の清掃活動を気にせず黙々と業務をこなしていた。
「……そうだ。今日、丸井今井デパートの方に行くが、『とうまん』買ってくるか?」
デパ地下名物の一つの銘菓の名を聞いた小花は、手を止めずに返事をした。
「要りませんわ」
「どうした?ダイエットか」
驚きで顔をあげた姫野だったが、彼女は作業を休めず、ゴミを集めた。
「……とにかく。このままではダメなんです。せっかくの御好意ですが、遠慮しますわ」
「やめておけ。お前はそんなに太ってないぞ」
夏山トップの営業マンの彼は瞬時に彼女の心を見抜いたが、彼女はこれを拒絶した。
「姫野さんがご存じないのも無理ありませんが、今の私は本当の私ではありません。少し体を鍛えて、本当の自分を取り戻しますので、では!」
そういって彼女は、営業所を出て行った。その後、彼がやって来た。
「おはようございますって。どうしたんですか先輩。小花ちゃんすごい勢いでしたよ」
「………」
多忙な彼が心配している中、小花のダイエットは順調に進んでいた。
◇◇◇
「で、お弁当はそれかい」
「はい」
開始して数日経った昼休み。小花の広げた弁当を見て、吉田は呆れていた。
「トマトジュースにサラダに豆腐。ヨーグルト。そしてフルーツかい」
「そうですわ。過去に『食べないダイエット』をして体調を崩した事がありますので、今はちゃんと食べるようにしています」
そういって彼女はサラダの上の豆腐に何かをぱらりと掛けた。
「それはなんだい?」
「ご飯にかける『ゆかり』ですわ。これを発見してから私は強くなりました」
「美味しいのかい?」
「味覚は人それぞれですよ。それにこの際、美味しいかどうかは問題ではありません。今は食べられればそれで良しとしています」
もそもそ食べる小花を吉田は呆れて見ていた。
「凝り性と言うか……ストイックっていうんだろうね。あんたみたいな人は」
そういって吉田は大きなお握りを取りだした。
「でも。そんなに太っているようには見えないけどね」
「見た目よりも中身の問題ですわ。服のサイズはそんなに変わらないのに、いつの間にか最高記録になっていたんです」
「清掃の仕事で筋肉が付いて重くなったとか」
「私もそう思いましたが、体重計には身長と年齢を入力すると、体脂肪率が出るんです。それによるとやはり、今の私は爆弾を抱えているような状態なんですよ」
それでもスレンダーな小花に吉田はため息をついた。
「私から見るとモデル体型だけどね。まあ、あんたみたいな年頃の女の子は、スタイルが気になるんだね」
「ごちそうさまでした!私、まだ昼休みなので、会社の周りをウォーキングしてきます!」
そしてお弁当を片付け、ジャージに着替えた彼女は部屋を飛び出した。
そんな彼女に、吉田はやれやれと肩を落とした。
やがて戻ってきた小花は全身汗の下着を取り換えた。会社の周囲の約三キロを歩いた彼女は元の作業着に着替え、午後の清掃の仕事をした。
そして仕事の合間、プロテインの入った清涼飲料水を飲み、五階建のビルの清掃をエレベーターを使わずこなした。
◇◇◇
夕刻。中央第一の営業所に彼女が清掃にやってきた。
「清掃です。お疲れ様です」
「小花ちゃん。これ良かったら飲むかい?」
風間のデスクの上にはダイエット商品が並んでいた。小花は惹かれる様にこれを手に取った。
「……この痩せるお茶は、お腹を壊すので要りませんわ。このゼリーも意外とカロリーが高いですね。今私の飲んでいるダイエットゼリーは19キロカロリーですもの」
「すいぶん研究しているんだね」
「はい。このプロテインはいただきます。ダンベルスクワットの後に、飲みますね」
「ところで。君のそのリュックはなんだ?」
彼女が背負っているリュックを見て、姫野が眉をひそめた。
「これですか?砂ですよ」
「もしかして、負荷を掛けているのか」
「はい!」
必死の小花に松田が尋ねた。
「小花ちゃん。つかぬ事をきくけれど、あと何キロやせたいの?」
松田女史の問いに、彼女はうーんと考え込んだ。
「実は体重はもう元に戻ったのですが、今度は体脂肪が気になって。今は筋肉を付けて脂肪を落とそうかと」
「アスリートだろう、それじゃ……」
楽しそうに砂入りのリュックを背負いながら仕事をしている彼女を見て、姫野は頭を抱えた。
この夜の帰り道。姫野は彼女のダイエットを自分のせいではないかと責めていた。
……俺は、彼女の喜ぶ顔を見たくてお菓子やソフトクリームをプレゼントしたわけであって、砂入りのリュックを背負い、会社を徒歩で通勤する姿が見たかったわけでない……
どんな時も楽しそうにしている彼女だが、真面目なのでやりすぎる傾向がある。
今夜も彼女は自宅でストレッチに汗を流し、ダンベルで体操をしているかと思うと、ビールも飲めない姫野だった。
しかし翌朝。姫野は行動に出た。
「小花。今日の仕事が終わったら、ここに来てくれないか」
「何かお手伝いですか」
「まあ、そんな所だ」
夕刻、小花は姫野の言う通りにやってき彼女は、仕事を終え帰る身支度をしていた。
「ジャージ姿か。好都合だ。荷物は降ろしてくれ。まずは風間、こっちに来てくれ」
「なんですか、先輩って。うわ?」
姫野はいきなり風間をお姫様抱っこし、降ろした。
「びっくりした……俺、抱き上げられたのは初めてですよ?」
「今度は小花だ。こい!」
「ええ?」
姫野は軽々と彼女を抱き上げると、そっと床に下ろした。
「風間の体重は六十キロ。小花のは伏せておくが。俺には体重が分かるんだ……」
「係長って。お姫様抱っこで体重が分かるのですか?」
うんと姫野は松田女史に頷いた。
「俺はこの名字のせいで、子供の頃から皆にせがまれてお姫様抱っこをしてきました。だから、五十キロから六十キロ代の重さは、一キロ単位で分かるんですよ」
「恐ろしい……」
なぜか震える石原を他所に姫野は小花に向かった。
「言っておくが小花はその背で軽い方だぞ?お前よりも重い女性はたくさんいるんだ」
しかし小花は首を横に振った。
「他の人は関係ありません。これは私自身の問題ですもの」
「そう言うと思って。俺は一晩考えたんだが……お前、身長は何センチだ?」
「160センチですわ」
「最後に測ったのはいつだ」
「女子校時代です……まさか?」
この言葉に営業所はシーンとなった。
「そうだ。そのまさかだ。風間、身長を測ってやれ!」
「はい、こっちに来て」
風間は彼女に壁ドンをしながら、頭の部分に壁に印をつけた。
「メジャーで測ってみるか?……ほら見ろ。164センチあるぞ」
「うそ?」
「小花ちゃんって。まだ背が伸びていたの?若いわね」
松田の声に小花もようやく理解した。
「そうか。だから私、サイズは変わらなかったんですね」
「……これは祝いだな」
石原はすっと立ち上がった。
「お姉ちゃんのダイエット終了記念だ。な?姫野」
「そうですね。よし!乾杯しよう」
「待ってね」
松田は急いで冷蔵庫から、カチンカチンと瓶をぶつけながら栄養ドリンクを出してきた。
「いいか?みんな持ったか?行くぞ!『夏山愛生堂には?』」
「「「愛があるー!」」」
高らかにドリンクを掲げた後、みんな小ビンを口にし、急いで拍手をした。
「……皆さん。ありがとうございます。私ごときのために」
頭を下げる小花に石原はうなづいた。
「いいや。姉ちゃんだけのためじゃないんだ。お姉ちゃんがしっかりしないと、姫野も風間もエンジンかからんのでな」
「部長」
「部長……俺達の事をそこまで」
姫野と風間の顔に石原はニヤリと自分の部下を見渡した。
「何を言っているんだ?俺はここの部長だぞ?これでもプライド張っているんだぜ?」
「ねえ。先輩。今度は石原部長を抱っこしてくださいよ」
「よせやい」
「大丈夫ですよ、しませんので」
「うふふ」
「さて。帰りましょうか」
札幌駅東口の卸センターには夕日が射していた。オレンジ色の町には暑い夏の匂いがしていた。
「乙女の矜持」完
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