33 熱いのは平気

1/1
6108人が本棚に入れています
本棚に追加
/183ページ

33 熱いのは平気

冷涼のはずの北の街札幌に、台風が近づき暑い日をもたらしていた。 「熱い……エアコンが利いてないぞ」  さすがの姫野もシャツの胸を開け、団扇であおぎ出した。 「先輩。明日俺、家から扇風機持ってきます」  風間もズボンを捲りあげ、うちわで扇いでいた。 「失礼します。清掃です」  そこに元気良く小花がやってきた。彼女は清楚な微笑みを称えながら、ゴミを集めていた。暑さを感じていないような彼女の雰囲気に姫野は眉をひそめた。 「君は暑くないのか」 「暑いですよ?でも、辛くは無いです」 ケロリと話す小花を風間は暑そうに見つめた。 「そうか。小花ちゃんはこっちに来るまでは、横浜だったもんな」 「はい。だからこれくらいは、正直何とも無いですわ」 「あーあ。俺達は寒いのは平気なんだけど。あー!早く冬になんないかな?」 「秋はどうした、秋は?」 石原の突っ込みに風間はタオルで汗を拭いた。 「いいんですよ。早く冬になったらスキーもできるし」 「風間さんはスキーがお出来なるのですか?」 「小花ちゃんは知らないんだね。札幌では学校でスキー授業があるから大抵の人はスキーができるんだよ」 「小花。風間はスキーのインストラクターの資格を持っている上級者だ」 姫野の補足に小花は驚きの顔で石原を見た。 「まあ。では石原部長も滑れるのですか?」 「ハハハ。藻岩山のウサギ平だって滑れるぞ」 「まあ、あそこなら余裕でしょう」 札幌市内のスキー場のゲレンデの話をする彼らを見た小花は思わず雑巾で拭く手を止めた。 「姫野さんもお出来になるのでしょうね」 「そうだよ。だって先輩は、滑降で国体に出たんですものね」 「まあ。出ただけだし」 恥ずかしそうに咳払いをした姫野に小花は悲しくうつむいた。 「そうですか。私は雪の上を歩くのも下手ですわ」 「まあ。そうだろうな」 「私!姫野さんの事、嫌いになりました!」 「ハハハ。姫野が嫌われた!」 「部長、財務部から呼び出しです。風間君はメールが来ていますし。姫野係長は書類にサインをしてください」 松田の声でスタートした中央第一はこんなやりとりをした午後、姫野はまた企画をやるハメになった。 ◇◇◇ 「札幌オリンピック招致のための、マラソン大会ですか?」 全く医薬品卸と関係ない仕事に姫野は怒りを通り越してまるで他人事のように聞いてしまった。 「ああ。その時に、清涼飲料水とか、熱中症予防のPRをわが社も手伝うことになったんだ」 「まあ、うちは招致のスポンサーになっていますしね」 こうして怒りを抑えた姫野は土曜日に行われるミニマラソン時に、試供品を配ることを提案した。 この担当は中央第一と第二の社員で行う事になったが、大通り公園でお祭りのように開催するので、姫野は小花に手伝いついでに遊びに来いと誘った。 その当日。彼女自身もソフトクリーム目当てに、夏山愛生堂のテントに顔を出した。 「お疲れさまでございますわ。松田さん、暑いでしょう」 「ええ、でも足元に氷をおいてあるの」 「SDGzですわ。電気を使っていませんものね」 「それよりも小花ちゃん。その恰好はどうしたの」 筋トレのために自宅からジャージで歩いてきた小花は風間に微笑んだ。 「運動ですわ。だってアイスを食べますので」 「まだダイエットをしているのか。どれ、ちょっと」 「姫野君、ここでお姫様抱っこはだめよ!あ」 松田が止めた時、ここに実行委員会のTシャツの男性が顔を出した。 「お取り込み中、すみません。ミニマラソンに出場する女子が全然足りなくて。もし良かったら、歩きでいいので参加していただけないでしょうか?」 「私ですか?」 実行委員会の関係者に声を掛けられた小花に姫野は腕で制した。 「止めておけ。この暑さで疲れて伸びるだけだ」 「でも先輩、小花ちゃんはここまで歩いてきたし」 「風間君の言う通りよ。それに暑いのは結構強いって本人が」 「だめです。それでも」 小花が心配のあまり過剰に反対する姫野に、小花は目を細めた。 「……やりますわ。私」 「なに?」 「歩くだけですもの、参加します」 姫野の態度にカチンときた彼女は、こうして参加する事になった。この決断に姫野は最後まで反対したが、風間は自身の車から青いTシャツを持って来た。 「ね!良かったらこれ着て走って」 「宣伝ですか。着るだけですものね」 背や肩に『ススキノ風間薬局』と書いてあるTシャツはサイズも合うので小花は受け取った。 「ねえ。暑いから帽子が無いとだめよ、これはどう」 「夏山愛生堂ですけれど、いいのですか私が被って」 松田が貸してくれた夏山愛生堂の黄色いキャプを手にした小花に、姫野は苦しそうにこれを被らせた。 「炎天下だ。それに君はうちの清掃をしているから今日くらいはいいだろう」 「はい」 ……夏山愛生堂の帽子か。ふふふ 「どうした」 心配そうな姫野に小花は微笑んだ。 「何でもないです。ちょっと着替えてきますね」 そして松田に見張りを頼んで着替えをした小花は、そっと彼女に頼んだ。 「あの、松田さん、私……」 「……そう。わかったわ。とにかく無理しないでね」 ……さあ。道路を走れるなんて嬉しいわ。 そしてお気に入りの百円ショップのサングラスをしっかりと掛けた彼女はこのままスタートラインに着いた。 ◇◇◇ 『いよいよ札幌大通りミニマラソンがスタートとなります。まずはコースを御紹介します。ここ、大通り公園テレビ塔をスタートし、ランナーは石狩街道を北へ進み、札幌駅を目指します。そして駅前を通り、旧道庁赤レンガに向かいます。そこから南へ進み、大通り公園に戻りゴールはここになります、さあ。いよいよスタートです。緊張の中、パンと言う音で、ランナーは一斉に飛び出しました!!』 夏山愛生堂のテントの中では、石原の私物のラジオが、競馬中継ではなく、ミニマラソンの中継を流していた。 マラソンを気にしていた姫野と風間はサンプルを配布するのに忙しくしていたが、やがて、松田の声に振りかえった。 「二人とも!大変よ!小花ちゃんが!」 「何?部長すみませんが、これを配って下さい」 「俺の分も!よろしく」 「うええ?」  石原に押し付けて慌ててテント内に戻ってきた姫野と風間はラジオに耳を澄ませた。 『……つづきまして女子のトップですが、先頭は北海道女子体育大学の生徒の松野さんですね。その彼女の後ろにいるのは……飛び入り参加の市民ランナーでしょうか。名簿がありませんので名前が不明ですが、帽子は夏山愛生堂、Tシャツにはススキノ風間薬局とありますね』 「小花だ……歩くって言ったのに」 なぜか頭を抱える姫野に対し風間は興奮でスマホを手にした。 「マジで小花ちゃんじゃないかよ?親父に言わなくちゃ!」 「おい、風間。これはあれか、うちの天使の小花嬢の事か、風間!」  姫野と風間とテントにいた渡は、二人よりも興奮しながらラジオに耳を寄せた。 『名前が不明ですので。このまま夏山愛生堂でご紹介になります。本日の解説は増田さんです、増田さん、この二人の走りはいかがでしょうか』 『宜しくお願いします。そうですね。先頭集団は今の所5名ですが、松野さんはまだ余裕のある走りですね。ですが背後の夏山愛生堂は、松野さんを風よけに使っているようにみえますね』 『風避けですか』 『そうですね。これは体力の温存になりそうです。先頭は松野さんですが、レースを操っているのは夏山愛生堂かもしれないですよ』 この解説に姫野は頭を抱えたままでいたが、おそろいのポロシャツで決めていた渡は部下を結集させた。 「おい!中央第二の諸君!ただちに集合せよ!これより我らの小花嬢を応援のために赤レンガへ向かう。サンプルは移動しながらついでに配れ!俺についてこい」 おう!という勇ましい掛け声で彼らは行ってしまった。姫野はこれに動揺した。 「ど、どうしたら。松田さん!俺はどうしたら?」 「姫野係長も慌てることが有るんですね」 「そんなことはどうでもいいです!先輩!うちの親父が先回りして京王プラザのホテルの前で応援するって」 「俺も行く!」 「お待ち」 風間にすがる姫野を松田はまったと服の背中をむんずと掴んだ。 「二人はここで待機です」 「そんな?」 「応援したいのに」 「だめです!ゴールで待っていて欲しいという伝言なのよ。いいからここで待っていなさい」  松田の言葉に二人は、うんと頷いた。ラジオは無情に解説が続いていた。 『……変わって女子の部ですが、給水ポイントで先頭の松野は水を取れましたが、夏山愛生堂は取りませんでしたね。増田さん。これは何か作戦なのでしょうか?』 『もしかしたら、夏山愛生堂はこういう給水をしたことがないのかもしれませんね。今日は30度を超える暑さですので、この給水は大事ですよ』 このラジオを聞いていた姫野は、動悸が止まらなかった。 「たぶん、走りながら水を取るなんて、やったことないんだ、あいつ」 「あ、先輩。スマホに映りましたよ」  そこでは、先頭に必死で食い付く、激走の小花が映っていた。 「小花……」 「でも水が飲めないってきついみたいですよね。小花ちゃんだんだんペースが落ちて集団から遅れて来たって。あれ。この人」 二人はスマホを見ながら、ラジオの中継を聞いた。 『ああっと?ここで。近くを走っていた同じ夏山愛生堂の帽子の男性ランナーが、走ったまま女子の夏山愛生堂に水を手渡しました。この男性ランナーは名簿で……手塚彰浩とあります』 「先輩!?この男の人は、夏山の子会社の人ですよ!小花ちゃんの知り合いです」 「小花……」 『男性から水を受け取った夏山愛生堂。飲んでからそれを頭にかけました。そして、何か話を聞いていから追走を開始しました!ここ京王プラザホテルの前には、夏山愛生堂を応援するご夫婦が見えており、ランナーも、今!手を振り通過しました』 「すっげ?うちの親、間に合ったんだ」 「小花……」  スマホを握り締めながら、姫野はつぶやくばかりだった。ここで松田が腰に手を当てて叱った。 「二人とも。いいですか?小花ちゃんは心配しないでゴールで待っていてって言っていたんですから。ここにいて下さいよ」 ……小花、ああ、どうしたらよいのだ。 姫野の心配を知らずレースは続いていた。 『男子のレースに気を取られていましたら、女子にも動きがありました。夏山愛生堂がいつの間にか先頭集団に追いつきました。増田さん。これは、先ほどの給水の効果ですか?』 『それもありますが。気温がだいぶ上がって来て松野さんのペースも落ちている気がします。ずっと先頭を走って来ましたからね』 『ああ?と、ここで!松野がスパートを掛け集団を抜け出しました。が、夏山愛生堂がこれを追う!』 『二人の一騎打ちですね』 「小花……」 「がんばれ!小花ちゃん」 『逃げる松野を、夏山愛生堂が追う!ああ?ここ赤レンガの前では夏山愛生堂の大応援団が、ものすごい声援を送っています』 『これはランナーにとって大きな励みですよ』 「がんばれ!小花ちゃん……あれ?先輩?」 「もう!ゴールで待ってって言ったのに」  いつの間にか消えた姫野を他所に、二人はスマホにかじり付きながらラジオに耳を傾けた。 『赤レンガを過ぎ、いよいよ左に曲がって、このテレビ塔の下がゴールになります』 「諒!どうだ?」 「小花ちゃんはまだ2位……」 ゴール地点に戻ってきた風間夫婦も一緒に小花の力走を見ていた。 『両名は完全に三位以下を振り切りました。そして、松野が左に曲がる、おおと!ここで夏山愛生堂はインコースをすすす、と走り抜け、トップに踊り出たー?』 「うおーーー」 「来たーー!行け^」  うるさい風間父子に松田は耳を塞いだ。 『まだまだです。背後の松野さんも諦めてないですよ』  その時、風間のスマホには、小花に追走しながら叫ぶ、姫野が映った。 『先頭を走る夏山愛生堂、今!サングラスを沿道に投げ捨て、ここからスパートですか?』 『ギアを上げましたね。すごい体力です』  そして二位をぶっちぎった小花は、そのままテレビ塔へ掛けて来た。沿道の観客は拍手で彼女を向かえていた。 『記念すべきオリンピック招致ミニマラソン大会。緑豊か大通り公園を走るこの激走。しかも猛暑の中の激しいレースとなりました。この勝ち取ったのは、無名の美しきアスリートです。夏山愛生堂は今、太陽の女神になりました!』 そしてゴールした小花は膝に手を付き荒い呼吸を整えていた。 「はあ、はあ、はあ」 「小花ちゃーん」 「かざま、さん。まつだ、さん」 「いいのよ無理して話さなくて」  松田は大きなバスタオルで小花を包み、風間は彼女を抱きしめた。そこに涙で目が充血している渡も駆け付けた。 「小花嬢!よくやった」 「わたり、さん。ありがとう、ございまし、た」 「何を言う……ううう」  中央第二の社員は、彼女の力走に涙が止まらなかった。そして風間夫婦もやってきた。 「小花さん!すごかったわよ」 「風間さん、社長も。応援ありがとうございました」 「バカねあんた。そんなになってまで走って」  風間夫婦の目にも涙が浮かんでいたが、風間の母がふと気が付いた。 「そういえば姫野君は?」 「ゴールで待ってって言われていたのに。先輩、応援に行ったんだよね」  そこにマイクを持った取材の人が集まってきた。 「すみません。インタビューをお願いします。こっちです」  そして小花が受けたインタビューでは、彼女は夏山愛生堂内で勤務していると説明した。 『あの、インコースで抜いたのは、作戦ですか?』 『はい。あそこからまた直射日光になると聞いたものですから。チャンスだと思いました』 『チャンスといいますと?』 『私は暑さに自信がありますので』 『そうですか。あとラストスパートを掛けましたが、あのタイミングは考えていたのですか』 ここで彼女はちょっと笑った。 『いいえ。いつスパートを掛けるか考えながら走っていましたが、知り合いが声を掛けてくれたので、あの時、スイッチが入りました』 『まだまだ聞きたい事がありますが、時間ですのでこれで失礼します……』 ようやく解放された小花は夏山愛生堂のテントに戻ってきた。 「やりましたわ!あれ?姫野さんは?」 「恥ずかしくなったみたいで、どこか逃げたみたい」 「あ、帰って来たわよ」 「……小花!これを」  駆けて来た姫野はソフトクリームを持っていた。 「おめでとう!さ。食べろ」 「い、いただきます」 「おいしいか?」 「はい。おいしいです」 「疲れただろう。ここに座れ」 「はい」 「……飲み物飲むか?」 「フフッフ」 「何がおかしい?」 「だって?フフフ」 心配していた姫野に汗だくの女神は微笑んでいた。そこに彼がやって来た。 「おーい姫野!サンプル俺が一人で配ったんだぞ!」 「やればできるじゃないですか。いつもそうしてください」 「うるせ!まったく」 こんな姫野の言葉に小花はコロコロと笑った。 「フフフ。姫野さん、そんなに心配して……アハハ」 「なんだよ。心配しちゃ悪いかよ」 「えー。まずはこっちに注目」  ここで渡が皆を集めて号令を掛けた。 「えー。それでは我らの小花嬢の優勝を祝って、麦茶で乾杯をするぞ。みんな持て。早く!」 そして渡は音頭を取った。 「えー、では。お嬢の優勝を祝って。『夏山愛生堂には!』」 『愛がある』との掛け声で彼らは乾杯をした。小花は頭を下げていた。 「皆さん。ご声援ありがとうございました。さ。姫野さん帰りましょう」 「あ。ああ」 彼女はすっと姫野と手を繋いだ。 「あ、ああ。あのな、小花」 「何でしょうか?」 「……参りました」 恥ずかしそうな姫野に小花はタオルで汗を拭きながら微笑んだ。 「フフフ。私お腹が空きました、ラーメンがいいですわ」 「いいぞ。何杯でも食え」 大通公園のテレビ塔の下は暑かった。この夏一番の暑さの街を二人は手を繋いで歩いて行った。 「熱いのは平気」完
/183ページ

最初のコメントを投稿しよう!