35 思いやりは美しすぎて

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35 思いやりは美しすぎて

「先輩。俺、どうしたらいいですか」 「……だから!得意先の看護師は気を付けろって言っただろう」 「でも……」 大通り公園の地下駐車場の営業車の中の二人は、その問題に頭を抱えていた。 助手席で俯く風間に姫野は頭をかいた。 「俺の判断では決めらないからな。これは部長に相談するぞ」 「はい……」 こうして元気なく夏山愛生堂中央第一営業所に帰って来た風間と姫野に、松田女史は眉をひそめた。 「何か飲み物入れましょうか」 「ありがとうございます。隣の会議室に、俺と部長の分もお願いします、ほら、行くぞ風間」 姫野の真剣な顔に、石原もすっと席を立った。隣接の会議室に飲み物を運んだ松田は、姫野の指示通りに、一人営業所で留守番となった。 「さてと。本題に入りますね」 鍵を掛けながら姫野は話出した。 「風間の得意先のラベンダー皮膚科のお嬢さんとトラブルなんですよ」 「女か」 石原が腕を組む中、風間は説明した。 「部長。俺、彼女が院長の娘だって知らなくて。それに俺は頼まれて二回、食事に行っただけなんですよ?それなのに魔美さんは、俺と付き合っているって思い込んでいたみたいで。今度集まりがあるから俺に彼氏として一緒に言って欲しいって言うんですよ」 困惑していている風間に石原は眉をひそめた。 「風間としては、付き合ってないんだな?」 「はい!なーんにもしていません!」 両手を上げた風間に石原は続けた。 「それで?断ったんだろう、それなのに話を聞かないのか」 「はい。話も聞いてくれなくて、俺ももう」 空しく首を横に振る風間を石原はうなずいた。 「わかった」 「え」 顔を上げた風間に石原は告げた。 「後は俺と姫野でやる。お前は今夜、歯を磨いて早く寝ろ!いいな?」 「部長、先輩。すみません……」 「いいんだ、風間、とにかくお前は休め」 感激で涙しそうな風間の肩に姫野はそう言いながら手を置いた。 こうしてこの会議は終了した。 そして翌日。ラベンダー皮膚科の診察終了後に石原と姫野は院長室で話をした。二人は風間としては交際しておらず、社交辞令で食事に行っただけと説明をした。 「誤解を招く行為でした。今後、厳重に注意しますので」 「しかしだね、石原さん。うちの娘は風間君と出かけると友人に話をしてしまったんだ。これは今更取り消せないし、娘が恥をかくだけだ」 「では、どうしろと」 石原の言葉に院長は簡単に話した。 「風間君がダメなら、姫野君でいいじゃないか。君が魔美と出かけてくれよ」 「自分ですか?」 誰でも良いと言わんばかりの言葉に驚く姫野と石原であったが、院長は面倒そうに背後に声を掛けた。 「おい!魔美。こっちに来なさい。今度の集まりは姫野君でもいいだろう?」 挨拶もせず父親の背後にやってきた看護師の姿の娘は、だまって頷いた。 「……そうはいってもな。姫野?」 風間の代わりに姫野という話も、あり得ない話に眉を石原は眉をひそめたが、姫野はまっすぐ向かった。 「行きます。院長」 「そうか?」 この言葉に魔美はぱっと微笑んだが、姫野は笑っていなかった。 「でも約束して下さい。今後はこういう私的な付き合いはできませんので」 「わかった。良かったな?魔美?」 うんと頷き頬を染めて姫野を見る彼女に、彼は目を伏せた。 その帰りの駐車場までの道、石原は夜空の星を見上げた。 「姫野……嫌だったら、あの得意先は切っていいからな」 「切るとは?」 石原は夜風の中、言葉を流した。 「取引を止めるって事だよ。薬は他の卸売りから買ってもらえばいいさ。どこから買っても同じ薬なんだからよ」 「部長……」 そんな石原は繁華街の音楽に反し、真顔で話した。 「お前はああ云ったけどな。俺にはあの院長の言っている事が全然わかんねえよ。確かにお前達がそばにいたら気分が良いかもしれねえが、親の言う話じゃねえだろう」 「……そうですね」 「姫野。俺達は薬屋だ。薬は売るが心まで売る事はねえ。お前も嫌ならやっぱり断ろうか」 その背に、姫野はジーンときた。 「お気持ちはわかりました。でも今回の風間の件は、自分の責任でもあります」 「そんなことはねえけど」 「いいえ。それに魔美さんは今回の集まりでけじめを付けて来ます。それでも問題がこじれたら、契約は止めますね」 これに石原は姫野にそっと肩をぶつけてきた。 「済まないな?いつもお前に面倒な事、頼んじまって……。でもな。いざとなったら俺が全部泥をかぶってやるからよ。さあ……帰るぞ」 こうして姫野は週末に魔美の彼氏の代行をする事になった。 ◇◇◇ 「さ。行きますか」 「……これは風間さんの車ですよね?」 「自分の車は修理中ですので。どうぞ」 愛車に魔美を乗せたくなかった姫野は風間の車を借りて来た。運転する姫野はろくに顔を見なかったが、香水の甘い匂いが苦しく窓を開けて走っていた。 「ところで、今夜はどういう集まりですか?」 「それよりも姫野さんて。いつも何をしているんですか?パパからはゴルフが上手だって聞いたんですけど」 不機嫌顔の姫野に反し、彼女は嬉しそうに語り出した。 「……それほどでもありませんよ」 「ね!今度、魔美も連れて行って下さい!」 運転している姫野の腕を慣れ慣れしく組んできた彼女に、姫野は一回目の我慢をした。 「危ないので、お離し下さい。それよりも今夜の」 「あのね。魔美の友達がね……」 肝心な答えをすることなく自分語りの彼女の話で、姫野はやっと会場のホテルに着いた。   この会場での立食パーティーは、すぐに女同志のお喋りになったので、姫野は何気なく壁に寄りそって時間が過ぎるのを待っていた。 すると彼の隣に、男性が寄って来た。 「今晩は。お互い大変ですね」 一目で分かる高級なスーツを身につけた男性は、やけに白シャツの胸を開けセクシーに姫野にそっと話しかけて来た。 「そうですね。女性は楽しんでいるようですが」 輪になって話し込んでいる女性達を、姫野は呆れて眺めていた。 「失礼ですが。あなたはお仕事の関係か何かでここに?」 尋ねてきた彼に姫野は顔を上げた。 「……あなたは?」 「そんなに怖い顔しないで下さいよ。実は私は、こういう者です」 そういうと彼は名刺を出した。姫野はその名刺に驚いた。 「ススキノホストクラブ『ゴールド』の迅さんですか。もしかしてこれはレンタル彼氏ですか?」 「そうです。実は今夜ここにいる男性は、あなた以外はみんな私の同業者です」 「ええ?だって。あの若い人は?」 「彼は大学生ですが、うちの社員ですよ」 彼はそういって煙草に火を付けた。 「この仕事を長い事やっていると、わかるんですよ。本物の彼氏かどうか」 「驚きですね。全員ですか?」 思わず腕を組んだ姫野に彼は笑った。 「知らぬは女性だけですが。もしかしたら、レンタル彼氏の自慢をしているかもしれないですね。ところで、正体を(さら)したのにはわけがありまして。あなたもやってみませんか?」 「俺が?レンタル彼氏ですか」 「はい。プライベートでもモテるんじゃないですか?品もあるし、動きも綺麗だし」 そういって姫野を上から下までを見た彼に姫野は首を横に振った。 「冗談でしょ?それに自分は今日のお付き合いで限界ですよ」 「アハハ。残念です!」 けらけらと笑った彼に、姫野は思い切って訊ねた。 「興味の範囲でお聞きしますが、どういう女性が利用しているのですか?」 すると彼はゆっくりと煙草の煙を吐いた。 「……普通の女性ですよ。独身ばかりじゃありません。恋人がいるのに、本音を言えなくて私達とデートする若い娘も多いですよ。ホストよりも独占できますしね」 「彼がいるのにですか」 「寂しいとか。ストレス発散でしょうね。こっちは話を百パーセント合わせますから癒しになるのじゃないですか。まあ、あなたも気が変わったら連絡下さいよ?それではこれで」 そういって煙草の火を消した彼は、ムスクの香りを漂わせ女性の輪の中へ行ってしまった。 やがてお開きとなったので会場のホテルを後にした姫野は、まだ帰りたくないと言う魔美を、有無を言わさず彼女の自宅に急ぎ向かった。 「岳人(がくと)。さん。今度は買い物に付き合って下さいね」 「いいえ。自分は今夜だけの約束です」 「だったら。連絡先の交換を」 「魔美さん。お付き合いはこれきりです」 「う、うううう」 彼女は泣きだした。どこか白々しい姿に姫野にただ前を向いていた。 「ひどい。私がこんなに頼んでいるのに」 「……ご自宅に着きました」 しかし彼女は降りようとしなかった。 「お家の方を呼びますね」 「どうして?どうして私と付き合ってくれないんですか……」 そういって魔美は姫野の膝に手を置いたが、彼は避ける様に車から降りた。そして車から降りた姫野は、玄関のチャイムを鳴らし、家族を呼んだ。そして待つ間、助手席のドアを開けた。 「さあ、降りてください」 「彼女にしてくれるんだったら降りるわ」 ここに彼女の母親がやってきた。 「魔美!姫野さんに迷惑でしょう。早く降りなさい」 やって来た母親に即されて、彼女は渋々降りた。 「じゃ、姫野さん。またね」 「……魔美さん!私は……」 この彼の声に彼女は嬉しそうに振り返った。 「私も風間もあなたと交際する気はありません。では、これで」 そういって彼は、車を走らせた。そして風間の車を返し自分の愛車に乗り換えた姫野は、夜の街を走り気が付くと小花の家の近くにやってきた。 逢いたいけれど今の自分のいら立ちを、彼女に癒してもらおうとするのは、先ほどの魔美と同じになってしまう気がして嫌だった姫野は、中島公園の駐車場に車を停めた。 ……でも。 やはり声が聞きたくて、電話をした。 『……姫野さん。ちょうどよかったですわ』 静かに囁く彼女の電話の向こうからは虫の声がした。 「遅い時間にすまないが、今、どこにいるんだ?」 『庭に出て、理科の宿題の星の観察です。夏の第三角形を見上げていたんです』 姫野は車から降り、空を眺めた。夜の公園は虫の声がしていた。 「今夜は星が綺麗だからな……」 『でも私、どれが織姫星かわからないのです』 中島公園の池のそばに立つ姫野はそっと星を調べた。 「ベガだろう。北だ……君の家の玄関を背にすると、左か?」 『そうか!北極星があれですものね』 「……わかったかい」 『はい……綺麗ですね』 「ああ」 天頂を見上げている二人の会話は途切れたが、耳から聞こえる吐息と、虫の音のBGMせいで、姫野には彼女が隣にいるような気がしていた。 『……助かりましたわ』 「いや。良いんだ……これくらい……」 『ところで。何のお話しだったのですか』 彼女の優しい声に姫野はここで身構えた。 「声を、聴きたかっただけなんだ」 『そうですか。私の声でお役に立てるなら何よりですわ』 この天使の声に彼は目をつむった。 「小花。明日、プラネタリウムに行こうか」 『どこにあるのですか』 「新札幌の青少年科学博物館だ」 『嬉しいですけれど、姫野さんはせっかくのお休みですのに』 「嫌ならいいんだ」 『……何かありましたか』 思わず彼は沈黙してしまった。 『お仕事でお疲れでしたら、明日はお休みになってください』 「そこまで疲れてない」 ここで彼女はゆっくりと話した。 『星なら今、一緒に見たではありませんか。それに私、やらないといけないことがいっぱいありまして』 「宿題か」 『それもありますが、明日はお天気なので物置の屋根のペンキを塗る予定なのです』 自分で家の用事をしようとしている彼女に姫野は苦笑した。 「わかった。それを俺に手伝わせてくれ」 『屋根に上る危険な仕事ですよ』 「いいんだ、どうか俺にそれをやらせてくれ」 『でも』 「小花、俺はペンキ塗りが大好きなんだよ」 これに彼女は一瞬沈黙した。 『鈴子も好きなので一緒にやりましょうね……ふふ、ではお待ちしておりますわ」 そしてコロコロと笑っている彼女に、つい姫野も笑みがこぼれた。 「わかったか。では明日、家を出るときに連絡する!今夜はもう家に入りなさい。ほら、鍵を掛けて」 『……掛けましたわ。あの、姫野さん。声が近いですけれど今どちらにお出でですか?』 彼女の家のすぐそばの中島公園にいた彼は、今、近くにいるとは言えなかった。 「大倉山の自宅のそばだ」 『お気をつけてお帰り下さいね』 「ああ。お休み」 『おやすみなさい……』 電話を切った姫野は、星をそっと見上げた。 満点の星と彼女の優しさに心を押しつぶされそうになった彼は、目を閉じふうと息を吐くと、愛車に乗り込んだ。 帰り道、彼の操るハンドルは、とても軽かった。 「思いやりは美しすぎて」完
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