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36 少年よ、ペンを取れ
「え。うちの伊吹が体育でねん挫したんですか?はい、ちょっとお待ちください」
松田はスマホを押さえて石原の顔を見た。
「すみません!息子が怪我をしたので学校に迎えにいかないと」
「わかった!人命優先だ。仕事は良いから迎えに行ってやれ」
「は、はい!……先生、今から向かいますので」
そう言って彼女は電話を切った。そんな松田に姫野は尋ねた。
「体育で怪我ですか」
「ええ」
デスクの上を慌てて片付けている松田は、必死に話した。
「あの子、台上前転をしていて跳び箱から落ちたとかで。あ、部長、頼まれた資料は明日でもいいですか」
「……そうあわてるな。よし。姫野。お前ついて行ってくれないか。ついでに病院も」
「いいですよ。ちょうど行く所でしたし」
「そういうわけにはいかないですよ」
しかし石原は松田をじっと見た。
「何を言っているんだ。お前、今バックにしまったのは、パソコンのマウスだぞ」
「うわ?」
「行きましょう。松田さん」
「すみません。部長。お言葉に甘えます……」
こうして会社の車で、松田の息子伊吹の通う中学校に向かっていた姫野は、松田の愚痴を聞いた。
「反抗期がやっと終わったと思ったら。今は勉強もやる気はないし」
「勉強はやれと言われれば言われるほど、嫌いになりますからね」
「わかってはいるけれど、でも、うちはシングルだから私が厳しく言うしかないし、でもゲームばかりしていて……」
そんな二人は中学校に到着した。伊吹が足をねんざしているかもしれないので、姫野も保険室まで一緒に行った。
「ここが保健室か……すみません、失礼します」
松田がそっとドアを開けると消毒液の匂いがする室内のグリーンのカーテンが揺れた。
「あ。伊吹君のお母さんですか?」
白衣姿の女性が椅子から立ち上がり松田も挨拶をした。
「私は保険医です。伊吹君、手をついて手首を痛めてしまって。ほら、お家の方が見えたわよ」
先生がカーテンを捲るので、松田も近寄った。
「……伊吹、大丈夫?え」
するとそのベッドでは、制服姿の少年が、スヤスヤと眠っていた。
「ちょっと!何でこんなところで寝ているのよ」
「ん?もう来たの?」
「何を言っているのよ!先生、すみません」
保健室で熟睡するという大物ぶりに保険医は構わないと手を振った。
「いいんですよ。頭が痛いって言っていたので、少し横になってもらっていました」
伊吹は大きなあくびをして、よっこらしょっとベッドから降りた。この様子を姫野は確認していた。
「大丈夫かい、伊吹君」
「はい」
姫野と面識がある伊吹は、彼の顔を見て平時の顔になった。保険医は話を続けた。
「捻挫だけだと思いますが、念の為に病院で検査して下さい。あの、担任が今来ますので」
「いいえ。先生もお忙しかと思いますので。私から連絡します。では、ほら!伊吹!姫野係長に、バックを持たせないでよ?……では失礼します」
そういって保健室を出て松田は逃げるように、そそくさと学校を出た。
「松田さん。いいんですか?担任の先生に逢わなくて?」
「いいんですよ。又この子の事で色々言われるから」
「最近はちゃんとやってるよ」
「何がちゃんとよ」
姫野はまあまあと二人を車に乗せた。
そして行きの車中で相談した通り、松田と伊吹を姫野の得意先の整形外科に降ろした。
「俺は近くの他の得意先に行ってきますので。またここに迎えに来ます」
「すみません」
こうして姫野は一時間後、松田母子を迎えに戻った。
「ただの捻挫で良かったですね」
「はあ……全く人騒がせな」
「そんなこと言っても痛かったんだよ」
後座席のぐるぐる巻かれた左手を眺めている息吹をルームミラーで見た姫野は話を続けた。
「松田さん。このまま会社に戻りますがどうしますか?俺は用事が少しだけで、すぐに会社を出る予定です。もし伊吹君が会社でちょっと待っていてくれるなら、一緒に家まで送りますよ。そっちの方に行くんで」
「私はまだ仕事が有るし……申し訳ないけど、お願いするわ。ほら!伊吹、寝ているんじゃないわよ」
かるく雑務をこなしたかった姫野はこうして伊吹に中央第一営業所で待ってもらうことになった。
「お。お前が松田の倅か。あのな、ちょっとおじさんのギャラケーを見て欲しんだ」
「ギャラケー?ですか」
石原の話に少年は目をパチクリさせていた。
「そう。これでみんながやっている『ポムポム』っていうゲームをやりたいんだが、お前の母さんは教えてくれないんだよ」
「え?だってこれはガラケー……」
「伊吹」
すると松田が肘を突き囁いた。
「し!そのガラケーとギャラクシーが同じだと思いこんでいるの。部長、すみません、息子はこういうの苦手で」
「なんだ」
石原はさみしそうに行ってしまった。今度は風間が話し掛けてきた。
「ね!君?中学生なのでしょう?今、流行っているのってなんなの?」
「流行っているのって、色々ですけど」
「女の子の興味あるものって知っている?」
「さあ……クラスの女子は、エブリスタがどうとかいっていますけど」
「エブリスタ?なにそれ?」
「いいから風間君!仕事をお願いね」
「失礼します。清掃です」
この場に小花がやってきた。
「まあ。社会科見学ですか。この会社は色々な人がいて刺激になりますよ」
その頬笑みに思わず伊吹もドキとしている中、姫野が紹介した。
「小花。彼は松田さんの息子さんで、伊吹君だ」
伊吹はどうもと頭を下げた。
「まあこちらこそ。お母様には日頃お世話になっております。あの、その手。いかがされたのでしょうか」
「僕、体育の、台上前転でちょっと」
「まあ台上前転?あれをおやりになったのですか?」
驚き顔の小花に、伊吹はうなずいた。
「それはそれは……大変な思いをされましたね。私には良く分かります」
小花は伊吹に向かった。
「それで……合格はできたのですか?」
「はい。一応」
「良かった!ねえ。姫野さん。合格したって」
「いいから。お前も掃除をしろ」
そして姫野は伊吹を連れて、会社を出た。
◇◇◇
「カッコいい車ですね」
「狭くてすまないね。気を付けて乗ってくれ」
姫野は愛車Zの助手席に伊吹を乗せ、走らせた。
「うるさい連中でびっくりしただろう」
「面白い人達ですね」
「ああ。ボケ役ばっかりだから、いつも君のお母さんが突っ込み役で頑張っているんだ」
そんな信号待ちの車窓の外には学習塾が見えた。姫野は思わずつぶやいた。
「伊吹君は、受験生か」
「はい」
「志望校は決めたのかい」
「まだですけど。お母さんは私立でも良い言っているし。入れる学校に入ろうかなって」
「そうか」
やがて車は発進した。
「姫野さんの時は、どうしたんですか」
「俺は田舎だったから他の高校が無いからね。選択肢が無かったよ」
「そう言う方が選ぶ悩みはないですよね」
「まあな。札幌は高校の数が多いから。選ぶのも確かに大変だ、ん?」
ここで運転中の姫野に携帯電話が掛かってきた。しつこいコールに姫野は眉をひそめた。
「すまない伊吹君。ちょっと電話にでるぞ」
「はい、どうぞ」
そんな姫野はコンビニの駐車場に車を停め、スピーカーホンで答えた。
「なんだ」
『空だよお兄ちゃん。ホワイトバレーの渓谷から。先に進めないんだよ』
スピーカーホンからは弟の声に姫野は呆れて答えた。
「俺は新しいゲームは知らないぞ」
『兄ちゃん。俺、大地!あのさ、トンネルがあってさ、美雪もいないからマジで困っているんだよ』
「トンネルか。『サイレンアイ』は」
『試した。でも向こうに見つかる』
「『ムーブスメル』は?」
『効かないんだ。ね。どうしよう』
「そんな事言ってもな」
すると隣に座っていた伊吹が小型ゲーム機を取りだした。
「あの。地球防衛隊だったら、俺持っています」
「君は学校にゲームを持っているのか?」
「僕、ゲーム部の部長です」
「ゲーム部?」
驚く姫野に双子は素早く反応した。
『そばに誰かいるのお兄ちゃん?彼に俺達の部屋に入ってもらって』
「何をバカな事を」
『地球がどうなっていいのですか?』
「小花の真似をするな!しかたない。伊吹君。部屋は○○、番号は○○○○だ」
「OKです……え?これって」
伊吹の目には、憧れのプリンセスソルジャ―が現れた。
「うわ……すげえ」
そんな彼に構わず画面を覗き込んだ姫野は、ゲームの様子を理解した。
「ここは『天使の歌声』じゃないか?あれで洞窟の中のモンスターを眠らせてみろ」
『さすが兄貴!あ、でも、美雪がいないからできねえな』
「姫野さん。僕できます」
画面の中のアバター名Breathの伊吹のキャラクターはジャンプした。
『マジで?よし頼む』
こうして伊吹が放った天使の歌声で、見事この場を制した。
『大したものだね……お兄ちゃん。彼に俺達の仲間に入ってもらえないかな』
『戦闘能力もずば抜けているし、一緒に戦ってやりやすいな……お兄ちゃん?彼に俺達の仲間に入ってもらえないかな』
『俺も同感!彼、センスがあるよ』
「姫野さん。僕なら大丈夫です!!」
嬉々としている伊吹に、姫野は腕を組んだ。
「ダメだ」
「え?」
「今のままではダメだ」
『おい、始まったぞ、兄貴の制約が……』
『君、うざいけど我慢して聞けよ』
双子の言葉を皮切りに姫野は語り出した。
「伊吹君。俺はゲームを父親に買ってもらった時、約束をしたんだ。ゲームの世界だけでなく、現実の世界でもヒーローを目指せと」
「現実の世界でも……」
「ああ。難しい事じゃない。挨拶をする。借りたものはすぐ返す。与えられた仕事を精いっぱいこなすなど、人として当たり前の事だ」
「……借りたものはすぐ返す……人として当り前……」
姫野はゆっくりと、うなずいた。
「ゲームの世界の勇者になっても、現実生活で自立できないとダメという事だ」
「勇者になっても自立できないとダメ……」
ゲーム機を膝に置いた伊吹は姫野の言葉をかみしめながら聞いていた。
「そうだ。それにこのゲームは高い学力と知識を必要とするんだ。悪いが、入れる高校で良いと思っている君には、無理だよ」
『相変わらずきついな』
車のスピーカーからは、弟の声がこぼれていた。これに姫野は首をひねった。
「空は黙っていろ。いいかい?伊吹君の言うとおり高校の志望動機としてそれが悪い事とは思わない。しかし、俺達のプリンセスソルジャ―に入るには、札幌で一番の高校に入るくらいの能力が必要だと言うことだ」
これにうつむいてしまった伊吹に、スピーカーから声がした。
『ねえ。伊吹君といったね。俺はSkyだよ』
「はい」
空は優しく語りかけた。
『俺達もそこにいる石頭の兄貴に約束して、今、こうしてゲームをしているんだ。君にもできるよ。あんなに高い戦闘能力の君に、できないはずないさ……』
「Skyさん……」
『俺はEarhtだよ。兄貴が辞めてからマジでメンバーが足りないんだ。もし良ければ、仲間に入ってほしいな。ゲームをやり続ける事のできる根気強さと集中力を、兄貴や家族に証明できる力をBreath、君は持っているよ』
「Earhtさんまで……」
大地の言葉に伊吹はゲーム機をしっかり握った。
『返事は後でいいよな、空?』
『そうかい?俺はNewYearGameShowで君を待っているよ……じゃあな!お兄ちゃん』
こうして双子は電話を切った。
「さあ。帰ろうか」
姫野は車を走らせた。伊吹は家に着くまで何も話さず、じっとゲーム機を握っていた。やがて松田の住むマンションにやってきた姫野は息吹を車から降ろした。。
「これは鞄だよ。腕を動かさないようにな」
「後は一人で大丈夫です。ありがとうございました」
頭を下げた伊吹がマンションに入るのを見届けた姫野は、用事に向かった。
◇◇◇
翌朝。いつもよりも松田が早く会社にやって来た。
「姫野係長。うちの息子に何を言ったんですか?!」
あまりの剣幕に、さすがの姫野もひるんだ。
「なんかあったのですか?」
「あったなんてものじゃないです!」
松田の話によると、昨夜自宅に帰ると伊吹が炊飯器で米を炊き、風呂を沸かし、洗濯物を畳んでくれていたという。
「あの子。部屋を片付けて、勉強していたんですよ?」
「へえ。そうですか」
にやにやしながら医療新聞を読み終えた姫野に松田の興奮は続いた。
「しかも。夕飯を食べながら、これから塾に通わせて欲しいって頭まで下げて」
「ハハハ。やる気がでたなら良いではないですか」
「今朝は一人で起きて、早々に学校へ行ったんですよ?」
興奮している松田に姫野はコーヒーを渡した。
「まあ、成長ってことでしょう」
「姫野係長。本当にうちの息子に何を言ったんですか?」
「俺は特に何も」
弟達が言った言葉が彼の心に一番響いたと思っていた彼は、笑顔で誤魔化した。
「とにかく……。本当にありがとうございました」
そういうと松田は涙声になった。
「今朝、『お母さんは会社でいつも一人で突っ込みの担当、頑張っているんだね』って言ってくれて……。あんな優しい言葉を掛けてくれる日がくるなんて……」
姫野はさっとティッシュの箱を渡した。
「すみません。つい……。そうだわ?なんかこれ。姫野さんに約束の日まであずかっていて欲しいって」
松田が取り出した紙袋には小型ゲーム機が入っていた。
「剣をペンに持ち替えたか……。伊吹君はやり遂げますよ」
そこへ彼女がやって来た。
「おはようございます。清掃です」
「おはよう。小花ちゃんって、こんなに早く来るのね」
小花はモップを片手に笑顔で弾ませた。
「はい。みなさんがいない間に清掃したいので。ところで松田さん。息子さんの手はいかがですか?」
「おかげさまで。薬が効いて痛みもないって」
「夜は眠れていましたか?」
「……たぶんね。って。どうしてそんなこと聞くの?」
すると小花はモップを抱きかかえどこか遠くを見た。
「私、台上前転の後はしばらく怖い夢を見たものですから。そうですか、伊吹君は大丈夫で良かったです」
「……小花?今までどうしてそんな大事な事を俺に言わなかったんだ?」
「え」
怖い顔をしている彼を、彼女はきょとんと見上げた。
「特に報告する内容とは思っていませんでしたが」
「あのな……」
姫野は小花の持つモップを供に握った。
「なんでも話せと言ったじゃないか?そんなに怖い思いを一人で我慢していたとは……」
「私、そんなに我慢は」
「はい、そこ!朝から熱すぎです!これからもどんどん突っ込みを入れていきますからね?」
松田はそう言って、パソコンの電源を入れた。
この日の天気予報は晴れだった。札幌も猛暑が訪れていた。
「少年よ。ペンを取れ」完
愛戦士シリーズ④
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