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2 どら焼きハッピネス
「塩川クリニック院長夫人はあのどら焼きにえらく感激してな。あの品を自分で買おうとしてネットで検索したらしい。するとあのどら焼きは普通じゃない事がわかったんだ……」
「普通じゃないって、おかしいってことですか?」
「いいからこれを見ろ!」
姫野が示すパソコンの画面には『七香亭の幻の白餡どら焼き』と合った。
「ネットの情報によるとだな。この白餡は高貴な方に献上する特別使用のどら焼きとあるぞ。お前、これどうやって買ったんだ?」
朝から飛ばず姫野の勢いに風間は一気に速度を落とした。
「えーと……なんて言うか、その……言いたくないですね。個人情報とか、プライベート的な感じで」
「はぁ?」
想定外の答えに固まる姫野に女子事務員が声を掛けた。
「姫野係長、お話し中すみません。狸小路外科からお電話です」
「くそ。いいか風間」
またしても事務員に話を切られた姫野は、苛立ちながら電話機を掴んだ。
「そんな辞表はどうでもいいから。席で待て『はい。お待たせしました姫野です』」
「はいはい、やれやれ……」
姫野の電話中、今日で辞めるつもりの風間はやりかけの仕事を済ませようと仕事を始めた。
この夏山愛生堂は医薬品卸売の会社である。医薬品メーカーから薬を購入し、各病院へ販売をし、北海道経営会社では三本指に入る大企業である。
風間の所属する中央第一営業所は札幌の中央区にある医薬品を扱う医療機関が管轄。ススキノや大通り公園、狸小路商店街などの繁華街にある医療機関は大きな病院は無いが、個人病院や歯医者、美容外科が数多くあるのだった。
ススキノの老舗である風間薬局の一人息子の風間諒は薬剤師の資格を持っており、普通の社員と異なり医薬品の知識がある。しかし彼はこの会社でのし上がろうという気持ちは一切なく、社会経験をさせて欲しいという彼の父親である風間薬局の社長の意向だったので、渋々務めているやる気なし社員だった。
薬局の営業担当は、薬局向けの商品専門の薬粧営業部の担当。風間はそこの営業でも修業になったはずだが、会社側は同じエリアを担当する点と、社内一堅物と恐れられている姫野なら風間のお目付け役に相応しいとなり、医薬品担当の営業をさせることにしたのだった。
高校時代ミスター札幌に選ばれた過去を持つ風間は、そのまま芸能界に誘いを受けたのだが、北海道から出るのが嫌だという理由でこれを拒否し、地元の私立大学に進み薬剤師の試験に合格した変わり者。
しかし甘いマスクの高身長で育ちの良さからにじみ出る優しい仕草と、親の後光も手伝って、女子社員や得意先の女医や看護師に大人気だった。
しかし。お目付け役の姫野岳人も彼に負けない端正な顔の男である。本人は無自覚だがクールで知的な彼は、仕事に対し大変ストイックで、スポーツ万能である。
夏はゴルフやカヌー。秋は登山。冬はスキー接待をこなす彼は硬派であるがバレンタインのチョコレートをもらう数は社内一。しかし仕事以外の用事に関しては本人は迷惑をしていた。
こうしてこの三カ月前から札幌の繁華街を営業エリアとする二人組は、夏山愛生堂のイケメンツートップをして医療業界では有名だった。
姫野の電話中、医薬品メーカーの営業マンと歓談し時間を潰していた風間は、姫野と話すのが面倒なので、昼を前に小花の待つ立ち入り禁止の部屋にそっと足を運んだ。
「すみませーん。小花ちゃんいますか?」
「あ。本当に来た」
「ね?吉田さん、言った通りでしょう?風間さんは仕事場に居づらくてここに来るって」
「その通りだよ。小花ちゃんってすごいんだね」
「お前さんも大物だ、さ、入りな」
そう言って吉田婆はお茶をコポコポと入れていたが、風間を見た小花は嬉しそうに彼に座布団を進めた。
「へっへ、先輩はうるさいからさ。やっぱり来ちゃった」
「いいのですよ。風間さん。休憩も必要ですもの。さあ、こちらへ。先に手を洗って下さいね」
彼女に言われるまま小さな台所で手を洗った風間は、靴を脱ぎ畳みに上がり遠慮なく座布団にあぐらをかいた。小上がりの畳みのちゃぶ台には、重箱が有った。
「皆さん、開けますよ……ほら」
「おお。これは……」
そこにはお赤飯が入っていた。大きな甘納豆が乗っていた。
「風間さんとは本当に短い間のお付き合いでしたけれど、せっかくの門出ですから。せめて私達だけでも祝って差し上げたいと思いまして」
そういいながら正座の小花は赤飯をお皿に盛りつけ始めた。風間は割りばしに付いた赤飯に苦戦している小花を見ていた。
「これ、小花ちゃんが作ったの?」
「まあ、そうなりますが、私はこの餅米を一晩水に浸けてタイマーをセットしただけなので、正確には炊飯器が作りましたわ」
「その手間が大変だもの。嬉しいな……」
「喜んでいただけて私も嬉しいです。ところで紅ショウガはどうします?」
「紅ショウガは要らないけど、着いた部分は好きなんだ」
「私もだけど、今日は風間さんに譲りますわ、ええと、これでいい?」
「……嬉しいな。俺、赤飯大好き!あ?それくらいでいいよ。いただきまーす……ってあれ。俺か?」
割りばしを割った風間は、鳴り響くスマホの着信音に面倒臭そうに出た。
「全く……。はいはい何ですか。姫野先輩?」
『お前!どこにいる?それにどら焼きは……』
「お待ちください」
風間はスマホを押さえて小花に話した。
「ごめん。俺の先輩なんだけど頭が固くてさ。昨日のどら焼きがどうのこうのって、うるさいんだよ。あのさ、悪いけど代わってくれないかな、俺じゃさっぱりわからないんで……」
風間の弱り顔に小花は真顔を向けた。
「いいですわ……。もしもし。お電話代わりました」
『君は?』
彼女は毅然と対応した。
「風間さんの代理の者です。あのお品について何かございましたでしょうか」
『あれの購入方法を知りたいのだか』
「……お答えできません」
『何?』
小花は座布団にしっかり座り直し、背筋をビシッと整えてはっきり言った。
「あなたは上司なのに。どら焼きよりも、風間さんの心配はなさらないのですか?今回の責任に胸を痛めて辞表を書いたのに。あなたはどら焼きの方が大切なのですか?」
『おい!君は一体誰なんだ?』
「そのような人でなしに、どら焼きの事はお答え致しかねます。ご機嫌遊ばせ……」
そう微笑みながら小指でピッと電話を切った小花に、風間は口笛を吹いた。
「くそ!先輩の顔見たかったな……」
喜ぶ風間に吉田婆は呆れて首を振った。
「全く。あんたも辞めるって決めてるから、のんきなもんだ……」
「さあさあ!もうあんな意地悪先輩は忘れましょう?さあ。気を取り直して食べましょう!風間さん、ゴマ塩もありますよ」
「……うん。掛けて掛けて!おお?人に掛けてもらうと美味しい?」
「まあ?風間さんったら!?」
こうして笑い声に包まれた楽しい風間の送別会は他に食べる物が無かったのであっという間に終わった。
「ところでさ。あんたのミスは謝って済む話なのかい」
「はあ、またその話ですか」
吉田の問いに食後のお茶を飲んでいた風間は窓の外の景色を見ながらふうとため息交じりに答えた。
「マスクの在庫があるみたいですが腐るものじゃないし……。先輩が何とかすると思いますから大丈夫ですよ」
すると、台所で洗ったお重箱を布巾でキュッキュッと拭いていた小花は風間に振り向いた。
「マスクですか……うちの会社なら買うかもしれませんよ。少々お待ち下さいませ」
小花はスマホを取り出した。
「……風間さん。お値段は?」
「原価で良いよ。一応、医療用の正規品だったかな?それにうちは卸だからうちより安いのは無いと思う」
「では聞いてみますね。あ。買うそうです。百ケース」
「うそ?」
簡単に話す小花に風間はお茶をこぼしそうになった。
「あんたね。小花ちゃんのいる派遣会社は千歳空港の清掃や警備をしている大企業だよ」
そんな話も聞こえない彼女は風間の手をぐっと掴んだ。
「それよりも風間さん。ちょっと一緒に来て下さい」
「へ?ど、どこに行くの」
小花に捕まった風間は、エレベーターで地下へ連行されていた。
「地下に行くの?」
「はい。ここは配送センターですよ。あ、手塚さん!」
トラックから降りたヒゲ面の中年男性に小花は声を掛けた。
「なした小花ちゃん?また事件か」
「今日は違います!この新人さんがマスクの在庫を抱えて困っているんです。少し買ってくれませんか」
手塚はつまらなそうに頭をかいた。
「なんだ事件じゃないのか……しょうがねえな。インフルエンザ対策に少し買っておくか。じゃあ、一ケースだけ」
「ありがとうございます!良かったわね。風間さん」
「あざっす」
この後、小花達はこの地の共同ビル内に卸センター食堂に向かった。ここでも使用するものなので彼女の頼みで一ケース買ってくれた。でもまだ大量の在庫が有った。
「あ、メールが来た……。吉田さんの娘さんの勤務先の幼稚園でも買って下さるそうです。他にもえーと……」
風間が驚く中、小花のスマホにはどんどんメールが届く音がしていた。
「……もういいよ。小花ちゃん。それに俺、もう辞めるんだから」
エレベーターを待つ間、小花のおせっかいに面倒くさそうな風間は、首をかしげて小花を見下ろしたが、彼女は怒っていた。
「ダメですよ風間さん!あきらめるなんて。全部売って、あの人でなし上司をぎゃふんと言わせてやりましょうよ」
両手に拳をつくる彼女は興奮して頬を膨らませていた。むきになっている彼女を風間は微笑んだ。
「アハハハ。どうして小花ちゃんがそんなに怒るのかな……。それにぎゃふんか……先輩は絶対そんな事言わないけど……そこまで言うならやってみようか。さて」
小花と到着したエレベーターに乗りこんだ風間は、スマホを取りメールを送ってみた。
「おお?大学時代の仲間や昔のバイト先で買ってくれるって連絡が来た。頼んでみるもんだな」
「私もまだトライします」
中央第一営業所まで戻る廊下を歩く二人はこうして頑張ったが、約8000個在庫になっていた。
「仕方ない。俺の親父に頼むか……もしもし?」
風間が電話で頼むと、風間薬局の社長は息子のために全てこれを買い上げた。
「よっしゃー!これで全部売ったぞ」
「すごいですね」
「おう」
嬉しさハイタッチを決めた小花に風間は小首をかしげた。
「でもね小花ちゃん。誤解しないでね。薬局でマスクを販売するのは俺もちゃんと手伝うからさ」
偉そうに腰の手を置く風間に、小花は嬉しそうに両手を叩いた。
「それはおかませしますが。それにしても良かった……これでぎゃふんと言わせられますね」
「誰がぎゃふんだ?」
「ぎゃあ!?」
「うわ?先輩!」
いつの間にか背後にいた姫野に小花は変な悲鳴を上げ、風間はびっくりして猫のようにビクッとした。
「いきなり何をするんですか」
「それは俺に言わせろ」
「驚いた……でも、先輩!このデータ見て下さいよ!俺、マスク1万個売りましたよ」
「まさか……嘘だろう!ってお前?何をした?」
風間のスマホを見た姫野は驚きのあまりそのスマホを取り上げた。
「へへん!彼女のおかげって、あれ?いない……」
「そうだった!さっきの女が生意気女だろう。どこへ行ったんだ」
二人は廊下を見渡したが、そこには誰もいなかった。窓からは初夏の風が流れていた。
「おい。風間。あの女は何者だ?」
「個人情報で……」
「ふざけるな!何が個人情報だ。今度見かけたら文句を言ってやるからな」
「ええ?今度も何も。俺は今日で首でしょう?」
驚きの風間に姫野は、冷たく言い放った。
「起きているのに寝ぼけるな!一万個も販売した男を首にできるわけないだろう……?さあ。戻るぞ」
「え。そんな……」
「いいから早く」
姫野に捕まって廊下を歩く風間は、ふと立ち入り禁止のドアに眼が止まった。
……このドアの向こうにいるのかな。だったら……
「先輩。俺は先輩がぎゃふんと言わないと戻りません」
「ぎゃふん。はい。これでいいか。とにかく戻れ!得意先に行くぞ」
「ふあーい」
姫野に背を押された風間は、どこか笑みを浮かべて中央第一営業所に戻って行った。
札幌駅の東にある卸センターの古い社屋の廊下には、初夏の香りと二人の靴音は軽やかに流れていた。
完
初公開2018・8・13
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