3 立ち入り禁止

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3 立ち入り禁止

「おはよう」 「おはようございます」」 北海道には梅雨が無いとされているが、六月の札幌では雨の日が続いていた。 雨の朝、夏山愛生堂ビルの玄関には社員が濡れた靴で出社していた。清掃員の彼女は床をせっせとモップで拭いていた。そこに彼が元気よくやってきた。 「小花ちゃん!おはよう」 「おはようございます。まあ?風間さん。肩が濡れていらっしゃいますわ」 小花は彼の顔も見ず、持っていたタオルで風間の肩をポンポンと拭いた。これに満足そうな彼は、ウキウキで話し出した。 「ありがとう!あのさ、今日の昼休み、部屋に行っても良いかい?今日は俺も弁当なんだ」 「はい!お待ちしています」 モップの小花の笑顔に押された風間は、その階にある営業所にやって来た。 「おはようございます!いや。今朝も雨ですね」 風間は元気良く姫野と松田女史に挨拶をし、自分の席にどかと座った。そんな彼に姫野は静かに尋ねた。 「ああ。おはよう。なあ。風間?」 「なんですか?先輩」 ……こいつのメンタルはどうなっているのだ? 昨日は会社を辞めると騒いでいたくせに、今朝は何事もなかったように爽やかにやってきた風間を姫野はじっと見ていた。 この後輩の事を一晩中気にしていた姫野は彼の態度を見て、夕べの自分がバカバカしくなり、ついに怒りを超えて風間のデスクにバーンと手を付いた。 「昨日の清掃員の件だ!」 「ああ。彼女が何か?」 「何が彼女だ!あいつは外部の人間だろう。あんまり親しくするんじゃない」 「え?俺は……それほど親しくないですよ」 風間は立ち上がり、コーヒーサーバーに向かった。 「昨日初めて逢ったんですけど俺が落ち込んでいたんで、話を聞いてくれただけです。そしたら手土産買ってくるって言い出して。それだけです。先輩も飲みますか?」 「もう飲んでる!とにかくどうでもいいが、親しくするんじゃない。お前はもっと仕事をしろ」 「ふあーい」 こうして午前中は素知らぬ顔でデスクワークをした風間は、姫野の眼を盗んで小花のいる五階の立ち入り禁止のドアを開けた。 「小花ちゃーん!」 「……また来た。風間の坊っちゃんめ」 そこには小花ではなく、吉田婆が畳に太い足を投げ出していた。 「あれ?小花ちゃんは?」 「今、来るよ。あんたはここに座って、って。もう座っているし……」 ちゃっかりしている風間に吉田婆は呆れた顔をした。 「そういう調子の良い所は父親にそっくりだ……」 「うちの親父を知っているんですか?」 吉田はうなづいた。 「ああ。あの繋がり眉毛の親父もこの会社で修業してから薬局を継いだんだよ。まあ、あんたの方が親父さんよりも男前かな」 「良く言われます!」 ビタンとウィンクを決めた風間を見た吉田は、ため息をついた。 「奥さんが美人だったものね……でも親父さんはトップセールスマンだったから。男としては向こうが上だね」 その時、部屋のドアが開いた。そこからは掃除セットが満載しているワゴンを押しながら小花が疲れた顔で入ってきた。 「お疲れ様、小花ちゃん」 「ええ。本当に疲れましたわ。よいしょっと。私もお昼にします」 こうして三人はいただきまーすと、仲良く弁当を広げた。 ◇◇◇ 「へえ。吉田さんが正社員で、小花ちゃんは派遣社員か」 「そうです。今は清掃員としてここに配属なんですよ」 お弁当を食べる小花の横で吉田は大きなおにぎりを食べた。 「本当はこのビルは私一人が担当で清掃するんだけど、今このビルは改修工事をしているだろう?何かと慌ただしいから小花ちゃんには今だけ応援に来てくれているんだ」 「へえ」 そんな風間はふと小花をみつめた。 「ところで。小花ちゃんて。これ、下の名前なの?」 すると小花は口元を押さえてフフフと笑った。 「フフフ!名字です。良く間違われますが」 「坊っちゃん。駄目だよ?小花ちゃんを誘惑するのは。まあ。あんたじゃ無理だけどさ」 「どういう意味ですか?あ、又電話かよ」 電話の音に面倒そうな風間はしぶしぶスマホを手にした。 「ったく面倒。はい、何の用ですか先輩?え、どこにいるって。昼休みだからいいじゃないですか!どこにいても。フリータイムでしょう……わかりました。あと十五分したら戻ります。はい……」 ものすごく嫌そうな顔をして風間は電話を切った。 「うちの先輩。滅茶苦茶うるさいんですよ」 「例の人でなしさんですね」 うんとうなづく風間に、吉田は呆れて肩を落とした。 「姫野君は人でなしじゃないだろう。まあ見栄えはいいけど神経質で仕事優先だからね。どうしても厳しくなるんじゃないの」 「でも仕事よりも人間が大事だと思います」 吉田婆の話に小花は顔を上げた。 「それに風間さんの事を全然心配しないじゃないですか。そんな冷酷なのは人間じゃありません、私、許せませんわ」 ぷんぷん怒る小花に、風間はにっこりほほ笑んだ。 「小花ちゃんは嬉しい事を言ってくれるね……あ?連絡先を交換しない?また相談に乗って欲しい事があるんだ」 「だめだよ」 この二人の間に吉田がさっと入った。 「いいかい、風間の坊っちゃん?用事がある時はここに来ればいいだろう。さあ。もう職場にお帰り!さあさあ」 「ちえ」 「風間さん。私もお給料のために頑張りますわ」 こうして吉田と小花に追い出された風間は仕方なく自分の職場に戻って行った。 「ただいま戻りました」 「……風間。お前、またあの清掃員の所にいただろう」 パソコンから目を離さずに話す姫野に風間は澄まして答えた。 「違いますけど」 「そうか?お前から洗剤の匂いがするなぁ」 「うそ?そんなわけないですけど」 慌ててシャツの匂いを嗅いだ風間を、姫野はニヤリと笑った。 「引っかかったな」 「……先輩。俺を騙したんですね」 すると姫野は座ったまま足元の屑かごをバーンと蹴り倒した。 「何をしているんですか!係長?」 驚く女子社員の松田優子の声に、姫野は片眉を上げた。 「いいんです。松田さん、清掃員を呼んでください」 「先輩、何をする気ですか」 「掃除に決まっているだろう。さて」 松田女史が内線電話で呼び出した数分後、雑巾を持った小花がやってきた。 「清掃員です。お洋服は汚れませんでしたか?」 腕を組んで立ち上がり仁王立ちで待ち受けていた姫野に、彼女は心配そうに掛け寄った。 「そんな事はどうでも良い!君が生意気な清掃員か。名前は?」 「小花ですけど」 「下の名前など聞いていない!」 ここに風間と松田が入って来た。 「先輩。この場合、名字に決まってるでしょ」 「そうですよ。名札にそう書いてあるわよね」 「はい」 「まあ、いい。話を聞きなさい」 風間の声に頷く松田女史に、姫野はかるく咳払いをした。 「君は外部の人間だろう。勤務中は風間に近寄らないでもらいたい。いや、風間だけでなく、この中央第一の営業所にも顔を出さないでくれ」 すると彼女はじっと姫野を見返した。 「では。お掃除はどうされるのですか」 「ここには社外秘の書類もあるのだ。なので君ではなく吉田さんにお願いしたい」 「私が秘密の書類を勝手に見るというのですか?」 「可能性の話だよ」 俯く彼女に風間が慌てた。 「先輩?彼女は俺を心配しただけですよ」 「うるさい!それに君は清掃員だろう?清掃員として業務に専念してもらいたい。こいつが金持ちのボンボンと知っているのかもしれないが、そういう営業は勤務時間外に行ってくれ」 「営業って何ですか」 「色仕掛けでこいつに近寄る意味だ」 「先輩?言い過ぎですよ!」 「うるさい」 「わかりましたわ」 風間の肩を掴む手を振り払った姫野は、目の前の女の子の声に動きを止めた。 「小花ちゃん」 「良いのです。風間さん。私の行動でご迷惑をおかけしたのなら謝ります。どうか、どうかお許し下さいませ」 すっと頭を下げた小花に姫野は眉をひそめながらこの謝罪を受け入れた。そんな彼に彼女は続けた。 「私、勤務時間は金輪際、こちらの営業所には参りません。本当に済みませんでした……グス」 顔を上げた小花の眼には涙が溜まっていた。 「わ、分かればいいんだ」 「失礼します」 首に巻いたタオルで涙を拭いた彼女は、床に散らばったゴミを手でさっと拾い上げ片付け、部屋を去って行った。その悲しい背中を三人は黙ってみていた。 「……係長、あれはないと思います」 「サイテー」 「二人とも。とにかく仕事だ」 姫野は自分を冷たい眼で見る松田女史と風間に必死で言い訳し、椅子に座りなおした。しかし普段通り仕事をしている姫野は、気分が重かった。 ……あんなに若い女だと思わなかった。しかも、俺の言葉で涙ぐむとは……これでは俺が悪者じゃないか? そんな思い悩む彼に電話が鳴った。これを取った松田が尋ねた。 「あの、係長。時計台クリニックの先生からお電話ですけど、切っていいですか?」 「おい?駄目に決まっているだろう、貸せ!はい、代わりました、姫野です」 松田女史の冷たい視線を浴びながら姫野は仕事をしていたがさすがにこの空気に耐えられず、廊下に出た。すると人影がさっと消えたような気がした。 「なんだ?」 「これって……先輩が意地悪言うから、小花ちゃんが隠れちゃったんじゃないですか?」 背後から聞こえた風間の冷たい声に、姫野は振り向いた。 「風間……それが先輩に言う言葉か?」 「姫野先輩こそ、かよわい清掃員に言う言葉でしたか?……別に、俺はもう辞表を預けていますから。気に入らなければどうぞ首にして下さい」 生意気な部下に立腹しなからも、この後は二人で得意先の病院へ向かった。 ◇◇◇ 「先生。新薬の件ですが」 「わかってるさ。それよりも姫野君、今度楽しい所に連れて行ってくれよ」 基本、薬は必要なものであり夏山愛生堂のライバル会社は小規模であった。何もしなくても売れる医薬品卸の営業マンの仕事は、とにかく医者と仲良くすることだった。 「なあ、姫野君」 「そ、そうですね」 ……どうするかな。この先生は流行っているものが好きなんだよな。 真面目で硬派な姫野が考えあぐねていると風間は生き生きと話し出した。 「先生!あの、ナイトプールって知ってますか?キングホテルでやってる大人向けの夜のプールなんですよ。若い女の子がいっぱい来てますよ」 「……風間君。そういうのを早く言ってよ?今度の木曜日はどう」 「OKです!迎えに来ますので、一緒に行きましょう先生!」 仲良くハイタッチする二人を見て、姫野は作り笑いをするのに必死だった。薬の知識は豊富な姫野だが、遊びにかけては風間に全く及ばなかった。 真面目に勉強してきた姫野には、医者達が満足するような遊びをうまく提案できないのが悩みであった。 マージャン、飲み会、女遊び……どれも姫野が勉強してきた科目では無かった。 風間はススキノにある老舗の薬局の息子であり私立の薬学部出身の彼は、遊びに掛けては社内一で、『ススキノプリンス』と呼ばれているほどだった。 この日、仕事を終え風間と別れ乗った地下鉄南十八条の駅を降り、ライラックの香る夜道を歩き姫野は自宅マンションに入った。 大学時代から交際していた彼女とは1年前に別れており、今だ独身で独り暮らしの28歳の彼は部屋に入り、スーツを脱ぎハンガーに掛けた時、ふと小花の心配そうな顔を思い出した。 ……『お洋服は汚れませんでしたか?』か。あの時、俺の心配をしてくれたのか……。 この夜、風間の『サイテー』という言葉のリフレインを消す様に、姫野は必死にシャワーを浴び六月の一人夜を過ごしたのだった。   第4話へ <2018・8・14>
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