50 うたってよ愛の歌を

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50 うたってよ愛の歌を

「あーあ。緊張してきた」 「私の口紅、はみ出してない?」 「客席からそんなもの見えないわよ」 控室で次の番を待つ塩田夫人とその熟女達は、落ち着かなかった。 「みんな見なさいよ。彼女を。昨日いきなりピアノを頼まれたのに堂々としているじゃないの」  ステージの袖で、怪我のせいで演奏ができなくなった女性から小花はアドバイスを受けていた。 「では楽譜をめくって下さるんですね。はい、助かりますわ」  ステージ裏では、手首に包帯を巻いた女性と小花が打ち合わせをしていた。 「小花ちゃん。今日は急でごめんね」 「いいえ。ついででしたし」 「ついで?」  彼女の言葉に風間は首をひねった。 「さあさあ。風間君は客席で大きな拍手をおねがいね!」 塩川夫人に追い出された風間は、渋々廊下に戻ってきた。 「どうだ。彼女の様子は」 「やっぱり来てるし……」  ロビーにいた姫野に風間は肩をすくめた。 「おい。風間。お嬢の出番はいつだ?」 「渡部長まで……しかもその花は何ですか?」 「演奏した後に渡すに決まっているだろう」  ピンクのバラの花束を抱えた渡は、お前は何を言っているんだ、というあきれ顔で応えた。 「もう!あ?そんな事よりもはじまっちゃう!席は3人分買わせられたから、二人の分もありますので移動しましょう!」  休憩時間の間に、三人は席に移動した。 こうして始まった合唱コンクール。塩川率いるドクター夫人の会は、最終から二番目だった。 「渡部長。前の組が終りました。今度が彼女の番ですよ」  拍手をする風間を真ん中に、両サイドに姫野と渡が座っていた。 「ああ。花束は俺に任せろ」 「もしかして渡部長。演奏終了後に、ステージに近付いて渡す気ですか?」 「あたぼうよ。お嬢に花を持たせるとはそういうことだろう」 「彼女は代理の演奏者ですよ?合唱する人をさし置いて渡せるわけないでしょ!」 「あのですね。俺を挟んで話をしないで下さい」 「姫野が何と言おうと、俺は俺のやり方でお嬢をサポートする!」 「部長!」 「うるさい!始まりましたよ。あ……みて!小花ちゃんだ!」  合唱する白いブラウス集団の最後に、彼女が登場した。 「……せーの。『こ、はなちゃーん』!!」  渡は片手を頬に当てて、声援を送った。 「部長!止めて!」 「むぐむぐ?」  慌てて口を押さえた風間は、渡が鉢巻きをしているのに気が付いた。 「何これ?小花 命って」 「黙れ!始まるぞ」  渡に叱られた風間は、呆れて椅子に背持たれた。 『次の組は、札幌ドクター夫人の会です。曲は「十六の僕へ」です』    そして指揮者の合図で、小花のピアノの演奏が始まった。その調べは滑らかで、コーラスもスムーズに歌い出した。 指揮に合わせて、身体を揺するように弾く彼女。 目を閉じ、耳を澄ます渡。 手に汗を握る風間。 じっと見つめる姫野がいた。 やがて優しい演奏は間奏になると、ピアノは急に力強くなった。 ランランラ………ランランラ……。 そして転調、転調、転調! 声量もクレシェンドで迫力が増して行った。 クライマックスに近付くにつれ、歌う者を引っ張るように強まる演奏。 今を生き抜いて行こう……。 そして。 最終ではまた優しい音色になり……終った。 拍手に包まれたドクター夫人達に、小花は音楽の起立、礼、着席を意味する、チャーンチャーンチャーンを弾いた。 「お嬢!お嬢……」 ステージに駆け寄るタイミングを逸した渡は、小花に気が付いてもらえす、花束を抱えたまま席に戻ってきた。 「当たり前ですよ。彼女は助っ人なんですよ」  肩を落とす渡りに姫野は冷たく言い放った。 「行きますか。ステージ裏に。ほら渡部長も」  風間に連れられて渡も姫野と歌い終えたドクター夫人達に挨拶に行った。 「まあ。私に花束を?」  歌い終え感無量の塩川夫人は、嬉しそうに駆け寄ってきた。 「そうです。ほら?渡部長。それは代表の塩川夫人に渡して下さいよ!」 「……風間がしろ。うううう」  こうして風間から渡された花を夫人は大層喜び、仲間と写真を撮っていた。 「ところで。小花は?」 「あれ?さっきまでここにいたのだけれど」  すると仲間の一人が、あっちと指さした。 「……あれは?」 「姫野君知っているの。あの人達は今日の」  塩川夫人の声は客席から聞こえて来た盛大な拍手でかき消された。 ◇◇◇ 「……みんな!ウォーミングアップは済んだでしょうね?」 「はいっ!」  八人は大きな返事をした。 「……久美。今日の相手は?」 「問題無いっしょ。リズムが大事だから!しっかり私に合わせてね」 「はいっ!」 「知子。指の方は?」 「テーピングしたから大丈夫。それよりも!集中して行こう!集中!」 「はいっ!」 「じゃ。円陣組むよ……」  大きなグローブみたいな手に、九人の手が重なった。 「中島公園一丁目――――――――。ファイ」 「おう!」  どんと足踏みして、九人の乙女はステージに向かう所だった。 「あれは……小花の近所の人だ」 「先輩の知り合いですか。なんか妙に背がでけえ?あ、小花ちゃん」 「風間さんに姫野さん。渡さんも?」  意外そうな顔の彼女の背後から、メイクアップした猪熊がやってきた。 「でたね。色男。私達のステージはここじゃなくて客席で見なさいよ。ほら!早く」  そして姫野と風間は客席へ戻ってきた。 『……それでは審査をしている間に、ゲストのご紹介をします。本日お越しのコーラス隊は、札幌の老人施設にボランティア活動されている方々です。大変人気がございまして、今回は一年前から予約をした次第であります。それでは拍手でお迎えください』 ステージには、白いドレスを来た長身の女性達が現れた。 『ご紹介します。中島公園一丁目、猪熊さんと仲間達です。本日は、札幌の曲のメドレーです。それでは……どうぞ!』  猪熊をセンターにしたコーラス隊。ピアノは知子。指揮者は久美。 拍手に包まれて、久美の杖が振り落とされた。 ………ジン ジン ジンギスカン…… 「風間。この歌は何だ?」 「え?知らないんですか?外国の曲ですけど」  風間の隣の渡も、さびの所だけ一緒に歌っていた。これを一緒に唄う二人を姫野は驚きで見ていた。 そして曲は札幌の人にしかわからないメドレーが続いた。 この他にはテレビコマーシャル名曲。『カムバックサーモンの歌』。『山親父のうた』など。札幌の人しか分からないような歌で拍手を集めた猪熊はマイクを取った。 『アンコールにお応えします。お聞きください。虹と雪のバラード』 札幌オリンピックのテーマソングで会場は包まれた。そして歌い終えた後、夕立のような拍手に会場は包まれた。 「一体これはなんなんだ」 戸惑う姫野もスタンディグオベ―ションをしていた。 「俺……まだ猪熊さんの甘い声が残っている」 「いいから。血が出るまで拍手をしろ!」  ステージ上には仲間と一緒に挨拶をしている小花がいた。 「お嬢!お嬢。最高、お嬢!」 渡の声に気が付いた彼女は、恥ずかしそうに三人を見つめた。 「アンコール!アンコール!」  必死の渡の想いも空しく、九人はステージを去った。 ステージ裏。イエーイとハイタッチを交わしている九人の中に、姫野は彼女を見つけた。 「おい!小花」 「姫野さん。聞いて下さいましたか?」 「あ?小花ちゃんの彼氏だ」  姫野の周りには、長身の八人がずらと並んだ。 「今回はありがとうね」 「何がですか」 「何がじゃないよ……こっちに顔貸せよ」  久美に首を取られた姫野は、知子の元に連行された。 「助かりました。昨日まで彼女。最後の曲は恥ずかしいから嫌だって尻ごみしていたんだけど。誰かさんが何かを言ってくれたおかげで、心変わりをしてくれたみたいで」 「へ?」 「『もう、逃げないって。私、大切な人と約束したんです』って。あんたの事でしょう?」 「う!確かに。そう言う話でしたが」 「こらこら?コートじゃなかった。ステージで喧嘩は止めてね」 「はい!」 「それと。色男!」 「はい!」  面倒なので否定しないで返事をした。 「……最近、小花ちゃんの家に出入りしている黒い車の男っていうのはあんたかい」 「はい!」 「いい加減な気持ちで交際しているんだったら。中島公園一丁目がただじゃおかないからね」 久美と知子にも睨まれた姫野は、背筋を伸ばした。 「はい!自分は、真剣に考えております」 「泣かせるような事をするんじゃないよ。こっちはナンバーを控えているんだから。それに……おかげで肩は治ったから」 「私も。耳鳴りは軽くなった。更年期だって」 「いいえ。俺なんか大した役に立てません。皆さんの方がご立派です」 こうして終えた姫野は一人、車を停めた駐車場へ歩いていた。風間はドクター夫人の打ち上げにお付き合いだし、渡も自宅へ帰った。 小花は猪熊軍団と帰るのだと思っていた。 「待って!姫野さん」 「……小花……いいのか、用事は」 「はあはあ。猪熊さんが、今日はもう帰って良いって」  会場の階段を下り膝に手を付いて息を整えている彼女は、白いドレスのままだった。 「いいのか。本当に俺で」 「何がですか?」  身体を起こした彼女は、長い髪を下ろし、白い肌は夏の風に吹かれていた。 場違いな恰好の彼女に、通り過ぎる人が振り返っていた。 ……花嫁みたいだ。 「姫野さん?」 「……行こうか。まずお前の家だな」 「そうですわね。このドレスは家から着て来たんですもの」  二人は一緒に歩き出した。その頃、八人の元乙女は着替えをしていた。 「はあ。しかし。綺麗な声だったね」 「ドレスも素敵だったね。あれ、猪熊さんのでしょ」 「ああ。私のウエディングドレスなんだけど。小花ちゃんには黙っておきなよ」 「あんなにウエスト細かったの?」 「昔は誰にでもそういう一瞬があるもんさ」 「幸せになってもらわないとね」 ここで久美が男前に手を叩いた。 「さ!行くよ!カラオケだよ!猪熊さんも立って!」 「ああ。歌おうか、愛の歌を……」 夕焼けの札幌の街に、今夜も愛の歌が流れるのだった。 完
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