78 花の匂い

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78 花の匂い

「良子の住んでる良い街は♪……っと」 早朝の爽やかな青い空気の中を良子は大手を振るいながら歌い、カーブを曲がった。 「おはようございます」 「おはようございます」 彼女は毎朝出会う犬の散歩の初老の男性と挨拶を交わした。 「……たのしい、たのしい、歌の、おっと?」 水たまりなのか、それとも犬のおしっこなのか怪しい黒い跡を大股で交わして彼女は自宅へと戻ってきた。 そしてシャワーを浴びて身支度を整え、朝食も済ませて良子は会社へやってきた。 「良子部長、おはようございます」 「おはよう、小花ちゃん」 玄関掃除をしていた小花とご機嫌に挨拶をした彼女は、彼女の首元に光る物を見つけた。 「そのネックレスどうしたの?」 「あ?嫌ですわ。うっかり着けてきてしまいました」 彼女は恥ずかしそうに胸元を触った。 「もしかしてそれ。姫君にもらったの?」 「え?まあ。恥ずかしいですわ」 そういって頬を染めた小花を良子は目を細めて見つめた。 ……そうか。ネックレスね……。 「別にそれくらい仕事中に着けていても平気よ?じゃあ、又昼休みにね!」 そう言うと良子は階段で二階にある更衣室で着替えると、階段で五階まで上がり自分の椅子に座った。 「おはよう!」 そして眼薬を挿し、老眼鏡を掛けた。 「気合い入ってますね」 「ホホホ。何言っているの?いつもの事じゃないのよ。さあ。仕事、仕事」 こうして良子は仕事を開始した。 その昼休み。 良子部長率いる財務部は、男性課長を一人とする女子軍団だ。 全員が一斉に昼休みになると業務に支障が出るため、半分ずつに分かれて休憩をしていた。 「あ、早いっすね」 蘭と美紀が休憩室に来た時にはすでに良子とその部下達が弁当を広げていた。 「みなよ、良子部長のお弁当」 「うわ?凄!」 「ホホホホ。料理教室に通っている私の実力を見なさいよ」 手の込んだ料理が小さなお弁当箱に収まっていた。 「しっかし。どうしたんですか。今まで女子力ゼロだったのに」 蘭はそういって畳みにドスと座った。 「愛の力に決まってるじゃん。ね。そういえば手塚さんと進展あったんですか?」 良子はゴホゴホと咳き込んだ。 「マジで?」 「ちょっと!待ちなさいよ。まだそこまで行ってないってば!」 そういって良子は箸を置いた。 「彼はお母さんの介護で大変なのよ?私はまだ飲み友達のままよ」 そういってお握りを頬張った。 「そうですか……。うちも先日の道銀の人との飲み会やりましたけど。あれは道銀カードと投資信託の勧誘でした。手応え無しっす……」 そんな二人を美紀は交互に見つめた。 「何言っての?こ、これからでしょ」 「そうだった!そうなのよ。実は私ね……」 美紀の励ましに良子は手をパンと叩いた。 「私。小花ちゃんの真似をする事にしたのよ!」 「「真似?」」 休憩室にいた女子社員はみな耳を大きくした。 「そう。あの子の様なふるまいをすれば、こんな私でも世の男性の気を引くことができると思うのよ」 この意見に美紀は首を傾げた。 「それはちょっと……キャラは余りにも違いますよ」 「分かってるわ。無謀だってことは。でもね、身近にいる女子力満載の彼女を見本にするのが一番だと思うのよ」 「ちなみに。何を真似しているんですか」 良子は朝のウォーキング。手作り弁当。ガーデニングなど小花の日常生活をフルコピーしていると話した。 「今朝はネックレスしているのを発見したから。私も着けるわ!」 そういって卵焼きに箸を突きさした良子の意気込みにさすがの美紀も溜息を付いた。 「失礼します。皆さん賑やかですわね」 ここに噂の彼女が登場した。 「あ、小花ちゃんいい所に。あのね、聞きたい事があったのだけど」 良子は小花を自分の横に手招きした。 「あのさ。ずっと気になっていたんだけどさ。小花ちゃんていい匂いがするんだけど。なんの香水を着けてるの」 「?何も着けていませんわ」 しかし、良子は小花の髪を取り、クンクンと嗅いだ。 「……いい匂いがするわよ。ほら、皆も嗅いでご覧?」 休憩室にいた女子は集合して、各々彼女の髪の匂いを嗅いだ。 「薔薇?」 「ラベンダーかな」 「甘い匂い……」 「ハーブの香りも混ざっていて……」 女子社員はこの香りにうっとりしてしまった。 「でしょう!これがモテる匂いなのよ。小花ちゃん。意地悪しないで教えてよ」 「もしかしたら、入浴剤の香りかしら」 「入浴剤?どこのを買ってるの、それ?」  小花は自分で作っていると話した。 「姫野さんが、疲労回復になると褒めて下さいましたので、時々宿直室の御風呂に使っていただておりますの。今日も持ってきましたので置いてありますわ」 「それ欲しい!私、宿直室に行ってくるわ!!」 お弁当をかき込んだ良子は、宿直室の風呂場に直行した。 「ニュウーヨク♪ニュウーヨク♪……」 良子は風呂場の扉をカバと開けた。 「なんだ?」 彼女の眼の前には湯気に包まれた美尻が飛び込んでした。 「ヒィヤーーー!?……すみません!」 男の裸に腰を抜かした良子はほふく前進でなんとか、宿直室から出て来た。 そこに悲鳴を聞きつけた松田がやってきた。 「良子部長、そこで何をしているんですか?」 「松田ちゃん……やばい。風呂場に誰かいて、私、裸を見ちゃったわ」 この時、誰かが風呂からでた音がした。 「とにかく。逃げて下さい!」 松田がエレベーターに良子を乗せ、自分は中央第一に戻った。そこで風呂上がりの男性がやってきた。 「おい!今ここに痴女が来なかったか?」 「社長?……」 ポロシャツ姿の慎也の髪は濡れていた。 「来ませんよ、どうかなさったんですか?」 慎也はシャワーを浴びていたら女がいきなりドアを開けたという。 「湯気で良く見えなかったけど、女だったぞ」 すると石原はすくと立ち上がった。 「松田はずっとここで電話をしていたので違いますね。社長の気のせいじゃないですか」 「いや!絶対尻を見られた」 「ハッハッハ。アーッハハハ」  パソコンに向かっていた風間は何の遠慮も無く腹を抱えて大笑いした。 「風間……。お前、絶対許さないからな」 「なしてですか。俺、尻は見てみませんよ?」 「じゃ、お前の見せろ」 「ええ?ダメですよ!」 「社長。私でよければ」 「いい加減にして下さい!ここは会社ですよ。社長も、そんな髪が濡れたままでは風邪をひきますよ」 松田は営業所にあったタオルを慎也に渡した。 「でもなして風呂に入ってたんですか?」 「そういえば、たまに宿直室で寝てるって噂ですがね。本当なんですか」  松田に即された慎也は髪を拭きながらソファに座った。そして彼女の差し出した麦茶を飲んだ。 「……うちの社員が宿直しているから、どんな様子なのか一度部屋を使ってみようと思って昼寝したことがあるんだ。そうしたらこれが意外にも居心地が良くてさ。あの古いタイルの風呂もなんとも言えない味わいがあって。凄くリラックスできるんだ」 「くんくん。あ、この香りってまさか」 「あのピンクの入浴剤の匂いだろ?これいいよな。俺も好きなんだ」 そういって慎也は自身の腕の匂いを嗅いだ。 「勝手に小花ちゃんの使ってるし!」 「なんでそんなに怒っているんだ?」 「失礼します。あ、いた社長!」 そこに社長秘書の野口がやってきた。 「午後の会食に間に合わなくなりますよ」 「はいはい。じゃ、風間。風呂掃除よろしく」 そういって麦茶を飲みほしタオルを松田に返して慎也は去って行った。 「俺、今夜の当番だったのに。またあの入浴剤使えなかった!」 「そうか。一応小花ちゃんに社長が御風呂に入って事を知らせておくか」 内線を掛けてこれを彼女に伝えた松田達は、通常業務に戻った。 その頃。養命酒を飲んでようやく気を落ち着かせた良子も通常業務に戻った。しかし、小花お手製の入浴剤がどうしても気になっていた。 そして夕刻。 5階に彼女が清掃にやってきた。 「あ。あのさ。小花ちゃん。例の入浴剤、私に作り方を教えてくれないかしら?」 「……ダメですわ。あれは秘密ですの」 「そんな意地悪いわないで。お願いよ!」 そう言って良子は小花の清掃服を手でつまんだ。 「困りましたわ……。明日、お持ちしますのでそれでお許し下さいませ」 小花は良子を丁重に振り切って隣の部署を掃除して行った。 翌朝。 良子のデスクの上には紙袋が置いてあった。 「ウフフ。これよこれ」 ペットボトルにはピンクの液体。この蓋を良子はぐっと開け匂いを嗅いだ。 「んーーーーー。甘いわ……」 そして昼休み。 ランチを食べ終えた女子部下達に、この匂いを嗅がせて内容物を訊ねた。 みなの意見ではラベンダー、ローズマリー、なんかのハーブという事しか分からなかった。 昼休みに小花に逢えず良子は残念だったが、午後の業務に戻った。 「良子部長。風間がまた債権を回収したので入金して欲しいのですが」 「お。姫君。それはやっとくけどさ。この入浴剤って……」 彼女はこれについて一番詳しそうな姫野に内容物を訊ねた。 「たしかにラベンダーオイルとか買っていますが、それだけじゃないですよ。彼女の自宅の庭にはハーブがたくさん植えてありますからそういうのをブレンドしていると思いますよ」 「ハーブ……これは本格的ね。だから秘密なのかしら」 「彼女は化粧水とかも手作りしてますが、亡くなったお母さんから教わったものだっていってましたので、秘伝のレシピとか、そういう事じゃないですか」 「そ、そんな大切なものを?私ったら……」  思わず目頭を熱くした良子を見て姫野はふうと息を吐いた。 「同じものじゃなくて、良子部長オリジナルの入浴剤を彼女に考えてもらえばいいんじゃないですか。きっと、喜びますよ」 「え」 「では俺はこれで。入金よろしくお願いします」 そういって姫野は去って行った。 「私だけの私のための入浴剤……。よし。後で頼もうと!」 こうして良子は必死で仕事をし、夕刻の清掃で顔を出した小花に入浴剤の礼と、オリジナルブレンドとその作り方の伝授を頼んだ。 「材料費は出すから!お願い!小花ちゃん」 「……良子部長が御自分で作れるようなもの?……よろしいですわ、でも少々お時間下さいね。えーと、良子部長の香り……何が良いかな……柑橘系、いえお歳も考えないと……ブツブツ」 そう考え込みながら彼女はモップを掛けて行った。 その夜。 自宅の風呂に小花にもらった入浴剤を入れた良子は、その甘い匂いに思わず身を震わせた。 ……二十歳くらい若返りそうだわ……。 こうして風呂を堪能した良子は小花を見ならってストレッチをし、床に付いた。 翌朝。 中央第一営業所では、朝早く出社していた姫野は匂いの実験台にされていた。 「こちらは、柑橘系、こっちは樹木の香りですの……いかがですか」 「樹木の香りは、どうも年寄りくさいな……。柑橘系は良子部長には甘すぎないか?」 「そうですか、じゃ、柑橘系にして、この甘い匂いをもっと抑えて見ましょう……そうだ、アレを入れないで、アレを使えば……」 椅子に座っていた姫野の隣で考えに夢中な小花はそっとペットボトルの蓋を締めた。 その時、姫野は突然立ち上がった。 「ちょっといいか?」 「はい?」 彼はその思案顔の彼女の耳元に顔を近づけた。 「な、なんでしょうか?」 頬を赤らめる彼女を逃がさないように彼はかるーく抱きしめた。 「……一日中この匂いを嗅いでいたい……」 「え?姫野さん……もう。他の方が来る時間ですわ」 「もう少しこのまま……」 「おはようございます!あ、また甘えている?!こら!離れろ」 「おはよう。って何してるんだ?おい、姫野!まだ朝の7時だぞ?」 「おはようございます。あらあら……」 夏山ビルに東の太陽が眩しく当たっていた。 その日差しは札幌の短い夏の到来を告げていた。 完
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