133 僕の先生は

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133 僕の先生は

「それではまず国語の話をします。まずは昨年のデータです」 講師はスクリーンにデータを映し出した。 「北海道公立高校の入試試験の国語。これには小説か論文の何れかが出題されますが、このデータを見るとある事が判明します」 そこには過去の出題された問題が載っていた。 「論文、翌年は小説。次は論文と来ていますので来年は恐らく小説が出題されると私どもは睨んでおります」 「すごいわ。ねえ?伊織さん」 「……その次の方がすごいな。小説の主人公も毎年男、女、男、と交互に来ているらしいから。来年は女だな」 札幌プリンセスホテルの会場で塾の説明を聞いていた二人は、感動していた。 「さすが進学塾ですね。ああ、松田さんに聴いてほしかったです」 「仕方ないさ。風邪でダウンだもんな」 前から二列目に座った二人は講師の話を珍しく真剣に聞いていた。 「難関校ですと国語に関しては90点、必要です。取りこぼしの無いように最初に出される漢字もおろそかにしないようにしましょう」 「……おろそか、も難しいわ」 「そうだな。俺も書けないし」 変な所に関心している二人だったが、次は数学の説明になった。 「数学です。まずはこの図形をご覧ください。昨年の入試問題です」 そこには複雑な形の四角形があった。 「この図形の中にある斜線に示された小さな三角形AOBの面積を求める問題です」 見ているだけで頭痛のしてくる小花だったが、伊吹のために必死に目をそらさずに講師を見つめた。 「これはですね。色んな方法で求める事が可能ですが、いいですか?ここに一本線を書きてみます……いかがですか?これでこの図が台形になるのが分かりますか?」 たった一本線を書きいれるだけで簡単に面積を求められるという講師の声に、小花は隣の伊織に訊ねた。 「でも、どこに引けばいいのかはわかりませんわ」 「まあ、どこでもなんでも引けばいいってもんじゃねえしな。頭の良い人にはそういう線が見えるんだろうな……」 二人は唸るように声をあげると椅子に背持たれた。 「数学は大変難しいです。ですから時間を気にしないと時間内に解けません。 具体的にいいますと大問題1から4までは20分で進まないと最後まで行きません」 この辺から小花は伊織にもたれて眠り始めていたが彼はこれを許していた。 そして理科、社会は知識を増やす事。英語はとにかく慣れる事と、ざっくばらんな説明は終わった。 「『お勉強ガール』?終りましたよ」 「ん?……あれ?いつ間に」 「大丈夫だよ。今日は俺がちゃーんと聞いたからさ」 さあ帰ろうと伊織は彼女と席を立った。 「あのさ。伊吹に絶対家まで送れって言われているから送らせてくれよ」 「大丈夫ですよ。まだ時間は6時ですもの」 しかし、伊織は譲らず彼女に手を合わせた。 「それにさ。小花ちゃんに訊きたい事はあるんだよ!なあ。助けてよ。食事をしながら訊いて欲しいんだ、伊吹の事で」 「伊吹君の事ですか?それなら……」 こうして伊織は小花を連れてこのままプリンセスホテルのレストランに向かった。 入った高級寿司屋の個室で、伊織は適当にコース料理を頼んだ。 「すまないね。俺、ビール飲むから」 そういってごくごく飲んだ彼に、小花はポツと話しだした。 「ところで。前から訊きたかったんですけど。伊織さんと伊吹君って声がそっくりですね」 「……そうかい?」 彼は口の周りの泡をそっと拭った。 「はい。だから今日は隣にいるのが伊吹君かと思って、すみません。甘えて寝てしまいましたわ」 恥ずかしそうに話す彼女に、伊織はどこまで説明しようかと思案した。 「そ、そうだったんだ」 「寝ぼけてしまって、あの」 すると伊織は、眉をひそめた。 「別にいいんだよ?オジサンは何―にも気にしてないから。それよりも、君に頼みたいんだ」 そういって伊織は小型のゲーム機を取りだした。 「伊吹ってさ。オンラインゲームでは有名人だったんだろう?オジサンもその世界を覗いてみたいんだけど。最近のゲームの事はさっぱりなんだ」 「お待たせしました。どうぞ」 料理が届いたので、二人は食べながら話し続けた。 「伊吹君は地球防衛隊というオンラインゲームの世界では有名人だったようですよ。でも姫野さんのご兄妹のゲームチームに誘われたので、今はお勉強中なんです」 「そこがオジサンにはよくわからないんだよ。どうして勉強になるんだよ」 小花はお寿司を箸で食べると、目を瞑ってどうやって説明しようか考えていた。 「それがチーム加入の条件なんだそうです。これは姫野さん自身がお父様と約束したそうです。ゲームをやるなら、現実でも勇者であれ、と」 「……お父さんと」 「はい。そして姫野さんも大学進学で一番を目指したそうです。そして姫野さんの双子の弟さんも東京の慶王大学に通っていますわ」 「みんな約束を守っているんだな。そうか、だから伊吹はトップ合格を目指しているのか、そうか……」 いつの間にか夕焼けから夜景になっていた窓の景色に、伊織はビールをあおった。 ……姫野君の方が、伊吹の父親みたいで、力になっているんだな。俺なんか何もしてやってないし。 「はあ……へこむな……」 そういって肩を落とした伊織の皿に彼女はお寿司をどんどん置いた。 「ねえ。伊吹君。このヒカリモノ食べて……鈴子は無理なの。は?ごめんなさい!また伊吹君と間違えちゃった……」 「フフフ。いいけどさ。そんなに似ているかい」 「ええ。でも声だけじゃないんです。雰囲気というか、空気というか……本当に私。どうしちゃったのかしら」 そう言って彼女は御絞りで手を拭いた。 「あのですね。伊織さんは松田さんの恋人なんですよね?それで伊吹君とも仲良しなんでしょう?三人を見ていると良く分かりますわ」 すると今までヘコンでいた伊織は顔を上げた。 「そう?」 「はい。それに松田さんは、伊織さんに優しいですもの」 「え、冷たいと思うけど」 「他の男の人にはもっと冷たいですよ。伊織さんだけは違う気がしますの」 「すみません。日本酒ください」 小花が食べられない寿司を食べた伊織の酒のピッチは進んで行った。 「後さ……優子って夏山でモテるんだろう?」 「そうだと思いますが、男性には見向きもしませんわ。仕事一筋で、尊敬できる方ですわ」 「すみません。瓶で持って来て!」 こうして美味しい酒が進む伊織は、優子と伊吹への愛を吐露した。 「……オジサンはね。訳があって優子に告白できないから、辛いんだよ」 やがて酔った伊織はめそめそ泣き出した。 「伊吹の事には何も力になってやれないし……俺はダメな男なんだよ」 そう言う彼を見た彼女は伊織が酔っている事に気が付いた。 「伊織さん。ねえ?お水をどうぞ」 ……ZZZZZZ…… テーブルに突っ伏して眠ってしまった伊織に、小花は唖然とした。 本当に寝たのか何度もツンツンと身体を突いたが、彼はちっとも目覚めなかった。 ……どうしましょうお会計もまだなのに。 少し眠れば起きるかもしれないと思った小花は、一先ずこのまま彼の見守る事にした。 ……松田さんは風邪だし。伊吹君は勉強中だから呼べないわ。姫野さんは誤解 するし。風間さんを頼るのも悪いわ……。 しかし。30分経っても起きない彼に業を煮やした小花は、決意した。 まず、会計を唯一保持しているクレジットカードの札専カードで支払った彼女は、プリンセスホテルに頼んで車椅子を借り彼を載せた。 そしてエレベーターで1階に下り、タクシー乗り場までやってきた。 運転手の手を借りて彼をタクシーに載せた小花は、車内から伊吹にこの状況を説明しておいた。やがて彼は松田の住むマンションにやってきた。 タクシーが停まると、正面玄関には伊吹が立っていた。 「全く……ほら、立って!」 「うーん……」 伊吹が肩を貸すと歩き出した伊織の荷物を持った小花は、タクシー代を払い、伊吹とエレベーターに乗り込んだ。 「伊織さんは、うちの隣の部屋なんです」 今夜の伊吹は風呂上がりなのか髪が濡れていた。 「今夜はうちに連れて行きます。あ、この階です」 そして松田の部屋までやってきた。 「ほら!もう少しだから!母さんが風邪で寝込んでいるのに!もう」 「……」 完全に寝落ちしている伊織を引きずりながら部屋に入れた伊吹は、小花にも家に上がって欲しいと言った。 「よっと。このソファで良いか……はあ」 下ろされてスヤスヤ眠る伊織に、伊吹ははあと溜息を付いた。 「ごめんなさい、小花さん。伊織さんが迷惑かけて」 「ううん。あの、これ食事代なんですけど、私の分は差し引いて、後で良いので返して下さいって伝言してね。領収書預けますね……では遅い時間なので、帰ります」 そういって忍び足で玄関に向かう彼女に、思わず伊吹は後を歩いた。 「小花さん。今夜は本当にごめんね」 「いいの。伊吹君も風邪引かないでね。松田さんによろしく」 本当は彼女を自宅まで送りたい伊吹だったが、風邪の母と、飲み過ぎでぶっ倒れている父を置いてはいけなかった。 「気を付けてね。小花さん」 「はい。伊吹君もね」 こうして彼女は一人マンションを出て、駅まで歩いていた。 夏の夜風は肌寒かったので、彼女はバックから上着を取り出して着た。 向いから歩いてくるカップルが手を繋いでいるのを見た彼女は良いな、と思っていた。 ……羨ましいな……。 彼女はそんな人の中、自宅へと歩いて行った。 ……『訳が合って、告白できないから辛いんだよ』か…… 彼女は伊織の言葉が離れずにいた、 ……姫野さんもそう思っているのかしら。でも辛そうには見えないけど。 その時、彼女の携帯が鳴った。 「もしもし。え?私がどこにいるのかって?ここは……もうすぐ駅かな」 『車で家に寄ったら電気が付いていなかったら』 姫野の声を耳元で訊いた彼女は、急に逢いたくなった。 「地下鉄の美薗(みその)駅の前におりますの。姫野さん来て下さる?」 『ああ。待っていてくれ』 電話を終えた彼女は、彼が来る方向を考え、道路を渡り車が停まってもいいような場所に佇んでいた。 やがてそこへ黒いフェアレディZが到着した。 ウイインと助手席の窓が開き挨拶を交わした小花は彼の車に乗り込んだ。 「……疲れました。迎えに来ていただいて、ホッとしました」 「松田さんに頼まれて塾の説明会に行ったんだろう?それなのにどうしてこんな所に要るんだ」 「松田さんには彼がいらっしゃって。その方とご一緒だったんですが、その方が食事中に眠ってしまったんですの。だからさっき松田さんの家に送って来ました」 「松田さんに彼?しかも送った??」 「……そんなに驚く事無いと思いますけど」 彼女は本当にくたびれたので、足をのばして椅子に背持たれた。 「おいおい、まさか寝るつもりか」 「いいえ。説明会で熟睡したのでまだギンギンですわ。足が……疲れただけ」 赤信号で停車した彼は、隣の席で目をつぶる彼女を心配そうに見た。 「塾の話が濃かったの。ねえ、姫野さんもあんなに勉強したんですか?」 青信号になったので姫野は車をスタートさせた。 「俺か?高校受験の時はさほどでもない。だが大学受験の時は、すいぶんやり込んだな。母親が心配して俺を医者に連れて行ったくらい夢中になって勉強したんだ」 「夢中か。鈴子は勉強には夢中になれないわ。本当は早く卒業したいのに」 このセリフを聞いた姫野は、塾の話を聞いた彼女は自分の不出来を嘆いていると悟った。 「一つずつ。ゆっくりクリアすればいいんだよ」 「ゆっくりじゃダメなの。鈴子は早く姫野さんと一緒に手を繋いでデートしたり、旅行に行ってみたいの。だからもっと頑張らないといけないのね。はあ」 そういって車窓から夜景を見ている彼女は、肩を落として目をつぶった。 「鈴子。ちょっと寄り道して帰ろうか」 「どこにいくの」 「いいから。もっとこっちに来なさい」 姫野は彼女の肩を寄せ、ハンドルを握った。 その後、彼女の愚痴というよりも勉強が出来ない言い訳を聞いてあげた彼は、彼女を夜景スポットまでやってきた。 「うわ……綺麗。ここは藻岩山でしょう」 「ああ。今夜は車が空いていたな。降りてみようか」 二人は眼下に広がる夜景を眺めていた。 「鈴子。こっちにおいで。少し寒いだろう」 姫野は彼女を胸に抱き一緒に自分の上着を羽織った。 「……温かい」 「なあ。鈴子。俺達は確かにまだ正式な恋人という訳ではないが、限りなくそれに近いものだ。俺は鈴子が一番好きだし。……だから手を繋いで歩きたいとか、旅行に行ってもいいんだぞ」 そういって姫野は彼女の髪を優しく撫でた。 「ダメよ。伊吹君も受験までゲームを我慢しているし、伊織さんだって」 「何だって?最後の方が聞えなかったが?」 「ううん?何でも無いの!とにかくみんな頑張っているんですもの。鈴子だけずるは出来ないもの」 すると姫野は彼女をギュウと抱きしめた。 「分かった!じゃあ、お前から甘えなくても俺がそうするから……」 そういって彼は鈴子の顔に頬を寄せた。そして片手を腰に置き、片方の手を指をからませて恋人繋ぎをした。 「急がなくていいんだ。ここまで来たら俺はとことん待つから」 姫野にべったりくっついていた彼女は、彼の胸に顔を埋めた。 「もう少し……このままで」 「ああ」 この夜。まるで光合成するかのように、二人は夜景を堪能して過ごした。 翌朝。 元気な声は中央第一営業所に響いていた。 「おはようございます。まあ?松田さん、お元気になったんですね」 「昨夜はごめんね。バカでどうしようないでしょう?これ、お金」 「こんなにたくさん?私の分は要らないですよ」 「タクシー代と迷惑料よ。本当にごめんね?」 「いいんですよ。あ、おはようございます」 部屋に入ってきた石原は昨夜の塾の話を小花に訊いてきた。 「石原さん。社会の問題なんですけど。『げんろく文化』のげんろくって書けますか?」 「ほれ。こうだろう?『元録』っと!」 「ブブー!です。正解は『元禄』です。こういう間違いが多いそうですよ。後は『TPP』は何の略ですか、とかです」 「難しいな……俺、今の時代じゃなくて良かったぜ」 「部長の時代も『元禄文化』はありましたが。それよりも昨日のススキノクリニックの件はどうなりました?」 「いけね?何もかも忘れてた?ええと電話、電話。おい、誰か俺のギャラケー知らねえか?」 「……その手に持っているのは何ですか」 「あはっは?いや何。お、お前らが気が付くかどうか、確かめたんだ」 その時、最後の一人がやってきた。 「おはようございます。すみません、夕べ姫野先輩を倒す方法考えていたら、遅くなっちゃって」 「風間さんおはようございます。それで今日はどんな方法を考えたんですか?」 「小花ちゃん!良く聞いてくれたね。あのね、今度海に行くでしょう?その時に大きな穴を掘ってさ、そこに海水と生きたグロい魚を入れたらどうかなって」 その時、ラジオからいつもの声が響いた。 『リボンちゃんが8時をお知らせしまーす……』 「さあ。リボンちゃんの号令だ。行くぞ風間。部長も確認お願いします。今日はメーカーの人が来るんで松田さんお願いします、そして、鈴子」 「私?私に何か?」 「今日も掃除を頼む。重要な仕事だぞ、では行ってくる」 そういって彼は上着を取って営業所を出て行った。 「聞いた?『今日も』、だって。愛があるわ……」 「あぶない?俺の方が倒される所だった?行ってきます!」 「ふう。頑張ります。はい、石原さん退いて下さいませ。できれはお外に行ってくださいね……」 眩しい夏の札幌の朝。 東の太陽が照らす部屋を彼女の真っ白な雑巾が、拭き取って行った。 今日の夏山ビルも、彼女のおかげでキラキラだった。 完
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