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148 NO1を狙え!
「やってしまった……どうしよう」
電話を切った彼女はデスクに突っ伏した。
「どうかなさったんですか?松田さん」
「小花ちゃん……私、どうしたらいいの?」
昼下り。夏山ビルの全営業マンが会議中で静な中央第一営業所で、事務の松田は掃除をさぼって供にお茶を飲んでいた小花に泣き付いてきた。
「伊吹の通っている塾で、特訓講座があるんだけど。私それ申し込むのを忘れていてさ。今電話しても伊吹は受けられないって言われちゃった?……どうしよう」
頭を抱えた彼女を見て、小花は食べ終わったセイコーマートでおなじみのようかんツイストの袋をゴミ箱に捨てた。
「もう締め切りが済んでいたんですか?まあ……困りましたね」
「私は母親失格よ……」
そういってやさぐれた松田は、ゆっくりと顔をあげて話し出した。
「実はさ。これだけじゃないの。夏の集中特訓の希望者が多くて抽選になってね。伊吹は漏れちゃってさ。だからこの講座だけは受けたいって言っていたのに……」
「松田さんは連日忙しかったですものね……そうですか」
夏山の情報システムが変更になったので、これの対応で松田は仕事に追われていたのだった。
「あのですね。伊吹君は優秀って伺っていますけど。その講座を受けないとピンチなんですか」
「私もよくわからないんだけど。英語だけ受けさせて欲しいって言ってたのよ」
「英語ですか?苦手なのかしら」
「うーん。なんかはっきりしないんだけど、とにかく英語を勉強したいみたいなのよ」
「そうですか……英語。バーマンさんは?」
「英会話なら良いけど、文法とかを教えるのは無理みたい」
「……私。良い先生を知っていますよ、松田さん」
「良い先生?どこの塾?」
小花に詰め寄った松田の顔は真剣だった。
「個人です。そうね。伊吹君になら教えてくれるかもしれないわ……」
小花の話によると、グレートティーチャーは気分屋で気に入った人しか生徒にしないと話した。
「それに生徒が殺到するので、正体は申し上げられません。一回の勉強はたしか90分で三千円だったかな?先生の自宅に通う感じです」
「小花ちゃんは知っている人なの?」
「はい。よく存じています。伊吹君さえ良ければ私、紹介します」
この話しを伊吹に聞いてから返事をすると言った松田は、その夜のうちに小花に頼んできた。
そして翌日の夕刻。
塾の帰りに夏山ビルに寄った伊吹を伴い、小花はグレートティーチャーの家へと向かって行った。
「伊吹君。先生は私の家の近くなの」
「はい。でもどうしてそこまで秘密にするんですか?」
「あのね」
中島公園へ向かう市電の中で小花は隣に座る伊吹にひっそりと話し出した。
「カリスマなんです。東大や京大にもたくさん生徒さんを入学させているみたいなの。だから評判を聞きつけて押しかけてくるのが嫌みたい」
「どういう経歴の方なんですか?」
「詳しくは知らないわ。とにかく本人は落ちこぼれだったんですって。だから勉強が分からない人の事がよーくわかるって話していましたわ」
「ふーん……」
伊吹の頭の中には、色んなイメージが湧いて来てちょっとドキドキしてきた。
「最近は先生をお辞めになっていたの。でも伊吹君の話をしたら、ちょっと逢ってもいいかなって言ってくれました。だから、その」
「分かっています。お願いして無理なら諦めますから」
そして二人は中島公園通りの市電の駅で降りた。
「……手土産のパンを持っているわよね」
「はい。先生はパンが好きなんですか?」
「美味しい物がお好きなの。あのね、今日はお試しで少しだけ勉強を見て下さるそうよ。その時、先生が伊吹君を生徒にするか、決めるそうよ、あ。ここよ」
ごくと伊吹は唾を飲んだ。小花がチャイムを鳴らすと、大きな声ではーいと聞えて来た。
「いらっしゃい!小花ちゃん!そっちが伊吹君かい」
「そうです。猪熊さん」
すると小花の脇にいた伊吹はすっと前に出た。
「初めまして。松田伊吹と申します。今日はお時間を作っていただきありがとうございます」
きびきびと挨拶をした彼は会釈した面をすっと上げた。
「これは僕の好きなパンです。良ければ召し上がってください」
「……いいよ、入りなさい。おっと?」
即されて伊吹が足を上げた時、猪熊が待ったを掛けた。
「小花ちゃんはお家で待機だ。この子は私が預かるから」
「え?あの猪熊さん?どうかお手柔らかに」
「わかってるさ。さあ、帰って!」
終わったら連絡するといい、猪熊は小花を家から追い出した。
「さ、こっちへどうぞ」
「失礼します……」
生活感溢れた猪熊のリビングのテーブルの椅子に伊吹はそっと座った。そして事前に言われた通りに最近の模試の結果を猪熊に見せた。
「……数学の偏差値が75?このままでも札幌北高校には合格できるでしょう?」
「英語が不安です」
「これだけ点数を取れているのなら、問題無いと思うけど。どうして勉強したいんだい?親がうるさいのかい?」
威圧感がパンパ無い猪熊に、伊吹は覚悟を決めた。
「うちは母子家庭だし、母は無理をするなと言っています」
「じゃあ、なして勉強するんだい?学歴付けて金持ちになりたいのかい」
「いいえ。自己満足です」
「自己満足……詳しく話しなさい」
すると伊吹はじっと猪熊を見据えた。
「僕は憧れている人がいて、その人に近付きたくて勉強を始めたんですけど、最近は違います。その人を越して、一番になりたいんです」
「一番?」
「はい。僕はナンバーワンになりたい。札幌北高校に満点で合格したいんです。そのために必要な事は何でもしたいんです」
「……小花ちゃんの話と違って、ずいぶん熱い男じゃないか……フフフ。さあ、テキストを持って来たんだろう。ちょっと見せてごらん」
伊吹は猪熊に、不明な点を素直に見せた。
その頃。
自宅待機を言われた小花は、伊吹の事が心配でたまらなかった。
……猪熊さんに叱られていないかしら。
小花の脳裏には、強烈アタックをぶつけてくる猪熊が浮かんできて離れなかったので余りの不安で家に入れず、彼女は夕暮の庭でウロウロしていた。
「小花っち。何してんの」
「拳悟さん?あのね」
部活帰りの彼に猪熊に生徒を紹介したと話すと彼はやっちまったと顔をしかめた。
「手土産はパンか……。インパクト弱過ぎねえか」
「でもお好きですもの」
「一斤か……まあ、今更言っても仕方ねえし、後さ。お前ちゃんとアドバイスしたんだろう?」
「……アドバイス?」
「もしかして丸腰であの熊の所に行かせたのか?ダメじゃねえか?あのな……」
健悟の話によると、態度や言葉使いなど、勉強以外の面を厳しくチェックされると彼は話した。
「伊吹君はお行儀いいもの」
「そうか?それに熊が教えていたのは女子オンリーだぜ」
「ええ?知りませんでしたわ」
「事前に俺に相談しろよ!……今頃、追い出されているかもしんねえぞ。俺も行くから見て来ようか」
こうして二人は恐る恐る猪熊家にやってきた。
「お前ら何してんの」
「し!兄貴は黙って」
不思議そうに兄の鉄平も猪熊家をそっと覗いた。その時突然ドアがぱっと開いた。
「わ?びっくりした!小花ちゃん。入んなさい」
「どうでしたか?伊吹君は」
猪熊は小花に入れと言ったのに、鉄平と拳悟も入ってきた。
「まったくお前達まで?まあ、いいか」
リビングでは伊吹が出された麦茶を飲んでいた。
「小花さん……そちらの方々は?」
「近所のジョギング仲間よ。どう?猪熊さんは先生になってくれるの?」
「いいよ。受験まで面倒みてあげるよ」
「やったーーー?!良かったわ」
すると勝手にソファにドカと座った拳悟は猪熊に訊ねた。
「珍しいじゃん。もう先生は辞めるって言っていたのに」
その横に座った鉄平も猪熊に訊ねた。
「そうだよ。しかも男子って」
「この子はね。ちゃんと目標があるんだよ」
そういって猪熊は伊吹が持って来たパンの紙袋の中を覗いた。
「鉄平はバレーボール大会で優勝。拳悟がボクシングのライト級で優勝、それぞれ目標があるだろう?伊吹君もナンバーワンを目指しているんだよ。これを応援せずにいられるか」
すううとパンの匂いを嗅いだ猪熊はそういって伊吹を見下ろした。
「そういうわけだ。今後のスケジュールはさっき打ち合わせた通りだよ」
すると伊吹はすっと立ちあがった。
「はい。今後ともよろしくお願い申し上げます」
びしと挨拶を決めた中学生に、鉄平と拳悟はへえと感心していた。
「ほら、アンタ達!この子を見習いなさいよ。全くもう」
こうして猪熊に認めてもらった伊吹は、一旦小花の家にやってきた。
「鉄平さん。拳悟さん。私今夜は走りませんから!あ、伊吹君入って下さい」
そうか、と残念そうな二人を気にせず、小花は伊吹を家に上げた。
「失礼します」
今夜はここに松田が迎えに来るので、それまで伊吹に夕飯を食べさせる約束をしていた。
「待っていてね!すぐ餃子が焼けるから」
「僕も手伝いますよ」
二人は仲良くキッチンに立っていた。
「それにしても。あの猪熊さんて何者なんですか?何ていうか教え方もすごく分かりやすいんですよ」
「そうなんですか?私は教わっていないので分からないの。でも良かった。引き受けて下さって……松田さんは本当に気にしていたから」
そうしみじみ話す彼女の横顔に彼は呟いた。
「本当に良かったです。塾の特訓講座よりもこっちの方が何倍も良いです」
伊吹はフライパンの蓋を取った小花に微笑んだ。
「まだ焼けないわ。そんなに良い勉強なの?猪熊さん怖いでしょう」
「……そうですね……マンツーマンですからね」
そういって伊吹は彼女の肩越しにフライパンを見ていた。
「私も安心したわ。ね?今度から猪熊さんちでお勉強した日で、遅くなる日はここでお夕食にしたらいいわ。お家に帰ってからだと遅くなるし」
「……母に相談します。あ!焦げてないですか?」
こうして二人は仲良くテーブルを囲もうとしていた。その時、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「まあ?」
「こんばんは!『お世話ガール』。この前は本当にごめんな!」
玄関に立って謝る伊織を、小花は部屋に招き入れた。
「今度は先生まで紹介してもらって……お。美味そうじゃん」
「あのさ……引き受けてくれたかどうか訊かないの?」
「お前の顔を見ればわかるさ。良かったな。優子も気にしていたし」
伊織はお茶だけ御馳走になると、猪熊の家を小花に教わり食事を済ませた伊吹を車に乗せて小花家を後にした。
帰りの車で父子は話をした。
「しかし。マジで良かったな。俺もさ、家庭教師探そうかと思ったぜ。あの手土産のパンが良かったのかな」
「父さん……猪熊さんはね。最初から引き受けるつもりだったみたいだよ」
「は?なんだそれ」
助手席の伊吹は夜の街を眺めていた。
「小花さんがね。僕の事を一生懸命アピールしてくれたんだってさ。フフフ」
「そうか。今度御礼しないとな」
「あのさ。父さん。僕ね。真剣に勉強したのは遅い方なんだよ。塾にいる子達はみんな小学生の頃から通っているからさ。僕はもっと早くから始めれば良かったって、少し落ち込んでいたんだ……」
「そんなことねえぞ。人生はいつでも再スタートできるさ」
「僕は遅かったって言っているだけだよ?それをさ、猪熊さんに話したんだ。そうしたら猪熊さんはね、僕はツイているっていうんだ」
「……何が付いているんだ」
「フフフ。幸運だって意味だよ」
伊吹は父をそっと見つめた。
「進学校を目指す子はね。親が医者とか政治家とかだったり、後は家族が高学歴だったりしてさ。合格しなくてはいけない運命を背負っている人が多いんだって。でもさ。僕が勉強しているのは自分がそうしたからなんだ」
「そうかもな。お前は姫野君に認めてもらいたいんだもんな」
「最初はそうだったけど。今はそれだけじゃないんだ。僕はそうしたいから、勝手に勉強しているんだ。そんな自分勝手な僕をみんながこんなに応援してくれるでしょう?だから猪熊さんは僕はとても幸せだって言うんだよ……」
「幸せか。そんな風に言ってもらえたら、父ちゃんも嬉しい、ぜ……」
「何泣いているのさ?」
「ううう。済まん。小花ちゃんに御礼を言わなきゃな……」
「うん……僕ね。返せないな、こんなに優しくしてもらって」
こうして伊吹はカリスマ教師猪熊に教わる事になった。
中学校で習う英単語は全てマスターして来いとか、単語は声に出して読めとか、厳しい指導であったが、伊吹はこれに耐えていた。
そんなある夜。猪熊家で勉強を終えた伊吹はバレーボールの練習に誘われた。
「猪熊さん……伊吹君はまだ中学生ですよ?」
「何を言っているの!健全な精神に健全な知力が宿るのよ!」
「いいんです小花さん。僕運動したいです」
近所の中島公園中学校には、鉄平の姿もあった。
「よう!お前もやるのか。俺の貸してやるぜ」
「ありがとうございます!」
一人っ子の伊吹は、バレー選手の鉄平からシューズを服を借りて体育館に現れた。
「お似合いですわ。うん!伊吹君はなんでも着こなすのね」
「小花さん……恥ずかしいですよ」
仲良しの二人に久美はピピピピ――とホイッスルを吹いた。
「おい!小花ちゃん。お前の彼氏は姫野君だろ?それに伊吹君!男性チームでやってくれ」
久美に命令された伊吹ははいと返事をして、鉄平のいる控え選手のチームに入った。
そして試合形式の練習が始めった。
「そーーれ!」
樹里がバーーーんと打ったサーブは、体育館の壁に激しく当たった。
「アウトですけど。これマジですか?」
「ああ。伊吹君、中島公園一丁目はいつも本気だ。手加減が出来ないんだ。あ。来るぞ」
「そーーーれ!」
知子の放ったサーブは怪しく揺れ、鉄平もレシーブ出来なかった。
「やった!」
嬉しそうにはしゃぐレギュラー陣に伊吹は汗を吹いた。
「おい。勉強小僧。俺が上げるからトスを上げろよ」
「はい!!」
次のサーブは素子だった。
「行くわよ。そーれ」
強打が来ると思っていた鉄平は、ネット際に落ちたボールに反応出来なかった。しかし。
「とう!」
「ナイスレシーブ!」
足を投げ出しボールをレシーブした伊吹は、素早く次の攻撃の為に態勢を整えた。
上がったボールを控えの中年女子がトスを上げた。
「いけーー!鉄平さん」
「行くぞ―――小花っち!」
しかしアタック禁止だったので、鉄平はこれをフェイントし、猪熊の横に落とした。
「イエーーイ!」
「ずるいですわ鉄平さん。私の名前を呼ぶなんて」
「ヘへんだ!勝つためなら何でもしてもいいって言ったのは小花っちだぞ。バカめ」
「勝つためなら何でもか……」
……そうだよな。僕もなりふり構っていられないな。
そして。今度は伊吹のサーブとなった。
「思い切りいけよ」
「はい!それ」
伊吹はアンダーサーブでラインギリギリを狙った。
「……アウトだわ!」
しかし小花のジャッジはむなしく、久美はインを認めた。
「「イエーイ」」
嬉しそうな伊吹と鉄平に小花は口を一文字に結んでいた。
「悔しいですわ……」
こうしてママさんバレーに混ぜてもらった伊吹は、練習後、親が迎えに来る小花家まで鉄平と彼女と歩いていた。
「でも。お二人とも意地悪でした……私ばっかり狙うんですもの」
「ハハハハ。これは勝負だからな!それに何度も決められる小花っちが悪い!」
しかし小花は愚痴をこぼした。
「鉄平さんはバレーボールの選手ですもの。私は素人なのに全然手加減してくれないんだもん。それに伊吹君まで私を狙って……嫌いよ」
「やばい?……鉄平さん。やりすぎでしたよ」
「マジかよ?あのな……小花っち。悪かった!なあ。謝るよ」
「小花さん!ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです!」
「伊吹君は私のお尻にボールをぶつけたくせに……知りません!」
すっかり機嫌を損ねた彼女に調子に乗っていた男子達は、青ざめてしまった。
「……小花さんのサーブ、良かったですよね、鉄平さん」
「ああ!あれはすごかった。見えなかったもんな」
「嘘です」
「そんなことありませんよ!小花さんは掛け声が良かったです。一番声が出てました」
「そうだ!良い声だったな。小花っちが一番頑張っていたぞ!」
「フフフフ……おかしな褒め方ね。フフフフ、可笑しい?キャハハハ……」
彼女の笑った顔にほっとした伊吹は、夜空の星を見上げた。
……ありがとう。小花さん。
少し前までひとりぼっちだった彼の傍らには、愛しいと評するには足りない人が歩いていた。
「小花さん、鉄平さん。今夜はありがとうございました。今度の北海道模試で、僕は一番を目指します」
「おう。目指せ目指せ!」
「応援してるわよ!伊吹くん」
青い月、心地よい夜風。優しい彼女の影法師に寄り添うように、少年は夜道を歩いて行った。
完
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