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176 どうなってるの先生
「古文の教科書を開いて。では京極。37ページを読んでくれ」
「はい。『こおろぎ日記』……」
「おいおい」
夏の夜。定時制高校。仕事帰りの金髪塗装工の京極はあ?と顔をあげた。これに隣の席の小花は教科書からヒソヒソと答えを教えた。
「京極くん!違いますわ。キリギリスよ」
「オッケ。『キリギリス日記』」
「ダメだ!嶋、言ってみろ」
「俺すか?『蜻蛉日記』じゃないすか」
「「えええ?」」
驚く京極と小花に、山下教師はため息をついた。
「これでそう読むの?」
「なんだ。かげろうって」
「知らないのは仕方ないが。今、覚えろ」
そんな山下は、小花に教科書を朗読するように言ったが、彼女は拒否した。
「なんでだ」
「私、人の日記を読むなんてできません!」
「何怒っているんだよ?全くこのクラスは」
呆れた山下はやれやれで頭をかいた。
「これはだな。まあ。平安時代。浮気性の旦那を持った女性のエッセイだ」
「バッサリですわ」
「エッセイって、なんだろうな」
「先生。ちょっといいすか?」
京極はここで今までにないキリリ顔で質問をした。
「なんで俺ら、こんな古文なんか勉強するんすか」
「そうよ」
「必要ないっすよ」
「そう来たか。先生もな学生時代。それを思ったよ」
山下はこれを大学時代、研究したと打ち明けた。
「まずな。世界の言語について説明する」
ユダヤ人のヘブライ語。ヨーロッパのラテン語などを黒板に書いた。
「これらの古い言語。文字の意味はある程度わかるが、ヘブライ語は発音の正しい発音がもう誰にもわからないと言うことだ」
「まあ?」
「でも、日本語って、ある程度読めますね」
「……だから習うっとことか」
「他にもだな」
山下は演劇について話した。
「世界で一番古い劇ってなんだ」
「日本昔ばなし」
「歌舞伎?」
「違いますわ?シェイクスピアじゃないかしら?」
「そうなるな。しかしこのシャイクスピアの劇。これは大昔から演じられているが、その時代その時代で自由に演じているものだ」
山下は日本の狂言の話をした。
「平安時代にできたこの狂言は、代々、弟子に伝承されているだろう?だから我々は平安時代と同じものを観ている事になる」
「すげ!シャイクスピア越えじゃん!」
「確かにそうね」
「日本はすげっす」
「それにだ。紫式部が書いた源氏物語は世界最古の長編小説だぞ」
外国物は短編集であり、こんな長編はこれだけと賞賛した。
「しかも女。しかも現在読んでも面白いじゃないか」
「日本てすごいですわ」
「自分は前から知ってたっす」
「……だから俺たちにも古文をやれってことかよ」
「俺はそう思うな」
山下はそう言ってプリントを配った。
これは古文書だった。
「いいか。確かに古文や漢文は無意味っぽい。しかし。これから未知の古墳が出たり自宅から貴重な古文書が出てくるかもしれない」
そんな時、ちょっと古文書が読めるといいな?と山下は笑った。
「では。今日はこれを読んでみよう。小花」
「はい『古川に塵芥捨てず候』」
なんとか読んだ彼女は、訳してみた。
「これは古川、と言う川に、ゴミを捨てるな、と言うことですね」
「そうだ」
書いた人は川下に住む名主。上流の人にゴミを捨てないようにと、役所に出す連名の嘆願書だった。
内容には、いかにゴミがあるか詳しく実情を訴えていた。
「雨の時、増水とか。門が壊れたとか書いてあるっす」
「俺も読めた。しかもこの字。めっちゃ怒ってる感じするよな」
「それだ!」
古文書にはいろんな情報があるので面白いと山下は言った。
「しかも。この古文書は、水門を任されていた家の蔵から出てきたんだ。なぜだと思う?」
「え」
「おかしいっすね。役所に提出したんじゃないすか。これ。血判付きっすよ」
「……まさか?これを預かった人は揉み消したんじゃないっすか」
京極は恐怖で震えた。これに山下は理由を尋ねた。
「それは。水門係の人はゴミがあると、自分のせいになるとか。あるいは川の上流の人から賄賂をもらって誤魔化したとか?」
「鋭いな」
「ひどい!せっかく書いたのに」
「不正は昔からあったんすね」
「面白えな。古文も読めれば」
「そうだろう。あ。時間か」
こうして授業は終わってしまった。
三人は玄関まで一緒に帰っていた。
「京極くんはお仕事どうですか」
「忙しいよ。年寄りの家でさ。生きてる間、持てばいいって言うリフォームが多いんだ」
「嶋くんちの車は?」
「免許を返す人が増えて。車を売る人が多いんで、良い中古車が多いからめっちゃ売れてます」
「ふーん」
そんな彼女の様子を二人は聞いた。
「私?私はですね。スマホの調子が悪くてね」
夏の暑さのせいか、スマホがすごく暑くなってしまったと彼女は思い出した。
「燃えたらどうしようと怖くなって。私は冷蔵庫に入れたんです」
「壊れたろ」
「ええ」
「中身に結露ができるっす」
「修理の人にもそう言われました」
遠くの空を眺める鈴子は、あの時の悲しみを思い出していた。
「そう言う時は十円玉を置いて、熱を逃せば良いんですよって、修理の人は実に簡単に言いますけど。素人はわかりませんものね」
「どうした。そんなに修理代が掛かったのか」
「……ちょっとね。あ!」
玄関外には黒いZが彼女を待っていた。
「姫野さんの車っす」
「迎えにきてくれたんだろ、って。おい?どうして俺の背に隠れるんだよ」
「鈴子はいないって言ってください」
京極と嶋の背に隠れている鈴子に姫野は駆け寄った。
「京極くん。鈴子は?」
「いや?その……」
「なんかあったんすか」
姫野は鈴子の機嫌を損ねてしまったと頭をかいた。
「スマホを冷蔵庫に入れて壊したのでバカにして笑ったら怒ってしまって」
「アハハ」
「確かにね。でも先生。あいつなりに工夫したんで。そこはわかってくださいよ」
自分を庇う京極の背で、鈴子はウンウンとうなづいていた。
「もっと言って!鈴子は頑張っているって」
「……姫野さん。姉貴は本当に頑張っているんす。どうか多少のミスは見逃してください」
「小花。なあ。これくらいで良いだろう」
すると京極と嶋の背から彼女はひょこと顔を出した。
「もうバカにしない?」
「お前?そんなところに」
二人の男子にべったりしているように見えた鈴子に姫野はやばいと背中に汗をかいた。
「スマホは直りそう?」
「直ったよ、ほら。ここにある」
やったわ!と喜んだ彼女に、京極と嶋は目を細めた。
「先生も反省してるよ。ほら……行けよ」
「足元お気をつけて」
「わかった」
そんな鈴子は姫野の元に駆け寄ったが、振り返った。
「京極くん!嶋くん!ありがとう!また明日ね」
「はいはい」
「……天使っす」
同級生の二人は彼女は帰っていく様子を見ていた。
「帰るか」
「うっす。また明日」
夏の夜空。涼しい風。木の葉が揺れる木々。止まった噴水を眺めるベンチの恋人たち。行き交う二車線道路の車の喧騒。おしゃべりするように輝く街のネオン。テレビ塔の時計は都会の灯台のように光る。見えないネット通信は無味無臭で彼らを通過する。歩く足下。通っている地下街にはどれだけの人が行き交っているのだろうか。
そんな夜の大通り公園におやすみを言うと、京極と嶋は家族の待つ家へ帰っていった。
Fin
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