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16 静かに眠れ
夏山愛生堂の昼休み。四階の休憩室では女子社員達が畳の上で足を伸ばしていた。
「ん?今なんか、黒い物が動かなかった?」
「気のせいじゃないの。何もないわよ」
総務部の蘭と美紀はそういって茶色い弁当を食べていた。
「ところでさ。美紀の彼氏の仕事って見つかったの?」
「コンビニのバイト始めたんだ。何もしないよりはいいかなって」
北海道の離島出身の美紀は故郷にいた彼と遠距離恋愛をしていたが、彼は地元の仕事が嫌で辞めてしまい、美紀のアパートに転がり込んでいた。蘭が心配する中、美紀は嬉しそうに話を続けた。
「それにね。廃棄のお弁当とかもらってきてくれるんだ。前の仕事よりも生き生きしているし。いいかなって」
そういって三個目のコンビニおにぎりの袋を開けた美紀を蘭はじっと見ていた。
「そうか。でも将来を思うとちょっと不安だよね」
「私の事よりも。蘭の彼氏って、例の彼女とはどうなの?」
「それが、絶対証拠をみせないんだよね」
キルト展の時に偶然ホテルで見かけた蘭は、二人が部屋から出てくる現場を押さえようとしたが、ホテルの従業員に不審者と思われ話しかけられている間、彼に逃亡されてしまった。
その後、彼に浮気を問い詰めたが、証拠が無くはぐらかされていた。
「……もう、別れようかな。嘘ばっかりで疲れたし」
「付き合って何年?」
「学生時代からだから、五年かな」
「そろそろ結婚の話があってもよさそうだしね……お互い」
「はあ……あれ」
下を向いた蘭の目線には、やはり黒い物がさっと走り去った。
「うわ?部屋にバッタがいるよ」
「マジで?窓を開けて逃がそうか」
美紀は立ち上がると窓を開け放し、そっと座りなおした。
「こうしておけば、出て行くっしょ」
「そだね」
「失礼しますわ」
その時、部屋のドアがゆっくりと開いた。
「あ。まだお食事中でしたね」
そこにはゴミ袋を持った小花が立っていた。
「小花ちゃんだ?いいよ、あ、お菓子あるから一緒に食べようよ」
「どうぞ」
笑顔の蘭と美紀に小花はシリアスな顔で戸を閉めた。
「ちょうどよかったです。私もお二人にお話しがあったので」
そう言い靴を脱ぎ畳に正座をした小花はふと窓を見た。
「あの、それよりも窓を開けていますが、冷房が効いていないのですか?」
「いやさ。バッタがいたから逃がそうと思って」
「逃げて!お二人とも」
小花は急に立ち上がると、腰に下げた掃除セットの中からスプレーを取り出し、銃を構える様に手にした。
「早くここからお逃げ下さい!」
そういってテレビの後ろにスプレーをかけ始めた小花の背中で二人はあるものを見た。
「うわ!何か出た?」
「ギャー?こっちに来たー」
「はっ!!」
出て来た虫を、小花は持っていたハタキで仕留めた。
「うわあああ」
「きゃああああ」
「お静かに。ふう……」
額の汗をぬぐう彼女を、二人は抱き合って見ていた。
「小花ちゃん。これが例の虫なの?」
「初めて見たわ」
蘭と美紀に小花はうんと頷いた。
「そうです。本来は北海道にはいてはならない虫ですね。私もまさかこのビルにいるとは思っていませんでしたわ」
「どこから入って来るんだろうね」
「まあ美紀さん。これはお客さんではありませんわ。ここの住人です」
「うえ!?勘弁してよ」
嫌がる蘭に小花は続けた。
「給湯室やトイレでも見かけておりましたが、まさかここまで勢力を拡大していたなんて」
「恐ろしい」
「全然わからなかったね」
この二人に小花は、やっとうなづいた。
「そうか!皆さん、この虫の事がそれだと知らなかったんですね。それで理解しました」
小花はそっと部屋のゴミ箱を掴んだ。
「いいですか?このように食べたものをそのままゴミ箱に入れたりすると、彼らの思うつぼですわ」
「嫌だ!ねえ。どうしたらいいの?小花ちゃん」
縋りつく蘭に小花はにっこり微笑んだ。
「良かったです。私、それを御相談しようと思っていました」
そういって勇ましく片付ける小花を二人は尊敬の眼差しで見つめていた。
◇◇◇
「要するに。ゴミの管理と、駆除の薬か」
「そうです蘭さん。総務部には給湯室用にしっかり蓋ができるゴミ箱を購入していただきたいのです。食べ物のゴミは全てそこに入れていただいて。後は、駆除の薬ですが」
小花はすっと美文字で書かれたメモを差し出した。
「この薬剤が一番効果あるのですが。需要がないせいか一般の薬局には置いてないと思います」
寒冷地尾の札幌には存在しないとされている虫の駆除剤のメモを蘭と美紀は見もせず答えた。
「小花ちゃん。何を言っているのかな?」
「うちの会社が何屋さんか忘れたの?」
「あ」
二人は嬉しそうにメモを受け取った。
「全道の薬局の薬はうちの会社で卸しているんだよ」
「蘭の言う通り。うちに無い物は無いはずよ」
「……私とした事が?さすが夏山愛生堂ですわ」
任せとけ、と胸をトンと叩いた蘭と、親指をビシと立てた美紀に、小花は嬉しくなった。
そして翌朝。小花の五階の休憩室には、駆除剤が届いていた。吉田が早速気づき手にした。
「それはホイホイとは違うのかい」
「はい。これを置くと現れません」
「へえ、便利なものがあるんだね」
「はい。さっそく置いてきますわ」
これを掃除用のワゴンに搭載した小花は、吉田よりも先に社内の清掃に出動した。ワゴンを押す彼女は鼻歌まじりでご機嫌で進み、指差し確認をしていた。
「トイレはOK。給湯室にも置いたし……。あ。そうだわ」
……宿直のお部屋も危険かも。
男性社員が寝泊まりする和室も判断した小花は、宿直室の部屋のドアを開けた。
「ひや」
「スースー」
「びっくりしたわ……」
誰もいないはずの部屋であるが、そこではしっかり布団を敷き、若い男性社員が背を向けてしっかりと眠っていた。
……誰かしら。今は午前十時で、社員の方はお仕事中のはずなのに?場合によっては……
不審者ならば通報しようとスマホを持った彼女は、そうっと寝顔を覗いた。
……え?どうしてここに?
すやすやと眠る彼に彼女は驚いたが、思わず笑みがこぼれた。彼の枕元にはスマホが有り、アラームがセットされていた。
……お疲れ様です、お兄様。
小花はその柔らかい寝顔に微笑みながら、ずれた布団をそっと彼に掛けこの場を後にした。
◇◇◇
その日の昼休み。小花はお弁当を持って女子休憩室に向かった。
「小花ちゃん!こっち」
「ここだよ」
「蘭、もっと端に寄ってよ」
「失礼します。すみません」
十畳の部屋。蘭と美紀と一緒に食べる約束をしていた小花は、他の女子社員の後ろを通り、同じテーブルに座った。
「さ、食べよう!いただきまーす」
三人は仲良く箸を進めた。三人は蘭と美紀の恋バナで話は盛り上がった。これを上座に座っていた女性が声を掛けてきた。
「そっちは楽しそうね。で。小花さんは中央第一の清掃をしているのでしょう。姫君と風間ちゃんって、実際どんな人なの?」
財務の良子部長五十九歳はきゅうりの漬物をバリバリ食べながら聞いてきた。
「実際と言いますと?」
「ほら。風間ちゃんはいつもニコニコしているでしょう?あれはいつもなの」
「はい。風間さんは気持ちが優しくて親切で、場を和やかにする方ですわ」
ヒューと誰かが口笛を吹く中、良子は好奇心を丸出しにした。
「じゃあ姫君は?イケメンだけど、神経質っぽいじゃないの」
「真面目な方なのでそう見えるかもしれませんね。でも常に最先端の医薬品の勉強をされて、お医者さまから慕われている方ですわ」
「トップセールスっていうのはそう言う事なのね」
歯につまようじを指しながら話す良子部長に、蘭はつぶやいた。
「仕事ができる男はカッコいいな」
「姫野さんや風間さんに比べたら、うちらの彼氏は霞むよ」
そういって美紀はコンビニの「ようかんパン」にかじりついた。美紀は肘をつき、大きく溜息をつく中、小花は語った。
「……そんなこと有りませんよ。夏山さんは、みなさん、頑張っておいでですわ」
そう小声でつぶやいた彼女はお弁当を終え、すっと立ち上がった。
「皆さま。そちらに張り紙をしてありますが、どうぞゴミの処理についてご協力下さいませ。これで事態は沈静化すると思われます」
「わかったよ。はい。みんなゴミは持ち帰るよ」
良子部長の一声に、女子一同は片膝を立て、おう!という威勢の良い返事を揃えた。
「ありがとうね。小花ちゃん」
「いいえ、蘭さん、美紀さんも。私をお食事に誘ってくださいまして、ありがとうございました」
そういって小花が部屋を出ると、廊下にいた男性社員に声を掛けられた。
「あのね、小花ちゃん。社長を見かけなかった?」
「秘書の話によると社内にはいるようだが、どこにも見当たらないのだ」
風間が廊下を探す中、一緒にいた姫野の困り顔に小花は静かに尋ねた。
「社長にはお急ぎの予定があるのですか」
「いや。夕刻に会食があるらしいが、なぜだ?」
「姫野さん。お耳を貸して。実は……」
小花は背伸びをして姫野に耳にささやいた。
「なので、もう少しで起きてくると思います」
「わかった。その時間まで待つ、か」
姫野は勢いで小花の頭を良し良しと撫でた。
「さて行くぞ。風間。俺達は仕事に戻る」
「え?社長は捜さなくてもいいんですか?」
「居場所はわかったら良いのだ。さあ行くぞ」
「じゃあね。小花ちゃん」
「はい」
二人の足音は、廊下の奥へ消えて行った。
……どうしてかしら。頭がぽかぽかするわ。
彼が撫でてくれた頭がじんわりを温かい小花は、誤魔化すようににっこりと微笑んだ。
その頼りになる背中に静に手を振った彼女は、五階の立ち入り禁止の部屋を目指した。
昼下がりの札幌の社内は、優しい時間が流れていた。
完
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