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49 逃げるお嬢様
「姫野先輩……どうしよう」
「今度は何だ?」
風間はデスクに突っ伏した。
「塩川クリニックの奥さんが、ママさんコーラスのコンサートに出るんで俺はチケットを買わされたんですけれど。ピアノ演奏者が怪我をしたんで代わりを見つけてくれって」
「コンサートは、いつなんだ」
「明日です……札幌市民ホールで」
すると石原所長がバサと競馬新聞を外した。
「その辺のピアノ教室の先生に頼んだらどうだ」
これに風間は返事をした。
「その日は札幌市内のYAMAHO楽器店関係者の調律の研修会の日だから。ピアノの先生、全部ダメっす」
「Kawaii楽器は?」
風間は首を振った。
「この日はピアノ展示会をするそうなんですよ。だから無理って」
「おい。松田。うちの会社でピアノを弾ける奴っていないか?」
男前に立ち上がった石原に松田は髪をかきあげた。
「ピアノが演奏出来る者ですか……総務に聞いてきますね」
松田は足早に部屋を出て確認してきた。
「確認取りました。蘭さんと美紀さんの供述によると、昔、良子部長が弾けたという情報しかありません。もう少し聞き込みの時間をください」
「引き続き捜査を続けろ……なあ姫野よ。あの姉ちゃんは?」
「姉ちゃんとは、小花の事ですか?」
「ああ。あの娘は顔が異常に広い。良いネタがないか、聞いてみろ」
「分かりました。多分、今は社内の清掃中ですが……電話には出ませんね。スマホを置いたままかもな」
姫野が営業所の時計を見ると、午後の3時だった。
「俺!5階に行って直接聞いてきます」
飛び出した風間は彼女が部屋の立ち入り禁止の部屋のドアを開けた。
「あ。吉田婆だ」
「……全く。なんなんだい?」
そこでは和室でくつろぐ彼女がいた。風間は小花に用が有ると言った。
「その辺にいないかい?屋上かな」
「行ってみます!」
風間は夏の熱風の吹きさす屋上に行ったが、彼女はいなかった。仕方なく1階の中央第一営業所に戻った。
「……あ。戻ってきた。風間君。石原部長の推理が当たったのよ」
そこには蘭と美紀がいた。
「小花ちゃんはピアノすっごく上手なんですよ。以前行ったカフェで、置いてあったピアノを弾いてくれた事があるんです」
「あれは何の曲だっけ?」
「よくレストランで流れているような曲でした」
「これで決まったな。よし。お姉ちゃんを捕まえろ」
その頃。彼女はもう一つの隠れ部屋の4階のシャフト室にいた。
ここは電気のメーターや、水道の配管など、建物の設備を管理する部屋だった。
「小花ちゃーん。どこにいるの」
「おーい小花ちゃーん」
……蘭さんと美紀さんの声だわ。
皆が自分を呼んでいるのは気が付いていた。
……もしかして。私の正体がお兄さまに知られてしまったのかしら。
ドキドキしながら蘭と美紀が去るのを待った彼女は、人目を忍んで5階の立ち入り禁止の部屋へそっと戻った。
「ただいまです……」
室内から施錠した彼女は、部屋の中で気持ちよさそうに昼寝をした吉田をそっとみつめた。
彼女を起こして事情を聞いてもいいが。本当に自分を探していたとしたらと数分悩んだ小花は、一先ず逃げることにした。
吉田の枕元には、学校から呼び出されたので早退します。と、メモを置いた。
「ええと、そして……」
彼女は服を着替えた。鏡の顔は緊張していた。
「そうですか。そちらにもいませんか。いえ?大した用ではないですが、はい」
電話を切った松田は、姫野に向かった。
「配送にもいないって」
「戻りました!宿直室も掃除したばっかりでしたけど、いませんでした」
「……臭いな」
「それは元々ですが」
姫野の声に石原は違うと立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。
「うるせえ。俺の事じゃねえ。お姉ちゃんだよ?……こんなに捜していないとは。向こうから隠れているとしか思えねえ」
そう言って石原は窓辺のブラインドを指で押さえ、眩しそうに外の様子をうかがった。
「俺の長年の勘がそう叫んでいるんだよ……」
「失礼ですが、なぜ彼女がそんな事をする必要があるのですか」
「……姫野。お前、なんかきつい事いわなかったか?」
「言ってませんよ!?」
慌てて手を振る姫野に、風間は口を尖らせた。
「先輩のせいだ……」
「風間は?お前だって、いつも困らせているじゃないか」
「俺のは可愛いレベルですよ。先輩の方がマラソンを走らせたりしてるじゃないですか」
「あれがあいつが勝手に走っただけだろう!」
「はい!そこまで。こんな状態じゃ、本当に姿を現してくれないわよ」
シューンと落ち込んだ二人に、石原は髪をかいた。
「……姫野は正面玄関を張れ。風間は非常出口。配送センターは渡に見張らせる」
「え?でも」
「良いから行け!現場百回だ!」
訳が分からなかったが、石原の真剣な指示に思わず彼らは走り出した。
「……何だって?至急現場へ向かう!すみません。急に用が入ったもので」
石原からの緊急内線を受けた中央第二営業所の渡は、メーカー担当者二名に立ち上がって挨拶を済ませた。そして早く返そうとドアまでお見送りをした。
「いいえ。またよろしくお願いします。失礼しました……どうも……はい」
その時、ドアを出たセールスマンの背後にすっと謎のスーツ姿の女性が後を付いて行った。
話をしながら2階から階段を下りる背後に何気なく続いた彼女は、正面玄関まで付いて行った。
「あ。姫野係長。お疲れ様です」
「失礼しました」
メーカーの二人は玄関にいた姫野に挨拶をした。彼女は二人の連れの振りをし一緒に会釈して素通りした。
「あ?どうも。お気を付けて……」
二人が会釈したタイミングを利用し顔を隠した彼女は、そのまま何気なく夏山ビルを出た。
駐車場まで一緒に来た彼女は、目を盗んで大きな車の陰に身をひそめた。
……あぶない所だった。まさか玄関に姫野さんがいるなんて。
胸の鼓動がうるさいので手を当てた彼女は、車の陰からそっと玄関を見た。
玄関前でキョロキョロしている姫野に、涙がじわと出てきた。
……もう、逢えないかもしれないわ。
しかし。こんな事をしていられない彼女は涙を拭き、スーツの上着を脱ぎ、白いアンダーリブのブラウス姿になった。穿いていた巻きスカートを外し、下にはいていたショートパンツ姿になった。
脱いだ上着をバックにしまい、グレーのキャップを目深にかぶった彼女は、年相応の女の子になった。
普段はしない装いに自分で戸惑いながら、駐車場を歩き出した。
「どうだ。姫野。風間の方は猫の子一匹もでていないそうだ」
石原も正面玄関まで出ていた。
「おかしいですね。ここはメーカーさんが三人出て行っただけですよ」
「三人……どのメーカーさんだ」
「竹田薬品さんです」
「俺の所に来た時は二人だったぞ」
「……一人は女性でした!あれか?」
ここで石原は無線機を取り出した。
「渡、聞いたか?」
ザザと雑音が聞こえたが、無線機からは渡の声がした。
『いた!お嬢だ。駐車場、南西の方角だ』
「よし。行くぞ」
『ダメだ。お嬢は逃げ足が早い。ここは俺の部下が動く、石原は待機せよ』
「ラジャー!ん?何だ……お前」
「……渡部長はどこにいるんですか」
「あそこ」
無線機を下に下げた石原は、屋上を指さした。
そこにはタレサングラスで双眼鏡を片手に獲物を追う彼がいた。
その頃、小花は札幌駅へと歩いていた。すると前方に中央第二の社員二名がこっちに向かって歩いてきた。
……うわわ。どうしましょう。
彼女は右折した。そして進むと、そこには中央第二の社員二名が立ち話をしていた。
……もう!
彼女は左折したかったが、そこにも見憶えのある社員がいたので、やむなく右折した。
……あ、あそこにいるのは風間さん?
道の前方にいた風間は、小花に気が付かない様子で、スマホで何かを検索していた。
……ダメだわ、ここも!
左手には中央第二の社員。正面は風間。双方とも彼女に気が付いていないが、小花は右折しようとした。すると何者かが彼女の肩に手を置いた。
「お嬢さん」
「ひいい!」
「そんなに急いでどちらへお出かけですか?」
「その声は……」
振り返るとそこには、ものすごく怒った顔の彼が立っていた。
「なぜ逃げるんだ」
「どうして追いかけてくるんですか……」
「お前に頼みがあるからだ。ピアノを弾いてほしいだけだ」
「……う、うう。うえーん」
突然泣きだした彼女に驚いた姫野は、思わず彼女の両腕をつかんだ。
「ど、どうしたんだ?」
「姫野さんに、もう逢えないかと思って……う、ううう」
「……何を言っているんだ。そんなはず……ないだろう?」
姫野は戸惑いながらも、しくしくと泣く彼女を、そっと胸に抱いた。
「おい。どうだった?」
「小花ちゃん!どうしたの?」
駆けよって来た中央第二の社員と風間に、姫野は振り返った。
「どうやら俺達が追いかけたから、怖くなったようだ……。済まないが、落ち着くまで、しばらくそっとしてくれ」
気を利かした仲間がいなくなった誰もいない駐車場。夕焼けの風が吹いてきた。
「ごめんな……大丈夫か?」
姫野の胸で泣く彼女に彼は必死で謝った。
「もう悲しい思いはさせないから。頼むから泣きやんでくれ」
「取り乱して済みませんでした……。もう大丈夫です」
誰もいないとはいえ、ここは道端だった。彼女の気持ちを落ち着かせようと、姫野は彼女の肩を抱き、ゆっくりと夏山ビルに向かって歩き出した。
「そうか?じゃ、行こう……」
「皆さんに、ご心配かけたんですね、私」
姫野は小花の手を繋いだ。
「ところで。君のその格好見たことないが、もしかして変装したのか?」
「……実は私、男性からの御誘いを断るために、たまにこういう変装をして会社から出ていたんです」
「はあ……見事にやられたな」
呆れる姫野に泣き止んだ小花は悔しそうにつぶやいた。
「でも。発見されましたわ」
「見つけるさ。どこにいっても……俺はお前を守るんだから」
彼女は自分の肩を彼にくっつけた。
「……良かった。まだここにいられて……」
「ん?何て言ったんだ」
車のクラクションで彼女の声が姫野には聞こえなかった。
「今度は必ず逃げて見せるっていたんですわ」
「お前絶対それ違うだろう」
「あ!また苛めてる?ごめんね小花ちゃん。僕が代わりに謝るから」
正面玄関の前で待っていた風間の笑顔の中、渡はタレサングラスをさっと外した。
「お嬢……どうか、許してください。私は貴方の御身が心配で」
「こちらこそ、ご面倒をおかけしましたわ」
渡は彼女にひざまずき、頭を垂れた。ここで石原はあくびをした。
「まあ。いいじゃねえか。誤解が解けたんだから。よーしここは、三本締めでいくか、よーお?」
石原の早い拍子に合わせて、彼らの心は一つになった。
ほっとした社員はようやくまだ勤務時間であったと気が付き、夏山ビルに入って行った。風間は優しく小花に話し掛けた。
「あのね、小花ちゃん。急で悪いんだけどそう言うわけで明日、ピアノを演奏して欲しいんだ」
「姫野さんから伺いましたわ。私でよければやらせていただきます」
「やったー。塩川夫人に報告しよっと、どれどれ?……」
風間は小花に背を向けて、スマホを取り出していた。
「いいのか、小花。突然なのに」
……いつかはこの方達とお別れしないといけない日が来るのね。
しんみりしている小花に姫野は胸がドキとした。
「小花?」
「ああ?すみません。風間さん、演奏する曲を聞いて下さいませ」
「『十六の僕へ』だって」
「承知しました。楽譜は明日で結構ですわ……姫野さん、あの」
「どうした」
「鈴子は、鈴子はあの……」
……ここに、ずっといたい……。
姫野のシャツをぎゅうとつかんだ彼女は、彼に何か言おうとした。
「あ!小花ちゃん!塩川夫人が宜しくだって」
「そ、そうですか」
「今、言いかけたのは何だ」
じっと見つめる姫野に彼女は心配かけたくなかった。
「いえ。夕日が素敵だな、と」
彼の傍らの彼女は言えるはずのない言葉を、呑み込んだ。
「……言いたくないなら言わなくてもいい。でもな、逃げるのは止めてくれ。俺は……心臓が張り裂けそうだった」
姫野の真剣な横顔に、小花は彼の腕にしがみついた。
……姫野さん。本気で心配してくださっているのね。
「そうだよ。小花ちゃん。言いたいことがあったら、遠慮なく言わなきゃダメだよ!」
……あの風間さんも怒ってらっしゃるわ。私は自分の保身ばかりなのに……。
こんなに親切にして頂いているのだもの。私、できることを頑張らなくてはいけないわ……。
「ごめんなさい、姫野さん。風間さん………」
札幌の街にオレンジ色のカーテンがゆっくりと降りて来た。
ビルの灯りが夜景を作り始めていた。
49「逃げるお嬢様」完
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