67 恋のくすり

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67 恋のくすり

「はあ」 「……溜息ばっかだね」 「ごめん?」 落ち込んでいる蘭を誘って美紀は早めのお昼にした。 女子事務員が占領している休憩室の和室には、すでに良子が弁当を広げていた。 「お疲れ様です」 部屋に小花もやって来た。 「お疲れ様。ね。昨日の騒ぎはなんだったの」 お握りをもぐもぐ食べながら、良子は小花に訊ねた。 「すずちゃん。良子部長が言っているのは、渡部長の真っ裸事件のことじゃない?」 「まっぱ?」 美紀の声に、小花は咳き込んでしまった。 「違いますわ。真っ裸ではありません!」 「あのですね。私から説明します」 蘭はサーモンピンクの悲劇を説明した。 「まあ……そうだったの。渡さんも気の毒ね」 「私が気を失ったので、お気を悪くされて、本日はお休みなんです」 「だから。それは小花ちゃんのせいじゃないって」 「そうだよ。ぜーんぶ姫野係長のせいでしょ」 「風間さんもそうおっしゃいまして。だから姫野さんには責任を取っていただきました」  どうぞ、と小花はスマホを皆に見せた。 そこにはサーモンピンクのシャツとズボンを穿いた姫野が映っていた。 「……姫野係長が着たら、おかしくないね」 「うん。入院した時に着る病着みたいだけど、別に、普通だね」 「姫野さんは社長さんにも着せて写真を撮って、渡さんに送ったと言っていました」 「一体何をしているんだろうね、うちの会社の人間は」 「はあ」  そんな中、蘭は一人溜息を付いた。 「まったく。ほら、卵焼きあげるわよ」 「ああ。ありがとうございます、良子部長……」 蘭の落ち込みに、場がシーンとなってしまった。 「まだ前の男を引きずっているのかい」 「そういうわけではないけど。すずちゃんが羨ましいなって、代わって欲しいよ」 「ん?蘭さん、代わっていただけるのですか?」  小花は目を見開いた。 「実は明日、派遣会社に呼ばれたので参らねばなりませんの。そうなるとお掃除は吉田さんお一人になるのですが、今、お膝を痛めていまして。蘭さんにゴミだけ回収していただけると助かるのですが」 「いいんじゃないの。私が総務部長に言ってあげるからさ、蘭は代わりにやってあげないさいよ」 「そうだよ。蘭。たまには違う仕事も新鮮だし」 「そう?じゃ、部長がOKなら、やっておくよ」 「ありがとうございます!」 こうして蘭は、翌日の清掃を手伝うことになった。 翌朝。 「おはようございます」 「「「おはようございます」」」  宿直当番の営業の男性三人の大きな挨拶に、蘭は思わずひるんだ。 「なんだ、高橋か」  その中にいた蘭の同期の西営業所の社員が、つまらなそうに声をかけて来た。 「なんだ、は無いと思うけど」 「だってさ。みんなあの清掃員さんに会いたくて、宿直頑張っているんだぜ」 「確かに美人だもんね」 「美人だけじゃないぞ?宿直の俺のために氷枕とか、団扇とか、置いてくれているんだぜ」 「別にあんたの為じゃないと思うよ。とにかく小花ちゃんは今日は休みだから」 「ええ?じゃ、俺達、今回はご褒美の微笑み無しかよ?」  騒がしい男性社員を無視し、蘭は小花の上着を来て、ゴミを回収し始めた。 「おはようございます……」 「ああ、おはよう」  仕事に夢中な姫野は、蘭が来ても動じず、ずっとパソコンを眺めていた。 「なあ。今日は一緒に帰ろう」 「私は、小花ちゃんじゃないです」 「うわ!?高橋か……びっくりした……」 「こっちの方こそびっくりですよ。何誘っているんですか」 「大丈夫だ。君を誘ったわけじゃないから」 「ひどいな、もう……」 「そうか。今日は休みって言ってな……ところで。高橋、お前その顔どうした」  夕べも失恋ソングを聞き、涙で枕を濡らした蘭の目は、腫れていた。 「別に。いつもこんなもんですよ」 「……そうか。悪かったな」  そしてゴミを回収した蘭は、その後、中央第二に向かった。 「おはようございます」 「おう!おはよう、高橋」  読んでいた道新をバサと外した渡は、蘭にニコと笑みを見せた。 「うちのゴミは、全部そのゴミ箱にまとめたからな!」 「嬉しいです!ありがとうございます」 立ち上がった渡は、腰に手を当てうんうんと頷いた。 「それと、これは『きのとや』のロールケーキだ」 「え?くれるんですか」 「ああ。だから戻って来たお嬢が困らないように、しっかり励んでくれ!じゃ、行け!」 そう言われた蘭は、紙袋を持って総務部へ顔を出した。 すでに出社していた美紀にロールケーキを手渡すと、蘭はまたゴミ回収のために夏山ビルを全部回った。 そして。朝の9時。彼女は総務部に戻って来た。 「お疲れ。あのさ、総務部長は北海道警察の安全運転講習会を一人で受け直しにいっているからいないし、のんびりしようぜ」 「うん」  雑務をこなしながら、蘭は考えて込んでいた。 「どうした。なんか合ったの?」 「今まではすずちゃんて美人だからみんなに優しくされているかと思ったけど。違うんだよ。小花ちゃんがみんなに優しいんだよね」 「蘭……」 「ガードマンさんなんか、私が来たものだから彼女に何かあったんじゃないかって心配してさ。大変だったよ。あーあ。私も優しくなりたいな」  そうこうしている内に、また午後のゴミ集めの時間になった。 清掃は吉田がこなしているし、朝の様子で多少要領を掴んだ蘭は、手際よくゴミを集め、最後に中央第一に顔を出した。 「失礼します。清掃の代理です」 「お。ほら、風間、高橋が来たぞ」 まるで待っていたかのように、姫野と風間は、彼女を見つめた。 「なしたんですか?」 「本当だ……これはひどい。ねえ、蘭さん。俺達と眼科に行こうよ」 「眼科?」 「ああ。その腫れはひどい。医者に診てもらった方が良い。保険証はあるか」 「はい。いつも財布に」  その時、営業所の電話が鳴った。 「あ、松田さんも居ないのに……悪いけど蘭さん、電話に出て!俺達はいないって言って。はい、これ」  そういって風間から蘭は受話器を受け取った。 「もしもし。はい、こちらは中央第一営業所です、姫野ですか?」  蘭がちらと見ると、彼は思い切り首を横に振った。 「申し訳ございません。本日は研修会がございまして不在です……風間ですか?」  蘭がちらと見ると、彼は手で大きくバツを作った。 「恐れ入ります、それに風間も出ておりまして……はい、本当に申し訳ございません、はい、失礼します」  そっと受話器を置いた蘭に、二人は拍手をした。 「完璧だ」 「さすが!」 「そんなに褒めないで下さい」 「よし。清掃は済ませて置いたから、高橋は今すぐ着替えて来い」 「へ」 「ほら、早く!車で待っているからね」  こうして蘭は二人と眼科に行くことになった。 「これから行くのは、新規に開業した眼科だ。まだ患者が少ないが、クリニックの設備は素晴らしいぞ」 姫野の運転する車の後部座席の蘭は、二人の勢いにドキドキしていた。 「蘭さん。急なお願いでごめんね」  助手席の風間は、そういって振り返った。 「いえ。私、暇ですから」 「そうなの?趣味とか、習い事とか、してないんですか」 「習い事はしてないけど。趣味で食べ歩きくらいかな」 「食べ歩きか……。どういう店だ」  この話しになぜか姫野が食いついてきた。 「ラーメンです」 「おい、聞いたか?風間」 「はい!蘭さんってラーメン通なの?」 「通ってほどじゃないけど。味噌ラーメンを極めたいなって」 「……高橋。今夜は遅い時間まで平気か?」 「暇だっていったでしょ」 「よし。少し飛ばすが、捕まっていろよ」 「……バカバカ?止めて先輩……。蘭さん、捕まってーーーー」  蘭を載せた姫野は、近道をしようと駐車場を通り、細い道を爆走した。 「何言っているんだ。制限速度だぞ」 「ドリフト……もうイヤ……。蘭さんは、だいじょうぶですか」 「すずちゃんから聞いていたけど、これほどとは」 あわててシートベルトを絞めていた蘭は、席に斜めに座っていた。 「ほう。持ち堪えるとは大したものだ。さあ、眼科に到着だ」 バンと車のドアを閉めた姫野と、ドリフトで気分の悪くなった風間と一緒に、蘭は眼科の入っているビルに入った。 眼科で視力検査を一通りし、いよいよ診察になった。 「どうされましたか、ああ、これはひどい」 蘭の腫れたまぶたを見た医者は、顔をしかめた。 「失恋したので、夕べの泣き明かしたんです」 「そうか……私もそんな夜があったよ」  部屋を暗くし、蘭の目に明りを当てながら、ドクターは語った。 「どうやって立ち直ればいいんでしょうか」 「私は眼科医だから、自分の経験しか言えないがね……新しい恋が、薬かな」 「新しい恋」 「眼の毛細血管も綺麗で問題無いね……今日処方する眼薬は、涙と同じ成分だから、泣いた分だけどんどん挿しなさい」 「はい……」 「あと目をこすらないように。少し傷になっているよ」 「わかりました。ありがとうございました」 「どうぞ、お大事に」  姫野と風間は診察を終えたドクターに挨拶をし、クリニックを後にした。 「良かったな。大したことなくて」 「だって。泣き腫らしただけですから」 「そうか。ところで高橋は自分で眼薬を挿せるんだろうな」 「はい」 「お前は優秀だ。さて、何か食べて帰るか。どうだ高橋も」 「暇ですから。いいですよ」 「蘭さん。そんなに卑屈にならないでくださいよ?」  こうして姫野は、ある店にやって来た。 「実はここは得意先のドクターの息子さんが開店したラーメン店なんだ。でもまだ人がこなくてな。こんばんは……」  姫野が暖簾をくぐると、鉢巻きをした店長が振り返った。 「いらっしゃい!あ、姫野さん」 「どうですか、お客さんの入りは」 「昼間は結構来たんですが、今夜は暑いから、暇ですよ」 姫野達以外誰もいない店内は、シーンとしていた。 そんな中、蘭だけは店のメニューを見ていた。 「……とんこつベースですか?」 「そうです。札幌ラー麺は鳥がらが多いですけど」 「今は色々ですよ。麺は、自家製?西山ラーメンですか」 「西山ラーメンです。中細タイプ……姫野さん、この女性はどなたですか?」 「うちの社員です」 こうして蘭の眼が光る中、店長はオーダーされたラーメンを作っていた。 「蘭さんの食べ歩きって、ブログとかにしているの?」 「ううん。面倒だし。でも全部憶えているから」 「全部憶えている……」 考え込んでいる姫野に、首をひねる蘭の前に、ラーメンが到着した。 「いただきまーすって食べないの?」 「もやし、にら、白菜……香りは濃厚……いただきます」  蘭が食べる様子を、姫野はじっと見ていた。 「白濁したスープは濃厚だけど、野菜からにじみ出る甘さがそれをうまく打ち消している。この甘さは……何だろう……根菜の味……ニンジンですか?」 「そうです!」 「白みそは……関西風かな?」 「困りましたね。ここまでわかっちゃうんですか?」 「美味しいですよ。うん!スキです私」  ズルズルと食べる蘭に、姫野は嬉しくなった。 「さすが高橋だ。小花だとこうはいかないもんだ」 「何を言っているんですか。すずちゃんの方が可愛いし、気が利くし」  すると風間が、蘭に向かった。 「そんな事ないですよ。さっきの電話もそうだし。眼薬だって一人で挿せるんですから。蘭さんだって負けてないですよ」 「風間さん……眼薬はさせなきゃダメでしょ」 「いいや。お前は優秀だ。何が合ったか知らないが、もっと自信を持て」 「……実は私、失恋したばっかで……」 そういって泣きながら彼女は麺をすすった。 「……というわけで、私の方から振ったんですが、やっぱり寂しくて」 「そうか……失恋は辛いよな」  食べ終えた姫野は、そういって水を飲んだ。 「俺なんか毎日小花ちゃんに失恋してるから、わかるな、その気持ち……」 三人はふうと息を吐いた。 「しかし。風間の言う通りだ。高橋には高橋の良さがきっとあるぞ」 「じゃあ、言ってみてください」 「そうだな。健康的だ」 「どうせ太ってますよ!」 「先輩は黙って!蘭さんは、そうだ!ラーメンに詳しいじゃないですか」 「詳しくても。もてるわけじゃないし」 「いいや。もてる」  姫野は意地の悪い笑みを浮かべた。 「何を言ってるんですか、先輩?」 姫野はそういってスマホを取り出した。 「お前達は『夏山愛生堂麺同行会』という組織を知っているか?」 「俺は知りません」 「私も聞いたこと無い」 「……俺達営業の者は、得意先のドクターから美味しいラーメン店を聞かれる事が多々ある。さらに北海道に出張でやってきたメーカーさんも同様だ。しかし、ガイドブックや空いている店が良い等と我儘注文が多いのが悩みの種だ」 「確かに」 「さらに。仲が悪いドクター同志が逢わないように、密かにメンバーは連絡を取り合っている。本社では俺のそのメンバーの一人なんだよ」 「道理で先輩って、ラーメン店詳しいと思った」 「高橋!お前、夏山愛生堂麺同行会、略して『愛麺会』に入ってみないか?」 「うちが?」 何げなく誘う姫野に蘭は驚きの顔を見せた。 「ああ。最近は女性ドクターもいてな。情報収集に苦労していたんだ。女性の高橋が加入したら、みんな喜ぶし。西営業所の反町、豊平の竹野内。白石営業所の三上がいるぞ」 「すごいメンバーですね」 「ああ。俺は会計担当で、今度『麺会』を開かなくてはならないんだが、忙しくてほら、メンバーからメールで催促が来ている」   蘭は姫野にスマホを返すと、椅子に座りなおした。 「うちに何かできるのかな」 「出来る!お前のその舌で愛麺会を支えてくれ」 これに風間はため息をついた。 「先輩、それってただ蘭さんに会計を任せたいだけじゃないですか」 「風間は口を出すな!」 「いいですよ。私、別に暇ですし」 「そうか。じゃあまず、麺会だな。麺バーにお前を紹介しないと」 「この店でやればいいんじゃないですか?」 「ナイスだ高橋!いいですか、店長」 喜ぶ姫野に蘭は淡々と続けた。 「そして今、みなさんにメールで予定を聞いて、日時を決めましょうよ」 「おお、お前と言う奴は……指が震えてきた」  蘭の手際の良さに、さすがの姫野も動揺を隠せなかった。 「お前という新麺バーに、みな喜んでいるよ」 「楽しみです。じゃあ、私の知っている女性にお薦めのラーメン店をピックアップしておきます」 「……高橋。お前も良い女だな」 「え?いきなりなんですか」 会計をしている風間を外で待っていた姫野は、つぶやいた。 「そうやって一生懸命頑張っている姿に、人は魅力を感じるものだ」 「姫野係長は、すずちゃんのそういう所が好きなんですね」 「ああ。あいつはいつも精一杯、必要以上に頑張っているから……」  そういって星空を見上げた。そんな姫野に蘭は語った。 「私。今まで自分なんか大した事ないって思ってましたけど。頑張ってみます」 蘭もおなじく空を見上げた。 「期待しているぞ……お。風間が来たから送るぞ」  姫野の運転で自宅まで送ってもらった蘭は、風呂を済ませ寝る支度をし、さっそく自室でお薦めのラーメン店をまとめた。 「良い女か」  そんな事を言われた事の無い蘭は、ベッドに寝転んだ。小花の代わりにゴミ集めをした肉体疲労が今頃襲ってきた。 「でも、お前だもんな……姫野係長、はっきり言うぜ、まったく」  ベッドの上で気休めにストレッチをした。 「あ。そうだ眼薬だっけ」 薬局で出された薬の袋には、小さな薬が入っていた。 「涙の成分か……」  挿した後、涙のように顔に伝った。 「今何時だろう……もうこんな時間?寝よ」 これを拭き、明りを消して彼女は布団に入った。 この夜。 彼女の目を濡らしたものは、これだけだった。 完
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