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77 あべちゃん
「失礼します。あ、いらしたんですか、では後で」
「いや。いいんだよ。いいんだよ。お入りなさい」
そういって彼は小花を手招きした。
「今日はいい天気だから、来たんだよ」
「そうですわね。あの、このお部屋暑くないですか?」
今日も真夏日の予想の札幌。
高齢の阿部監査役、社員達の隠れネーム『あべちゃん』の部屋の小花は、空調を確認した。
「寒いから消したんだよ」
「いけませんわ。設定温度を変えましたので。これは付けたままにして下さい」
そして小花は清掃を始めた。
「あの。秘書さんは?」
「ああ。眼科の診察券を出しに行ってもらったんだ」
そういいながら阿部は、湯呑を手に取った。
「まあ。お茶なら私が淹れて来ますわ。どうぞお待ちくださいませ……」
小花は廊下にでて給湯室でお茶を淹れ、阿部の部屋に戻った。
「お待たせしました。あら、窓を開けたんですね」
「年寄りは冷房が苦手なんだよ」
そういって彼は熱いお茶を飲んだ。
「阿部様。今朝のお薬はお飲みですか?」
「あ?また忘れる所だった」
小花は今度、水を持って来た。
「……ありがとう。家にいる休みの日は飲むのを忘れちゃうんだけど、会社にいる時はあなたが教えてくれるから飲み忘れがないんだよ」
そういって丸薬を飲んだ。
「今は何時かな」
「もうすぐ十時ですわ」
「今日も暑くなりそうだね」
そういって彼は老眼鏡を掛けて医療新聞を読み始めた。そんな彼の邪魔をしないように小花は掃除をし、部屋を後にした。
その数日後。
清掃員の部屋の内線が鳴った。阿部監査役からだった。
「もしもし。はい、いきますよ……。小花ちゃん。あべちゃんが呼んでるよ」
「はい。行ってみますわ」
阿部のいる五階の部屋を彼女はノックして入った。
「失礼します。清掃です」
「ああ。掃除はいいから、入って入って」
阿部は小花を手招きした。
「これね。バームクーヘンをもらったんだけど、私は甘いものは医者から止められているからさ。あなたにあげるよ」
「嬉しいのですが。いいのでしょうか。いつもこんなに頂いて」
「いいの。いいの。みんなで分けて食べなさい」
「ありがとうございます。あの、今朝のお薬は?」
「あ?ほら。また忘れてた……」
小花は彼に薬を飲ませていた時、彼がスマホを操作していたことに驚いた。
「阿部様はスマホにしたんですか?」
「そうなんだけど。私にはちっとも使えないんだよ。重いし邪魔だね、これは」
以前のガラケーを結構使いこなしていた阿部を想うと、小花は気の毒に思った。
「ところで。秘書さんはどちらですか。今日のお昼の手配は?」
「秘書はもうすぐ帰って来るはずなんだけど。じゃ、自分でやろうかな」
あべちゃんは会社に居る時は、卸センターの食堂からざるそばを出前してもらっているのだった。
「そのスマホでお電話してみましょう。まず、そのボタンですわ」
「うんうん。ここだね」
小花に指示されながら彼は電話を掛けることができた。
「……そう。ネギを多めにね。よろしく……」
「お見事ですわ!」
無事に電話が出来た事を拍手で褒められた阿部は、恥ずかしそうにした。
そこに秘書が戻って来たので、小花は礼を言い、部屋を後にした。
「戻りましたわ」
「今日はバームかい」
紙袋の中を吉田は覗いた。
「はい。お昼休みにみなさんと分けますね」
「でも元気そうだね。会社に来るなんてさ」
あべちゃんは転んで足の骨を折ってしばらくお休みしていたのだった。
「でも眼科や耳鼻科にお通いで秘書さんは診察券をお出しに忙しそうですわ」
「あの秘書はいつも暇そうにしているから、あべちゃんが来た時くらい働いてもらわなとね」
5階に部屋を持つ役員は、阿部監査役。夏山社長の叔母の相談役。そして卸センターの避難訓練で火元にされた常務の三人になる。監査役も相談役も毎日出社するわけではないので、常務と慎也の男性秘書二人の面倒を見ることになっていたのだった。
「あの。あべちゃんは何のお仕事をされているんですか?私にはただ薬を飲みに来ているようにしか見えないんですけど」
「あべちゃんはね……」
一応正社員の吉田は彼の経歴を語った。
「夏山の遠い親戚でね。ずっと銀行員だったんだけど、定年後にホクレンとか札幌証券とかの役員をしていたんだよ。今はもう年だけど色んな所に顔が利くみたいだよ」
「あのあべちゃんがですか……」
スマホに四苦八苦している彼からは想像つかない小花だった。
その頃……。
「え?なんですって。もう一度言って下さい」
「社長。冬川薬品の倉庫が火事で燃えているそうです」
秘書の声に慎也は窓の外を見た。
「ここからじゃ見えるはずない、か」
「先程、消防から要請が入りまして、冬川の分も薬の緊急手配に備えて欲しいということです」
「それはもちろんだが、冬川さんも大変だろうな……」
「社長、失礼します」
常務が入って来た。
「私から冬川へコンタクトを取りましたが、火事よりも放水のせいでシステムがパーのようです」
「システムがパー?」
「はい。恐らく復旧するのに時間が相当掛かるでしょね」
「これは大変だな」
「……社長。西営業所の所長から電話です。冬川に来るはずの注文がもう、うちに来ているみたいです」
「出来る限り対応するように云って下さい。じゃあ、市内の営業所も、みんな同じ事か」
「どうしますか……あ、お待ちください。もしもし。はいそうです……」
常務は掛かってきた電話に出た。
「他の卸売りにも同様の注文が入っていますね。ですが急に云われても在庫が無いようで。ほとんどがうちに注文が来ると思います」
「わかりました。では、市内の所長を呼んで下さい。会議で話し合いましょう」
この慎也社長の指示に、秘書は動きだした。
「社長。私は情報収集と、救急病院関係にこの件を通達してきます。外部関係は私が対応します」
「お願いします。とにかくうちは冬川さんが復活するまで、その分は絶対カバーしますから。そこのところだけは宜しく!」
「わかってますよ。では!」
そういって常務は出て行った。
「しっかし。これは大変な事だな……」
慎也は一人デスクに座り、想いをめぐらした。
……しばらく会社が使えなんじゃ、どこかに倉庫とか借りるしかないよな……。
もしも夏山が同じ目に逢ったらどうするかな、と慎也は考えていた。
……薬の在庫は無事なんだし。システムがパーなだけで、きっと配達はできるんだよな。
それに冬川さんは漢方薬の在庫はうちよりもあるから。うちがその在庫を買い取るっていうのもありか……。
うーんと彼は椅子に背持たれた。
……でもな。なんか仕事を奪っちまうみたいで、嫌だな……。
彼は立ち上がると、窓の外を見た。日が西に傾き始めていた。
……そうだ。場所だけ貸してあげれば、向こうは普通に営業ができるな。待てよ……。
夢中でこれを考えた彼は、秘書に肩を叩かれるまで時を忘れる程だった。
そして夕刻5時。
緊急所長会議にて慎也の提案で夏山の豊平営業所をまるっと貸す事となり、その手続きに夏山ビルは大騒ぎになった。
そして六時。
「良いか宿直当番の三名よ。今宵は冬川と現在パニックになっている豊平営業所の夜の緊急手配の医薬品の配達は、我らの腕に掛かっている!心してかかれ」
「あの。すみません。早速注文受けたんですが、ここは冬川さんの得意先で俺達も知らないクリニックですけど」
「どら俺に貸せよ?よし。俺が行ってくるか……」
そう言って石原は配達に行った。
「くそう……俺には、俺にはまだ注文は無いのか?」
バンバン電話が鳴っており、それをメモしながら配達する薬を整えている社員
に渡はいらだちをぶつけた。
「……ここに並べました、箱に張ってあるのが届け先、あ?」
配達用の箱を受け取った渡はまるで石原と競うように、出かけて行った。
その頃……。
「社長。冬川さんの在庫を受け入れるには、行政の手続きがいるようですね」
常務からの電話に慎也は椅子に座った。
「どんな手続きなんですか?」
「自分も詳しくはわかりませんが、消防の人がそんな風に云っていますね」
「もう役所は閉まっているし。これは緊急事態なんだけどな」
「こちらは善意でやっているのに、何かの違反になったら困りますよ。あの、そうだ?阿部監査役は?監査役ならこういうのに顔が利きます」
「利くの?あの顔が」
「はい。一発ですよ」
「わかった。俺からあべちゃんに頼んでみます」
時計は七時。でも阿部は帰っている時刻だった。慎也は彼の携帯に電話をしたが、出なかった。
自宅の電話も出なかった。
「ええ?どこにいるんだよ?こんな時に……おい!あべちゃんの行き先を知らないか?」
慎也にあべちゃんを探すように云われた男性秘書の西條と野口は一応彼の部屋に向かった。
しかし。居るはず無かった。
「自宅の電話も出ないし、スマホも出ないか」
「GPS機能で分かんねえかな」
「奥さんを亡くして一人暮らしだもんな」
「そうだ?あの掃除の女の子なら知ってるかもしれないぞ」
小花の連絡先を知らない西條は、知っていそうな蘭に電話をした。蘭は勝手に小花の連絡先を教えてたく無かったので、小花から西條に電話をして欲しいと依頼した。
『もしもし。小花です。なにかピンチと伺いましたが』
「そうなんだよ。あのあべちゃんのいそうな所って知ってますか」
『もうこの時間はお家にいると思いますよ』
「でも自宅の電話も携帯も出ないんですよ」
すると小花は軽く答えた。
『自宅の電話はオレオレ詐欺や勧誘がうるさいので出ませんよ。それにスマホの使い方がわからないので鳴っても出れないのですわ』
「わかりました。ではあべちゃんの自宅に行ってみます」
『御待ち下さい?最近のあべちゃんは娘さんのお家にいるんですわ』
「マジで?その家って分かりますか?」
『はい。あの、皆さん。あべちゃんにお急ぎのご用があるんですか』
「そうです!俺達は急いでいます」
「まあ。それは大変ですわね……」
おっとりしている小花に、西條はイライラしてきた。
「あの。早く教えて……」
『私。今あべちゃんの娘さんのお家の近くにいるんです。よければ私があべちゃんを迎えに行きますか?』
「小花さん!お願いだから早くあべちゃんにコンタクトを取って下さい!」
西條から電話を奪った野口はそう叫ぶと、電話を切った。
「……すまない。限界だった」
「いや。俺なので気にしないでください」
二人が部屋をウロウロしていた時、西條のスマホが鳴った。あべちゃんからの電話だった。
「阿部監査役ですか?ああ……実は緊急事態でして」
思わず床にヘタり込みそうになった西條を抱えて、野口は社長室へ戻って来た。そして慎也に電話を替わった。
「もしもし。あべちゃん?あのですね。そういうわけで手配をして欲しいんですよ。え?電話で済むんですか?方法は何でもいいですけど。じゃ。こっちに来なくてもやってくれるんですね?わかりました。あの今夜はこの電話に出るようにして下さいね。また……」
そして慎也は秘書と供に豊平営業所に向かった。
その頃……。
「ずいぶん騒がしいですわ」
「まったくだよ。若い人はすぐ急かすから。あ、どうぞお上がんなさい」
阿部の娘さんの家の客間に通された小花は、お茶を勧められた。
「あ。スマホが鳴ってますわ。私、出ますね、もしもし、はい。今代わります、どうぞ」
小花が代わりに電話に出てくれるのであべちゃんの手配はスムーズに進んでいた。
そしてあべちゃんの代わりに電話を掛け手伝ったおかげで、この作業は三十分で終わった。
「今度は報告か。面倒だな」
「でもまた電話が着たら嫌ですわ。こちらから掛けて今夜はもうお休みになった方がよろしですわ……はい、これは社長へ電話を掛けました」
「そうだね……あ。もしもし。行政と業界の手配は済んだよ。これで心おきなくおやんなさい。僕は疲れたからもう寝るね。明日は会社に行くから詳しい事はその時に。じゃ」
阿部はそういって電話を切った。
「ご立派ですわ」
小花の頷きにパジャマ姿の彼はハハハと笑った。
「はいはい。お二人とも。御夕飯にしましょうね」
「まあ。私の分も?」
阿倍の娘は、小花にも用意してくれた。
「そうだ。阿部様。お薬は?」
「あ?また忘れてた……今夜は本当に助かったよ。あなたがいなければ僕は秘書に会社に連行される所だったのだから」
「清掃員の私でお役に立てれば光栄ですわ。さあ、お水です」
「ありがとう。優しいあなたの行いちゃんと皆の力になっていますよ」
「嬉しいですわ。そうだ、娘さんも一緒に水で乾杯しましょう。ね?」
こうして二人は静にテーブルを囲んだ。
夏山愛生堂の札幌にいる社員は騒動員で必死に働いている時間。
阿部と小花はこうして楽しい夜を過ごしていた。
完
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