92 夏山の日常

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92 夏山の日常

「渡部長。おはようございます」 「お嬢。富良野はいかがでしたか?」 緑深い札幌、朝の中央第二営業所。一人で道新を読んでいた渡はバサとこれを避け清掃女子に笑顔を光らせた。 「楽しかったですわ。風間さんも嬉しそうでしたよ。ほら」 そういって彼女はスマホの画像を見せてくれた。 「……これは……風間の写真ばかり……なぜこれを私に?」 寝ている風間、食事している風間のオール写真集に驚き顔の渡に小花は微笑んだ。 「だって、渡さんは風間さん想いなんですもの」 「何か大きな誤解をされてはいませんかな」 すると小花は掃除をしながら語り始めた。 「いいえ。私は知っています。ポンポコ祭りの時も一生けん命歌っておいででしたし、それに富良野の旅行も風間さんの分は、渡さんが手配されたと伺っていますわ」 「……失礼ながら大きな誤解があるかと思われますが、お嬢!私は、あの、お嬢の」 この時、中央第二営業所に電話が鳴った。 「くそ。こんな時にテレフォンとは……もしもし……」 こうして彼女は渡の仕事を邪魔しないようにそっと営業所を後にした。 本日は慎也が会社にいる日。中央第一の清掃はとっくに済ませた彼女は、慎也達のいる階の清掃は吉田に任せ、自分は5階の良子部長のいる財務部へ向かった。 「おはようございます」 オープンフロアで働く社員達は忙しそうにしていた。 「え?『襟裳(えりも)昆布(こんぶ)』ですか?そんな部署はありませんけど……。ああ。営業本部(えいぎょうほんぶ)ね、少々お待ち下さい……全く、訛っているから、何を言ってんだがわからないわ……」 そんな電話の女子社員の横のゴミ箱のゴミを小花は回収して行った。その隣では言い訳とお叱りの声が飛んでいた。 「だってお金を細かくして来いって」 「確かにお金を細かくして来いっていったけどさ、シュレッダーでどうするの!」 叱られている社員の横を小花は見ないように通った。その隣では電話対応をしていた。 「また誤配ですか……間違いばかりですみません。申し訳ございません。当社からお詫びの品をお届けさせていただきますので……え?それを誤配したんですか?」 驚いている社員の横をすっと小花はモップを掛けた。その隣の女子社員は受話器を持ち、フロア内の人を探していた。 「……はい、夏山愛生堂です。いつもお世話になっております。部長ですか?ええと……」 部下は受話器を抑えて、部長に目でメッセージを送っていた。しかし、これが部長には伝わらなかった。 「誰からだ?相手の名前と用件をちゃんといいなさい」 高圧的な態度にむっとした女子社員ははいそうですか、とすまし顔で対応した。 「わかりました。お電話はススキの『スナックろくでなし』のママさんからです。ツケがどうのって言ってますが、金額を聞きますね、あの」 「あああ!でかい声で話すな!代われ!もしもし……今夜行くから。もう会社に電話しないで……」 ここも忙しそうなので小花は邪魔にならないように、手早くゴミを集めた。 「良子部長、おはようございます」 「はい、おはよう。お昼休みに富良野の話聞かせてね……あ、伝票が合ったんですけど、これは赤伝を出して相殺すればいいの?え……無かった事には出来ないわよ……」 ここもまた忙しそうなので、掃除をあっという間に終らせて彼女は廊下に出た。 「あ、阿部様」  廊下の隅にあるコピー機コーナー。ここにあるシュレッダーの機械に高齢のあべちゃんが書類をどんどん入れていた。 「清掃員さんか。おはよう」 「おはようございます。阿部様」 「これさ。一度使ってみたかったんだよね。面白いね、この機械」  そういってあべちゃんは書類をどんどん機械へ入れて行った。本当にそれを廃棄してよいのか小花には関係ない事であるが、やけに量が多かった。 「そうだ。後で部屋に来なさい。プリンがあるんだよ、それとね……」 嬉しそうにあべちゃんは話始めたが、小花には恐ろしい光景が飛び込んできた。 「キャ―ー?!ストップですわー?!」 「え?」 あべちゃんのネクタイが書類と一緒に刃に引き込まれていく地獄絵図に、小花は慌てて機械に駆け寄り停止ボタンを押した。 「はあ、はあ」 「どうしたの?あ、これか……アハハ、危なかったね。僕、死ぬ所だったな」 のんきな世界で生きている老人の危うさに、さすがの小花も汗が出た。 「阿部様。この続きは野口さんにお願いした方が良いですわ。さあ、お部屋に戻りましょう」 まだシュレッダー遊びをしたがっているあべちゃんを何とか部屋に連れて来た小花は、今の話を内線で野口に伝えた。そしてプリンを受け取ると、5階の立ち入り禁止の部屋で一休みしていた。 「お疲れ様。役員のフロアは掃除終ったよ。あとは宿直室だね」 「後は宿直室ですが、今の時間は、社長がお風呂に入っていますものね」 これが終らないと掃除が出来ないので、この部屋は午後に清掃する事に、吉田と休憩となった。 「ところで富良野は楽しかったかい。あ、お土産ありがとうね」 「お天気も良かったし。楽しかったですわ」 「姫野君と進展あったのかい」 「進展とは何のことかしら……」 この様子になーんにも無かったんだな、と吉田は思った。 「まあいいさ。私は屋上見てくるね」  部屋を出て行った吉田に微笑むと、小花はまた雑巾を縫い始めた。 こんな感じでお昼休みになった。 吉田は5階の部屋で昼寝をするので、小花はお弁当を持って女子社員がたむろする休憩室に顔を出した。 「あ、来た。ねえ、富良野はどうだった?」 小花の顔を見るなりみな富良野、富良野と煩かった。そんな興味津津の彼女達に小花は出来事を話した。 「あのさ……ずいぶん黒沼さん、ぐいぐいキテない?」 「キテるよ。完全にロックオンして来たな」 飯をかき込む美紀と蘭は、小花の話に目を輝かせたが、良子はこれに手を振った。 「無理よ、無理!小花ちゃんには姫野君がいるんだもの」 「でも良子部長。黒沼さんもワイルドでカッコ良いですよ」 「どれどれ、写真を見せなさいよ……」 良子は蘭から回っていた小花のスマホの写真を見た。 「え?小花ちゃん、こんなカッコ良い人と一緒に馬に乗ったの?……ヤバい、心臓がドキドキしてきた」 「それにさ。織田さんも結構本気かも……そうだ!小花ちゃんあのね、今日さ」 蘭は一部焦げた卵焼きを食べながら、午後に北海道銀行の人達が夏山ビルにやってくると話した。 「なんかノルマがあるって言うからさ、合コンの時に協力するって勢いで言ったら、本当に頼まれたのよ。私以外にも財務の社員もその積立貯金を申し込むんだけどさ。小花ちゃんに会わせろって聞かないんだよ」 明らかに小花狙いの道銀戦士の訪問に胸を弾ませる蘭に、小花は素気なく答えた。 「道銀って花壇の時の人ですわよね。そうですか、私、貯金はできませんが、挨拶くらいしますね」 すると良子は小花の配ったラベンダーのチョコを食べていた。 「小花ちゃんのファンは増える一方ね。ま、適当に返事して置きなさいよ、あのさ、これ美味しいね?もう一つ食べよっと」 こんな感じで昼休みは終った。そして午後。彼女はようやく宿直室の掃除を始めた。 ……まあ。お兄さまったら。 下着を置いたままで、小花の洗濯した下着を今回も着て行った。ちゃっかり清掃員に甘える兄の慎也に彼女は思わず微笑んだ。 「そして……お土産はよし、無いわね」 慎也に買って来たお土産が消えていた。受け取ってくれた嬉しさを胸に彼女は掃除を始めた。 そしてこれを終え、正面玄関を通った彼女は道銀の二人に声を掛けられた。 「まあ、その節は。これから蘭さんの所ですか?」 「いいえ。もう済んで帰る所です、あ、小花さん、お話し宜しいですか」 するとこの時、中央第一のドアが開いた。 「何、こんな所で立ち話なんかして。良ければ、会議室どうぞ」 松田の促しにより三人は会議室へ入った。 「お忙しい所すみません。すぐに終りますから。小花さんは道銀の口座はお持ちですか」 「はい。お年玉専用の口座ですけど」 「現在我々はネットバンクの普及に取り組んでいまして、ぜひアプリをダウンロードしてご利用いただきたいのですよ。便利ですよ」 「ネットバンクって。スマホでやるやつですよね」  なぜか悲しそうな顔の小花に、道銀の二人は驚いた。 「ど、どうかしたんですか」 「だって……」 彼女は話だした。 「私、最初のお給料は日数が中途半端だったので、現金手渡しだったんです。それがとても嬉しくて、今でも日を決めてわざわざ窓口で引きだしているのです」 「いますよ、そう言う人」 「そうでしょう?それにティッシュとか、お菓子をくれるんですわ。しかも私のメインバンクの友ちょ銀行の方は、『今月もお疲れ様でした』って言ってくれるんです。だから……ネットバンクになったら、そういうのがなくなって……お二人にも逢えなくなるのですか?」 この発言にぐっときた二人は、息を整えた。 「大丈夫ですよ。どんなにネットが発達しても、銀行員は存在します」 「本当に?窓口に行けば、お逢いできますか?」 「はい!待っていますよ。小花さんの事を」 「良かった……」 胸をなで下ろしている彼女に、二人はほっとした。 「私も積立貯金に協力したいのですが、来年二十歳になるので、これからは国民年金を払わないとならないのですわ。それを考えると今は何もできないのです」 「いいんですよ!?無理しないで下さい」 「そうです。そうです」 この時、松田が飲み物を持ってきてくれた。 「遅くなってごめんなさいね。道銀さんだったんですね、そうだわ。あの、教育ローンについて何ですけど……」 松田が道銀マンに訊ねている間に、小花は席を外し、戻って来た。 「あ、戻って来た。私の話は済んだわよ」 道銀マンも帰る所だった。小花は紙袋を手渡した。 「あの、これよろしかったら、支店長さんへ渡して下さい」 「うちの支店長に、これは」 小花の持って来た夏山愛生堂のサーモンピンクの紙袋には、薬のサンプルが大量に入っていた。 「パソコンで目が疲れるとおっしゃっていたので、眼薬……あとは肩がこるとお話しされていたので、湿布も。他には冷房で喉が痛いそうなので、のど飴ですわ」 「あ、りがとうございます」 「たくさんあるので皆さんでお使い下さいませ。支店長様に宜しくお伝え下さいね」 こうして道銀マンは小花に見送られて、夏山ビルを後にした。 彼らを見送った小花は中央第一で松田と一緒に富良野の土産を食べていた。 「失礼します!あ、小花ちゃん。社長知らないかい?」 慌てた西條が飛び込んで来たので、松田はお菓子を喉に詰まらせる所だった。 「内線借りますね……もしもし吉田さん。小花です」 この間、西條は小花が食べようとしていた富良野のお菓子を勝手に食べた。 「うまい!西條、感激!」 「社長を至急お願いします……もう、西條さんたら」 あきれた小花の頭を、西條は優しく撫でた。 「そんなに怒るなよ。アハハハ。じゃ俺は秘書室にいるんで」 彼は白い歯を見せて去って行った。松田もため息をついた。 「西條さんって。もっと落ち着いた人かと思っていたわ」 「元気過ぎていつもバタバタですよ。野口さんに注意されていますもの」 「野口さんと言えば、コーヒーマイスターなんでしょう?そんなに美味しいコーヒーなの?」 「美味しいですよ……お砂糖が入って無いのに甘くてまろやかで」 「飲んでみたい。今度もらってきて欲しいな」 すると小花は首を横に振った。 「こだわりのある方ですので、難しいですわ。非常に繊細な方なんですの」 「バタバタと神経質か……あ、帰って来た」 中央第一営業所に、石原が戻って来た。 「無いんだよ。どこを探しても……」 挨拶もせず石原は自分の机の引き出しを開けた。松田が気にした。 「何が無いんですか」 「得意先の先生に頼まれていた奴でな、風間に買ってきてもらった育毛剤だよ……おっかしいな……」 「……それは昨日、先方に届けましたよね?喜んでもらったって、言ってましたよ」 松田の指摘に石原は、やっと思い出した。 「そうか!?俺、違う先生に渡しちまったんだな……また、用意すればいいか。よし!風間に頼もうっと」 今度は姫野が戻って来た。 「お疲れ様です、松田さん、ホワイトローズクリニックのドクターの娘さんがバレーの発表会があるそうなので花を届けたいんですよ。場所はここで日時はこれで。手配お願いします」 「予算は三千円でいいわね。手配しておきますね」 「それと石原部長。ススキノの例のクリニックの件ですが……」 忙しくなって来たので小花はここを出て、地下の配送の掃除をした。 ここも配達の車が行き交い、上階とは別の会社のような雰囲気だった。 それでも顔なじみのトラックの運転手や、事務のおばさんに声を掛けながら彼女はゴミを集めて行った。 こうして今日も清掃を終えた彼女は、夏山ビルを後にして、大通り公園まで一人歩いてやってきた。 「やあ。今日はうちの社員がお世話になったね。それに薬をありがとう」 「頂き物で恐縮ですわ」 テレビ塔と噴水が踊る北海道銀行の前の花壇に、支店長が佇んでいた。 夕暮の道銀の花壇と夏山愛生堂の花壇は、小花の手入れより他の会社の花壇の花よりも綺麗に咲いていた。 「……花だけでなく、私の事も気遣ってくれるとは。本当にうちの正社員にななって欲しいですよ」 「まあ。御冗談を」 そう微笑む彼女の横顔に、支店長は寄りそった。 「『花は裏切らない』。なぜなら愛情を注いだ分だけ咲くからです。これだけ美しく咲くのは、あなたが愛情を注いでいる証です」 「お恥ずかしいですわ」 頬を染めた彼女に支店長は続けた。 「部下からネットバンクの話しはききました。お金は大事なものですよね。便利を先行し、人の心を置き去りにしないように、私も反省しました……」 「支店長さん?」 この時、ガラス張りの銀行から先程の二人が出て来た。 「どうもです!……そうか。ここで二人は逢っていたんですね」 「人聞きが悪いな?彼女は花を植えた後も、こうして手入れに来ているんだよ」 「そうだったんですか?うわ……俺達は目の前なのに。すみません」 支店長にたしなめられた社員は恥ずかしそうに頭をかいた。 「いいんですよ。私、ここは通勤で通りますし、好きでしているので。皆様には皆様にしかできない重要なお仕事をして下さいませ」 「君達、夏山の女神はこう言っているぞ」 「はい……あ、自分は業務に戻ります!じゃ、小花さんまたね」 「あっと。自分も戻ります。今日はありがとう!今度連絡するね!」 こうして新人銀行マンは会社へ戻って行った。 「やれやれ……あなたはわが社の花も咲かせてくれそうですよ」 「何のことですか?」 「ハハッハ。これを差し上げますよ。ミュージカルのチケットです。楽しん出来て下さい」 「これを私に……でも積立貯金もしておりませんわ」 遠慮する支店長は首をゆっくりと横に振った。 「それ以上にもっと。大事なものを頂戴しました、あ、飛行機雲だ……」 「本当だ。明日も晴れですね……」 オレンジ色の空の下の大通り公園の花壇には、色鮮やかな花が溢れていた。 そんな中で、彼女も生き生きと、咲いていた。 92話「夏山の日常」完
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