1 北に来ないか

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1 北に来ないか

……いい加減にしろ……  どこかで、誰かの声がするけど……。誰? その時、車内に『ピンポーン!』と音が鳴り驚いた。 バスの席で爆睡していた宮下美羽(みやしたみう)は体を起こそうにも眠くて力が入らなかった。すると急にシトラスのコロンの香りがした。 ……いい香りで気持ち良い……はて、枕にしているものは何かしら。こんな丁度良いクッションなんて、あったかな…… やがてこれは隣席の人の肩だと気が付いた私は、また……寝た。 もうすぐ春だというけれど、如月の雨は道を冷たく黒く染めていく。マフラーをぐるぐる巻きにするけれど、足元の寒さは変わらない。制服のスカートはこの寒気に対応できないようだ。バスに早く来てもらうしかない。それ以外、思い浮かばないのである。 高校三年生の私、宮下美羽は傘をさしてバスを待っていた。吐息が白い。夜半から雨が雪になるかもしれない、と気象予報士が言っていたことを思い出していた。夜半って何時だろうかと、ぼんやり考えながら立っていた。 道路を挟んだ向こう側の軒下には、冷たい雨を避けて、雀が集まってきている。寒さをしのぐためにくっついているようで、微笑ましい。だが、その光景をカラスがやってきて壊してしまった。カラスから目線を落とすと、黒に染まる道路につい、ため息がこぼれてしまう。 学生の彼女はこんな寒い日は、家に帰ってコタツに入りたいところだが、今日もそうはいかない。雨脚が強まり寒さが限界に近くなってきた頃、待望のバスが来た。彼女は傘をしまい乗り込むと、後部座席に座った。 バスの中は暖房が利いていて暖かったので覆っていたマフラーを緩めた。結露で曇る窓ガラスの向こうは商店街。派手な看板を眺めていると、思わずあくびが出てきた。急に疲れが押し寄せてきた彼女は少し目をつぶって休むことにした。暖かいバスは乗り心地良く夢の世界へ誘っていくのだった。 ……やばい。知らない人なのに…… 寝た振りをしながら美羽は、自分の右腕がひじ掛けのように隣人の膝に載っていることを知った。加えて、この見ず知らずの人に思いっきり全体重をかけており、これはクッションにしていると同じレベルだと思った。 あまりの恥ずかしさに起きることができず、寝ている振りをする。というか、真実を認めたくない彼女が薄目で見ると、黒いズボンがみえた。堅い肩の雰囲気から、これは男性。彼女はバスが赤信号で止まった時をきっかけに、何気なく体を起こした。 よだれが垂れていないことは、不幸中の幸いだった。やがてバスは彼女の降りるバス停に近づいていた。彼女は勇気を出した。 「……すみませんでした」 「……」 美羽は恥ずかしさに肩を貸してくれた隣人の顔をみることもできず、頭を下げ、そのままバスを降りた。 バス停は佐藤外科の正面玄関前。冷たい雨風の中、彼女はバスの中に傘を忘れていたことに気が付いた。お気に入りであったので自分の愚かさを呪った。 母親の真羽が交通事故で入院して一週間経った。自転車に乗っていた母と自動車による交差点の事故。転んだ母は、腰の骨にひびが入る重傷。そんな中、父親は、外国へ長期出張中で不在。彼女は家事と小学生の弟、翼の世話をしなければならなくなった。期末テストもあるし、加えて生徒会活動も先輩からの引き継ぎもあるし。母の事も心配だった。 学校帰りに来た病院は診療時間を終えており、誰もいない総合受付を横目に、階段を上る。このほうが母の部屋に近かった。やがて四階の母の部屋をノックした。 担ぎ込まれた時、大部屋が満室だったので、この個室を使わせてもらっている。もちろん料金は大部屋と同じにしてもらう約束だ。 「失礼します……」 彼女は母が寝ているかもしれないのと思い、小声で挨拶をし、そして静に入っていった。 「……美羽?ちょうどよかった……」 母は寝ているどころか、少しだけベッドを起こしていた。しかも見たこともないおじさんが座っていた。美羽は交通事故の関係者かと思った。 「おう。お前が美羽か」 白髪に皺だらけの目元。煙草の香りがする。襟に毛が付いた作業風のジャンパーを着ている。満面の笑みだが、彼女は面識が一切なく、首をかしげてしまった。 「お母さん?あの」 「ごめん。お父さん。美羽には何にも話してないの」
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