第1章

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 さいしょ会ったとき、その人はすごくいごこち悪そうだった。  じっとしててもべとべとしちゃうような8月の夜だったのに、スーツを上着まできていて、あたしがへやに入ったらドアからにげるみたいに後じさって、まっ赤なベッドの横のまっ赤なソファにすわった。きちんと両手をひざにおいたけど、あたしが近づくと、はっとかたをゆらした。まるでこわい歯医者さんのじゅん番が来て、とうとう名前をよばれたときみたい。  それまであたしは6人れんぞくショートで、特にさっきのおじいさんがしつこくって何度も何度もいろいろされてへとへとだった。だから、その人がすごくこまった顔で、  「時間まで、何もしないでいいですか」  っていいながら、お札をくれたときはうれしかった。あたしはお金をもらって、  「いいですよ」  っていって、じむ所に電話をして、タイマーを90分にセットしてから、少しはなれたじゅうたんにすわった。  たまにこういう人がいる。それって、おすもうで相手がけがかなんかして自動的に勝ちになるやつ、あれとおんなじですごくとくした気分になる。  「今日もあつかったですね。おふろにお湯入れますか」  あたしが立ち上がりかけたら、あわてたみたいに、その人は手をふった。  「あ、いいえ、風呂もちょっと」  左のくすり指がきらっと光った。あたしははじめてちゃんとその人を見た。  お客さんのこと、たいがいはちゃんと見たりしない。あたしはばかだから、仕事のじゅん番をまちがっちゃうことがよくある。だから、まちがわないようにまちがわないようにって考えてて、よゆうがないのだ。でも、このときはなにもしなくていいからよゆうがあった。  すてきな人だった。スーツもバッグもネクタイも、まっ黒でさらさらなかみがぱらっとおでこにかかった感じも、すてきだなって思った。きっとおくさんを大事にしてるんだろうな、やさしいパパなんだろうな。  ひざをつかんだまま、じっとひざを見たまま、その人はいった。  「……えっと、はずみで……友だちが勝手に呼んでしまったんです。ぼくはずいぶん酔っていて、電車が……時間まではここにいないといけないわけで」
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