第1章

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 その人のずぼんは苦しいぐらいぱんぱんになっててかわいそうだったけど、あたしは気づかないふりをした。「男ってのは、心と体は別々なんだ」って、おかあさんに教わってたからだ。みじかいスカートの女のそばで男の人のあそこがぱんぱんになるのは、うめぼしを見たら口につばがたまるのとおんなじで、別にその女が好きだからじゃない。  「ねえ」  急によばれてはっとした。  その人は赤い本をとじてひざにおいていた。まじめな顔で、あたしを横からのぞいて、  「今の職業を、やめるわけにはいきませんか」  って聞いた。あたしはうつむいて、  「あたし、ばかだから、」  っていうのがやっとだった。  そしたら、その人はせすじをまっすぐのばして、きっぱり、  「君はばかではありません」  っていった。  「たった二回で、お話のセリフをそらんじた。五回で、ほとんど全部覚えてしまったじゃありませんか。君は頭がいいんです。事情があって学校に行けなかっただけだ。でも、学校ならこれからだって行けます。とにかく、今の職業はやめたほうがいい。これ以上、体と心を傷つけてはいけません。君は、自分で選びながらちゃんとした人生を歩むことができる人です」  一息でいってから、ちょっとはずかしそうに声を小さくした。  「いきなりごめん、でも、よく考えてください」  バッグからメモ用紙をとり出した。数字が書いてある。  「困ったことがあったら、この番号に電話してください。電話はできますか」  数字も電話もわかる。仕事でいるから、おかあさんが教えてくれた。  あたしはぱっと顔を上げた。  「はい。あなたの電話?」  その人はもっとはずかしそうに声を小さくした。  「あ、いや、君みたいな子を助ける活動をしている団体につながります。みんな親切な人たちです」  「そうですか」  メモを受けとって、あたしは数字をじっと見た。  「どうもありがとう」  小さくたたんで、そっとバッグの内ポケットにしまった。その人のくれるものなら、なんでもうれしいはずだった。  その人は赤い本をあたしのひざにのせた。  あたしはタイマーを見た。また、あと3分だ。タイマーをとめてバッグにしまった。本もしまおうとしたけど大きくて入らなかったので、ふくろに入れた。紙のがさがさする音がへやじゅうひびいた。  じゅん番どおり、あたしはじゅうたんに正ざしておじぎをした。
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