2人が本棚に入れています
本棚に追加
/132ページ
ずっと塞いでいた母親が前を向いて歩き出したのは、彼女の身体の中に新しい命が宿ったとわかった時だった。
姉の死から一年以上経っていたから、さすがに母親も、最低限の会話と家事くらいはこなすようになっていた、哉菜が小学校二年の九月。学校から帰るとあれ以来はじめて、母親が玄関まで出迎えてくれた。哉菜は嬉しくなって、いろんな話をした。その日の出来事だけでなく、一ヶ月くらい遡って沢山話して、母親もちゃんと聞いてくれて、相槌を打つだけでなく、時折続きを促したり、質問したりしてくれて、それがさらに哉菜を喜ばせ、饒舌にした。夕食の仕度をする時も、いつもなら邪魔になるから部屋にいなさいと言われるのに、その日はまとわりついてどれだけ話しても、怒られるどころか、笑い声さえ含ませて話を聞いてくれた。話している最中、泣きたくなるくらい、嬉しかった。実際、気付かれないように涙を拭っていた。
父親が帰って来て、食卓に三人が揃うと、母親は、はじめて見る、幸せそうな表情で二人に言った。
「赤ちゃんができたの」
呆然とする哉菜の目の前で、両親は喜び合った。
頭の中からすべての言葉が抜け落ちて、口が開かず、夕食にも手が付けられなくなった。
両親の声が、言葉ではなく、音として耳に入ってくる中、
(食べなきゃ)
漸く言葉が戻った次の瞬間、母親が言った。
「紗絵の生まれ変わりね」
その後の記憶がない。
最初のコメントを投稿しよう!