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遥か南の地に二つの月が現る時、その月光を浴びた海水はなににも勝る万能薬となる。
その名は、人魚の涙。
ジリジリと肌を焼く強い日差しが目の前の海に惜しみなく降り注ぎ、エメラルドグリーンの光を生み出している。鼻腔を擽る磯の香り。鼓膜を震わせる波の音。
全てに舌打ちしたい気分だった。
───
ここは地図にも載らない遥か南の最果て。
ノワは海老がたっぷり乗ったパエリアと名産だという海水で造った酒を煽りながら、眉間に深いシワを寄せて陽気な住人たちを眺めていた。
数えるほどの住人しかいないこの孤島に、二つの月が現れるという。
嘘か真かは知らない。
それでも、迷信に頼るしか手立てはない。まだ幼い妹の心の臓を食らっていく病魔に効きそうなものは、こんな迷信以外にはもうなにも残っていなかった。
「やぁニイちゃん。そろそろ酒も入って気分も良くなって来たろう。来な、一緒に踊ろう!」
でっぷりと太った中年の男は真っ赤な顔をして危うい足取りだ。
皆友人である住民たちは、ノワのような極稀な客人を招いてこうして村の中心で踊り唄いながら飲み明かすのだという。そうして親睦を深めるのだとか。
ノワは手に持ったグラスを置き、立ち上がる。
馬鹿馬鹿しい。
俺はここに遊びに来たんじゃない。
そんなノワの態度にも男は気を悪くした様子もなく、都会モンはシャイだなぁとまた危うい足取りで輪の中に戻っていった。
その後ろ姿が小さくなるまで見届けると、ノワは宿に戻り、夜風に当たって酔いを覚ます。南の果てだから気温は高いが、海が近いせいか夜は冷えた。薄手の上着をひっ掴み、再び外へ出ると、潮の香りが微かに漂ってきた。
「何処へ行きなさる?」
それは嗄れた声だった。闇に紛れてその姿はよく見えない。
「今夜は月が出ておる。海辺には近付くでないぞ。」
人魚に喰われてしまうでな。
闇に慣れた目が少しだけ捉えたのは、重力に逆らえなくなった頬が垂れ下がりぎょろりと零れ落ちそうな大きな瞳を恐怖に戦慄かせた、小さな老婆だった。
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