第1話

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馬鹿馬鹿しい。 ノワは海辺を目指した。 人魚など、存在するはずがない。ましてや人を喰うなど、化け物じゃないか。 人魚の涙だって、そう呼ばれるだけでただの海水だ。そうに違いない。 そして眼前に広がる昼間とは違う顔を見せる浜辺で、ノワは虚しくなって視線を落とした。三日月の僅かな月明かりで砂がキラキラと光っていた。 その、ただの海水を回収しに来たのだけど。と。 バカな迷信を頼りにせず、妹のあと僅かな時間を側で過ごしてやれと怒鳴る父の声が木霊した気がした。 一歩踏み出すと、波が打ち寄せてノワの足を濡らした。 月が二つ現れるなんて、そもそもそこから嘘臭い。どうかしていたのかもしれない。父の言う通り、余命僅かな妹に絵本でも読んでやる方が余程有意義だったろう。 せめて何か土産になるものを持って、今からでも帰ろうか。 そう思って、何か、例えば綺麗な貝殻とかそういったものが見つからないかと辺りを見回した時だった。 数メートル先にある巨岩に浮かぶシルエット。 人に見えた。けれど、その人影にあるはずの脚は見えない。見えたのは、大きな魚のような影。 「人、魚…?」 ノワの声に反応して、その影はバッとこちらを振り返った。 頼りない月光でも十分に照らされた青のような紫のような、不思議な髪。この常夏の気候には不自然な程白く透明感のある肌。そしてその肌によく映える、真っ赤な瞳。 それは酷く幻想的な光景で、ノワは一瞬己の中の時が止まったのを感じた。 その一瞬だった。 人魚のように見えたその生き物は、一瞬のうちに海に飛び込み、バシャンという水飛沫だけを残して消えてしまった。 呆然とその残像を眺めながら、ノワはすっかり妹への土産も忘れ、気がつくと宿に戻り朝を迎えていた。
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