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そのことばが聞こえたとき、あたしはなにもいわなかった、たぶん。いったかもしれないけど、覚えていない。やっぱり口ではなにもいえなかったと思う。いや、きっとそのときはなにも思ってない、そう思ったって後で思っただけだ。そのときのあたしは、時間も、ものの形も、どこにいるのかも、なにもかもわかんなかった。あたしの肉もほねもかみもつめもどろどろににとろけていた。
気がつくと、もとどおりことり荘のへやにいて、もとどおりふつうの体でいることがふしぎでたまらなかった。
あたしは、海でそうなんして砂浜に打ち上げられた人みたいだった。とても動けないって思った。
けど、譲次さんはそうじゃなかった。あたしからはなれて、よろよろ立ち上がった。
「えりす、今までのことは全部忘れてくれ。全部なかったことにして、最初からやり直せば、きっと君は幸せになる」
体じゅうの血が冷たくなった。譲次さんのいい方はまるでお別れだ。
いい方のとおり、譲次さんは手早くしたくをして自分のバッグとコートを持ってきた。
「譲次さん」
あたしがよんだのに、あたしのほうを見なかった。コートをはおってボタンをぜんぶとめた。
「工場の人たちと仲良くするんだよ。勉強はずっと続けなさい。図書館に行って本をたくさん借りて読みなさい。お金はできるだけ貯金して大事に使うこと。ご飯は毎日きちんと作って食べるんだよ、野菜と、背の青い魚を意識してとるようにしてね。困ったことがあれば、すぐ高橋さんに相談しなさい。大丈夫、えりすはいい子だから、友だちも、大事な人も、きっとすぐにできる」
こういうことを譲次さんは、ちっともあたしを見ないでいった。そうして、げんかんまで行った。
「譲次さん!」
あたしはさけんだ。立ち上がれないで、ばたばた手とひざでおいかけて、やっとコートのすそをつかんだ。
「行っちゃうの? あたしのこときらいになった?」
譲次さんはまっ赤な顔をうつむけて、やっぱりあたしを見ない。大きく首を横にふった。
「僕は悪だ。君にはふさわしくない。君を傷つける最低のダメ男だ」
「そんなことない、譲次さんは世界で一番いい人だよ、あたし、譲次さん好き、大好き、はじめて好きになった人だよ」
さけんだあたしの目を、やっとまっすぐ見てくれた。やっぱりこの人の目は、まっ黒でつるつるですごくきれい。
ゆっくり口が動いた。
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