第1章

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 「妻が、妊娠した」  コートをつかんだまま、あたしの体は動かなくなった。  譲次さんのほっぺは、笑うみたいにひくひくした。  「これでわかったろ、僕が最低のダメ男だってことが。口ではさんざんきれいごとをいいながら、君に会った後は激しく欲情した。たまらなくなって、妻とセックスしまくったんだよ。偽善者とすら呼べない、畜生以下だ」  いいながら、ほんとにくっくっくって笑いだした。  「今だってそうだ。きっとこれから僕は妻を襲う。彼女の体調なんてみじんも考えない。そうしないと、どうかなってしまう……ははは」  笑いながらあたしの手をコートからはずして、それからくつをはいた。  どうしてこんなときに笑うんだろうって、あたしはふしぎだった。譲次さんがかわいそうでたまらなかった。  「体に気をつけて」  譲次さんの声は遠くで聞こえた。  「さよなら、えりす」  ドアがあいて、しまった。  譲次さんのいいつけを守って、あたしは工場でみんなとなかよくしようとした。毎日ごはんやおべんとうを作って食べ、お休みの日にはとしょかんで本をかりて読んだ。  でも、うまくいかないことのほうが多かった。工場の人たちは親切でがまん強かったけど、友だちって感じにはならなかった。あたしがいつまでもミシンの下糸をつっぱらかしたり、はぎれせん用のロットに別の部分を入れちゃったりするせいだ。オムライスは何度作っても丸まらないし、ドストエフスキーは手に持っただけでねてしまう。  毎日朝と夜、あたしはふとんの中で譲次さんのことを思い出した。思い出すと決まってなみだがこぼれて、体のしんがむずむずした。むずむずは、あそこをふとんにぎゅうぎゅうおしつけないととれなかった。おしつけると気持ちがよくなってびくびくってなるけど、そのあと決まってすごく悲しくなって、すごくよごれた気持ちになって、また泣いた。  そういうくりかえしの日が何日も何日も何日も、何日も何日もつづいた。これからもずっとつづくのかなと思った。それとも、少しずつなれていくのかな、いつかはなれるんだろう、でもなれたら、譲次さんのことを考えても泣かなくなる、そうなったら、まわりの色がぜんぶ消えちゃうって、あたしは思った。  日よう日、あたしはとしょかんへ行った。  5冊かりて、自動ドアから出ようとして、  「あ」  って声を出してとまった。  雨がざんざんふっていた。
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